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綾子

 綾子について話しておこうと思う。


 彼女は俺にとって出来すぎた妹だった。文武両道で、山の頂きに孤独に咲いた花のように、俺以外の他人を寄せつけない気高いオーラを放っていた。


 そんな孤高タイプの綾子がぼっちになるのは時間の問題だった。小学校の頃こそ、その特異なキャラクターは漠然と受け容れられていたようだが、問題は三つの小学校から生徒が集まる中学校に上がったときだった。綾子はそこではじめて異質な他者と出会ったのだ。


 異質な者たちはしかし、クラスの多数派であった。


 綾子は彼ら彼女らに疎まれ、文字どおり一番後ろの席で壁の花となった。


 普通の人間ならそこで妥協をする。多数派に媚びて、仲間の輪に入ろうとする。


 けれども綾子はそうしなかった。初めて出会った他者を拒み、自分の殻に閉じこもった。剣道の道場ではそんなマイペースが許される。しかしクラス政治の世界では、他者を拒絶した人間は嫌われるしかなくなる。綾子はクラスの中心人物たちに目をつけられ、つけいる隙を粗探しされた。敵対者が見つけたのは、俺という兄の存在だった。


 同じ中学に通うようになってから、綾子は授業が終わると決まって俺のクラスに現れ、「一緒に帰りましょう」といってきた。俺にとってそれは、綾子独特の親密さを表す自己表現にすぎなかったが、彼女のクラスメートはそうは受け取らなかったらしい。兄への過剰な依存と理解し、早速綾子をいじるネタとし始めたのだ。


 ――ブラコン女。


 それが彼女につけられた蔑称だった。


 すぐに気づけば避けられただろう。けれど俺は、綾子へのいじりがいじめに変わるまで、彼女が陥った苦境を知らなかった。何かがおかしいと思った頃には、綾子はクラスの中心人物たちから異常な人間として祭り上げられていた。勿論それは、悪い意味での祭りだ。


 祭りは容易く炎上に変わる。俺が気づいたときには、綾子の周囲は悪意によって紅蓮の炎が燃え広がっていた。いじめはエスカレートし、ある日「目を覚まさせてやる」というひと言から、バケツに入ったトイレの水をぶっかけられたらしい。「らしい」と推量で言うのは、俺自身それを伝聞で聞いたに過ぎないからだ。その頃になると、綾子はクラスで弁当を食うのをやめ、俺と一緒に外で食べるようになっていた。だから昼休みのとき、水びたしの彼女と出会って驚愕したのだ。何気ないいじりが、最悪のいじめに発展していることに。


 俺はすぐさま綾子のクラスに乗り込み、主犯とおぼしき奴の胸ぐらを掴んで恫喝した。俺としてはひと言文句を言い、二度といじめは繰り返さないと誓わせるつもりだったが、客観的には脅し以外の何ものでもなかったろう。


 綾子をいじめた主犯は、クラスを牛耳るひとりの女子だった。最初はシラを切り続けていたのだが、俺が本気だと知ってそいつの顔は青ざめた。


 妹のいじめに兄が介入したところで、根本的な解決にはならない。全てが終わった今だからこそ、そう思えるが、当時は無知だった。何より妹が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかなかった。


 綾子をいじめた女子は、俺の暴力に屈し、二度といじめはしないと誓った。


 たぶん、涙さえ流していたと思う。俺の本気に恐れを抱いて。


 教師による介入ならまだしも、兄による制裁は綾子のクラスでの立場を決定的なものとした。いじめがなくなった代わりに、誰も綾子に近づかなくなった。ただでさえぼっちだった綾子は完全に孤立した。俺と一緒に登校し、授業を受け、一緒に弁当を食い、授業が終わったら一緒に帰り、剣道の道場に通う。俺と道場の人間としか関わらなくなった。それは問題を暴力によって解決した代償だった。


 しかしそれ以外の手段が何か残されていただろうか。非暴力を貫き、ただなすがままにいじめを受け容れるクールな綾子。彼女は自分が受けた被害なら、それを粛々と受け止める異常さがあった。家族以外の人間には読みづらい表情を浮かべ、エスカレートする一方のいじめを避けることもしない彼女。俺はそんな綾子に代わり、抵抗の意志を示しただけだ。少なくともそのときの俺はそう自己肯定し、綾子を救った気でいたのだ。


 そしていつしかその代償は、俺の頭にも降り注いだ。


 綾子のクラスに兄妹のいる奴が俺のクラスにいた。そいつは俺が振るった暴力を妹経由で知り、諍いの種を俺のクラスに持ち込んだ。


 ――シスコン兄貴。


 今度は俺が蔑称で呼ばれる番だった。綾子同様、クラスで浮いていた俺だが、つけいる隙がないうちはただ放置されていた。しかし一度弱みを握った連中は、俺をいじるネタを見つけ、小躍りして喜んだ。単純な話、俺は奴らの遊び道具になったのだ。


