半年の眠り
目覚めると、俺は夢の中にいた。
だから正確には目覚めていないのだが、俺はなすすべもなくその夢を見続ける。
最初は夕暮れの場面。ベアト様の告白だ。彼女は俺に「好きだ」と言って、琥珀色の髪をなびかせ、夕日に染まった顔を向ける。
俺は金縛りにあったように動けない。口もきけない。これが夢である証拠に、俺が押し黙っていても状況はどんどん進んでいく。ベアト様は「返事は修学旅行の最終日に聞かせてくれ」と言って、小さく笑んだ。そして場面が切り替わる。
次は異世界のイギリスに着いたばかりの場面の再生。月と一緒に馬車に乗り、俺はぽくぽくと歩く馬の振動に揺られ、彼女の横顔を見ている。相変わらず声は出ない。俺は現実に体験したのと同様、どこに連れて行かれるのか気持ちが不安定になる。
月から視線を逸らし、重い息をつくと、またしても場面が変わった。今度は地下決闘場でのやり取りだ。俺は雪嗣に代わってリングに上がり、ニコラスに正対する。手には老人の杖。その感触はリアルだった。俺は全力で地面を蹴り、そして別の場面が現れる。
ガーデンパーティの夜、俺は紫音と踊っている。トントンツー。リズムに合わせて歩調を重ね合う。俺は彼女を抱きかかえ、曲が終わるまで踊り続ける。
そしてその夢に、とうとうアルが現れた。彼は「君のことが好きだった」と口にし、儚い笑みを俺に向かって浮かべた。アルの好きは本気の好きだ。そんな彼の告白に、俺は答えることができない。現実でもそうだったように、夢のなかでも動揺を隠せない。
その沈黙は、俺の無力さの証明だった。俺は異世界で何人もの仲間の記憶を集めてきたが、結局のところ、何ひとつ満足な結果をもたらせなかった。手に入れたのは頼りない絆のみ。俺は元の世界に戻ることをひたすらに願い、あわよくば仲間たちの帰還を助けられればと思っていたが、事をなしたのはカーソンだ。彼は魔術師として術式を組み上げ、俺たちを元の世界に戻してくれた。俺はあいつに頭が上がらない。
そこまで考え、ふと気づいた。ここがカーソンによって飛ばされた元の世界ではないかという可能性に。
しかし視界に映るのは走馬灯のようなものばかりで、俺は肝心の視界を回復することができない。ただ、意識だけは徐々にはっきりとしてきた。
おかげでしばらくすると、目が開けられた。そこは真っ暗な闇だった。
走馬灯ですらない。俺は目が見えなくなっていたのだ。
「――……――……」
そして口を利くこともできない。体は硬直し、身動きもとれない。まるで拘束具か何かで全身を固定させられたかのように。
ただ、ひとつだけわかったことがある。俺は元の世界で死んでいなかった。
死んでいれば、異世界に戻ってしまうはず。しかしそうはならなかった。
おそらく瀕死の重傷を負い、この体たらくはその代償だろう。
「――……――……」
俺は無言のまま、心の中で喝采を上げる。俺は生きていた。あれほど酷い目に遭ってなお、生を保つことができた。だから元の世界に戻ることができた。
視野は暗闇で、言葉も発せられないが、それはじきに回復できる可能性がある。
俺は自分の生存を心から感謝し、ふたたび夢の世界に落ちていった。
次に目覚めたとき、俺はわずかながら声を発することができた。
最初の覚醒から一体何日経ったかわからないが、俺は人間としての機能の一部を取り戻すことができた。声を出せるということがこんなに喜ばしいことだったとは。俺は自分に回復を与えてくれた神に感謝し、
「――……――……」
戻ったばかりの声を闇雲に発する。まだ言語の体をなしていないが、それでも呻き声だか喘ぎ声だかわからない声が出た。俺はそれを何度も繰り返した。
さらに夢に落ち、短い昏睡を経て、ふたたび目を覚ます。
「――あ……――あぁ……」
声はいつの間にか、はっきりとした発声となっていた。