 そんな連中のなかには、俺の幼なじみも加わっていった。ぼっちな俺が、クラスで唯一言葉を交わす人間だった。信頼だって少しはあった。けれどもその彼女が俺に敵対する形になって、俺は人間を信用できなくなった。彼女は俺を嗤う側に回った。


 嘲笑を素直に受け容れれば、いじめにまでは発展しなかったろう。けれども俺は、我慢というものを知らなかった。暴力による解決は綾子の件で懲りていた。だから平等な裁定を求めて、真っ先に教師に訴えた。それが最悪の解決法だったことも知らずに。


 教師に咎められた彼ら彼女らは、俺をいじめる理由を手に入れた。教師にチクる最低のクラスメート。連中は歯止めを失った。俺へのいじめはより過酷なものとなった。


 毎朝登校すると、黒板には「近親相姦カップル」と書かれた罵倒があった。俺は毎日、それを消すのが日課となった。黒板消しを持った俺の背後では、首謀者たちの潜めた笑い声が聞こえていた。誰がやったかは明白だった。俺の幼なじみはチョークを手に、へらへらと笑っていた。けれど俺は、暴力以外の解決法、教師に訴えかける以外の手段を模索し、それが出るまでは黙っていじめを受け容れた。


 暴力を振るえば、裏目に出る。非暴力を貫けば、つけあがる。


 俺は頭がさほどよくはない。だから答えが中々出なかった。


 そのうちに、クラスメートたちのいじめはどんどん酷くなっていった。黒板にはやがて「もうヤッたの?」と書かれるようになった。シスコン兄貴をなじるものして、言葉の暴力は辛辣をきわめた。


 肉体的な暴力も発生した。体育の授業のとき、バスケットボールのプレーで俺はあからさまなファールを食らった。俺は何人もの人間から激突され、床に転がった。そして足蹴にされた。サッカーのときも同様だった。いつのまにか俺は青あざだらけになった。


 一番堪えたのは、妹を馬鹿にされたときだった。登校した俺の机に、ある日マジックで書き込みがあった。そこには卑猥な女性器のマークとともに、「妹のエイズが移って韮沢死亡」と書かれていた。その汚れはどんなに雑巾でこすっても消えなかった。


 俺はそのとき以来、精神的に体調が悪くなっていった。弁当も喉を通らず、授業も上の空だった。体調不良を理由に道場も休むようになった。たぶん、パニック障害というやつを発症していたのだと思う。毎日学校に行く頃に手足が震え、呼吸が激しく乱れた。


 そんな俺に、連中に抵抗する力など残っていなかった。クラスの中心人物である女子が男子に指示を出していた。男子は俺という遊び道具を手に入れ、猿のように喜んでいた。


 男子たちは俺をいじめる最低の方法をめぐって競争し始めた。弁当をトイレに流す奴がいると思えば、殺虫剤を持ってきて「除菌だ」と言って吹きかける奴もいた。


 ある日、その殺虫剤攻撃にライターで火をつけた奴がいた。霧状の液体は火炎放射器のような炎を上げ、俺の制服を焼いた。燃え広がる前に消し止めたが、連中は俺が必死になって火を消すさまがお気に召したのか、その遊びを何度も繰り返した。制服は焦げ跡だらけになり、俺は火傷を負った。放課後なので教師は気づかなかった。俺は制服を水道で洗い、火傷を癒しながら、遂に死ぬことに取り憑かれた。理性は風前の灯だった。俺は自分に向けられた悪意に疲れきり、自殺をすれば助かると確信を抱くようになった。


 その日、俺は妹を心配させないためにひとりで下校した。けれども妹は、下駄箱のところでそんな俺を待ち構えていた。水びたしの俺に驚き、


「誰がこんなことを……」


 眉をひそめた妹の顔は、憤激に染まっていた。


 原因を辿っていけば、俺が妹のいじめを止めたところに遡るが、俺はどんな状況説明も口にしなかった。怒りに震える彼女を尻目に、俺はただ黙々と歩いた。どんな手段で自殺すれば、最も楽に死ねるだろうか。俺は過呼吸に襲われ、何度も立ち止まりながら、この苦しみから永遠に逃れる手段だけを模索し続けた。死ぬのが怖いという感情はすでに灼き尽くされていた。俺はただ安寧を求めた。


 綾子はそんな俺を見逃さなかった。


 今度は自分の番とばかりに、翌日彼女は俺のクラスに乗り込んできた。


 ちょうど昼休みの時間だったので、教師はいなかった。俺の弁当は例によってトイレに流されており、同時に食欲もなかったので俺はただ呆然と席についていた。


「ニラレバ、これ食え」


 俺の蔑称とともにいじめのグループから何かが飛んでくる。それはミートボールだった。


 肉団子は俺の顔にヒットし、連中は手を叩いて喜んだ。それは一種のゲームだった。俺の体に当てれば十点。顔に当てれば五十点。そんな遊びを奴らは楽しんでいた。


 俺の幼なじみは、次の肉団子を掴んで狙いをつけていた。


 綾子がやってきたのは、まさにそのタイミングだった。


「……私の兄さんに何してるの」


 肉団子当てを目の当たりにし、綾子は顔を紅潮させていた。


 俺は心配をかけまいとしていた妹の登場に狼狽していた。こんな場面を見られたら、確実にいじめの事実が晒される。彼女にはそれを知られたくなかった。


 けれど体が動かない。口も開かない。綾子を前にして俺は無言だった。


 そこから綾子が繰り出したのは、俺が彼女を助けた場面の再生だった。


「きのう、兄さんを焼いたのはあなたね。許せないわ」


 綾子はひとりの男子の胸ぐらを掴み上げた。正確にいえば、そいつは俺を焼いた犯人ではなかったが、彼女の怒りは冷静さを欠いていた。俺の声など耳に入らない。


 激高した綾子による盛大な暴力が始まった。胸ぐらを掴み上げられた男子は綾子の拳をくらって一撃で沈んだ。返す刀で側にいた女子を張り倒す。たとえ女子といえど、お構いなしだった。


「兄さんに酷いことをしたのは誰?」


 ぐるりと見回す綾子に答える者は誰もいない。


 俺をいじめていた連中はひと塊のグループを作って弁当を食っていた。ある者は箸が止まり、ある者はご飯を頬張ったまま絶句していた。綾子はそいつらを順繰りに睨みつけながら、さらなる暴力を浴びせた。


「ぶへッ……!?」


 俺をいじめていた幼なじみの顔に、弁当箱をめり込ませる。そいつは椅子ごと後方にぶっ倒れ、綾子に足蹴にされた。幼なじみは死んだ虫のように動かなくなった。


「この野郎……!!」


 ようやくひとりの男子生徒が綾子に反撃を試みたが、その努力は無駄に終わった。空中で一回転した彼女の後ろ蹴りを思いきりくらったからだ。そいつは壁際まで吹き飛ばされ、食べたばかりの弁当を吐き、涙をこぼした。


「許せないわ。殺してやる」


 物騒なことを言うものだが、綾子の暴れぶりに俺自身なすすべがなかった。彼女はただ怒りに駆られたまま、次々と俺のクラスメートを殴り、床には奴らの体が骸のように転がっていった。それは強者が弱者を屠り続ける絶対的な暴力だった。


 強い妹に守られる倒錯した気分とは、まさにこのときの感情をいうのだろう。


 俺は暴力に枷をはめたが、綾子はそうしたリミッターを解き放ってみせた。


 自分の妹が鬼神のごとき怒りを発したのは初めて見た。そのとき以来、俺の綾子を見る目は変わった。一つ年下の可愛い妹――そんな偶像は打ち壊された。一旦怒ると手をつけられない、俺の理性によって諌めるべき対象となったのだ。


 実際は、俺が咎める前に綾子は停学になった。俺はそんな妹に、まっさきに礼をいった。行動はどうあれ、綾子は俺を守ろうとしてくれたのだ。俺が認めてやらないで、一体誰が彼女を肯定してやれるだろう。


「綾子、俺はおまえに感謝している」


「感謝されるようなことはしてないわ」


「でも感謝されてくれ。そして俺が止めろと言ったら、今回みたいな暴力を振るうのは止めてくれ。おまえは少しやりすぎた」


「私はそうは思ってないわ。兄さんを精神的肉体的にに追いつめて、殺しても殺し足りないくらい。そんな相手に同情する気はないのだもの」


「同情しろとは言ってない。ただ我慢してくれ。約束してくれないと、俺が困る」


「兄さんを困らせる気はないわ」


「なら言うことを聞いてくれ。おまえには歯止めが必要だ」


 俺は綾子に礼をいいながら、同時に自制を説いた。現に綾子が暴れてからというもの、クラスでのいじめはぱったりと止んだ。そのことに感謝はすれど、やり方は最悪に近かった。おかげで俺は、中学のあいだ、パーフェクトなぼっち生活を強いられた。かつては信頼を寄せていた幼なじみとも絶縁した。いじめが始まる前は、緩やかに距離を保っていた奴らとも大きな溝ができた。


 綾子の兄妹愛は諸刃の剣だった。


 悪いほうに向けば、中学時代の再来となる。


 けれど良いほうに向けば、これ以上頼もしいものはない。


 病院で目を覚ました俺を待っていたのは、後者の綾子だった。


 俺は執事でなくなった自分に空虚さを感じていたが、綾子がずっと側にいてくれたことには言葉にしがたい安らぎを得ていた。自殺さえ考えた俺を救ってくれた最愛の妹。


 ――綾子を悲しませたくない。


 それが最初の動機になった。死の淵に追いやられていた俺が、もう一度元の世界で生き抜くこと。朽ち果てる寸前だった自分をもう一度奮い立たせること。綾子の涙を目の当たりにしたからこそ、俺は死線をさまよったみずからの体を起こし、医師の指示した長く苦痛なリハビリを受け容れたのだった。俺が妹に独特の感情を持っていたことは否定しない。むしろ今は、その絆だけが俺を回復させる力となっていた。

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