視界は相変わらず暗闇だが、体の感触が戻っていた。俺はおそらく、ベッドのようなものに横たわっている。背中にそれらしい感触があった。全力を出して動こうとすると、体が少しだけ浮き上がった。それは順調な回復を意味していた。
「――……――……」
そして誰かの声が聞こえた。まだか細い声だが、聴覚はあともう少しで元通りになりそうな感覚を覚えた。俺のベッドには誰かが看病についている。そう確信できた。
やがて何度目かの夢に落ち、目を覚まし、を繰り返した。
時間の経過が段々わかるようになってきた。それは夜になると眠り、朝になると起きるを繰り返していた。なぜなら俺は朝日を感じることができるようになったから。闇に包まれた視界だが、朝日はそこに明らかなる光をもたらした。
その日は、朝から体調がすぐれていた。ベッドの中で動くことができ、室内を動く人の音が聴こえてくる。薄くなった闇のなかで俺は誰かの影を見た。その影は、俺の額に手をあてがい、何か独り言のようなものを呟いていた。
「――……――……」
その声は「兄さん」と言っているように感じられた。
額に置かれた手は、次第に俺の顔を撫で、慈しむような温かさをもっていた。
ようやく、人間の体温のようなものまで感じ取れるようになったのだ。
瀕死の重傷だったとおぼしき俺が、ここまで回復するまでに一体どれくらいの月日が流れたのだろう。昏睡という名の夢を経て、俺は遂に視界を取り戻した。薄い膜のようなものの向こう側に輪郭をもった人間の姿が見えた。それは俺がよく知る相手だった。
「――兄さん……――……」
俺を呼ぶ声は「――きょうは元気ですか?」と言っていた。
間違いない。彼女は俺の妹だ。俺は妹に看病されていたのだ。
うちは父がいない母子家庭だ。母と妹と三人。それが俺の家族。母は女手ひとつで俺たちを育てるべく、とある一部上場企業で働いている。年中仕事に追われる多忙なキャリアウーマンだ。結果、俺の看病は妹の役目になったのだろう。学校もあるというのに、こうして甲斐甲斐しく面倒を見て、俺の回復を待ち続けてくれたのだ。
「――綾子……――……」
全身の力を喉に集中すると、まるで壊れたヴァイオリンのようなしゃがれ声が妹の名を呼んだ。
「――玲兄さん……――……?」
綾子が反応し、俺の名を呼び返してきた。
視界が開け、妹の顔が見えた。艶やかな黒髪からのぞく顔は、流した涙で濡れていた。
「――よかった……――兄さん……」
綾子は俺の体に抱きつき、強く抱擁する。制服越しに彼女の体温が伝わってくる。
「――戻って……――これた……」
たどだどしい言葉を発しながら、俺も溢れる涙が止まらなかった。妹の前にもかかわらず、恥ずかしげもなく号泣していた。
さよならを言うこともできず、死線をさまよった俺。愛する家族たちにどこまで心配をかけたのか、もう想像を絶している。でも死なずに、もう一度会うことができた。その喜びだけで俺の体は打ち震えたし、涙腺は決壊していた。
「――心配……――かけたな……」
俺は綾子に抱きしめられながら、彼女の献身に感謝していた。
「――ううん……――いいの……」
俺の胸で綾子が首を振る。何度も何度も、俺の胸に顔を埋めて。
だが、意識がはっきりした途端、俺のなかで急速に疑問が膨れ上がった。
「――他の……――連中は……」
「――なに……――……?」
「――他の連中は……――平気なのか……?」
死線をさまよったのは俺だけではない。クラスのぼっちたち。そして俺の仲間たち。
彼ら彼女らは、果たしてどうなったのか。自分のこと以上に、みんなが平気かどうかが気にかかった。
「――……――……」
妹はそこで口をつぐんだ。俺に言えないことでもあるかのように。
「――いいんだ……――教えてくれ……」
俺は答えを促す。押し黙っていた綾子はやがて小さく口を開く。
「――他の方たちは平気……――ただ……」
「――ただ……? どうした……?」
「――……ネヴィルさんが――……亡くなりました」
ネヴィル。つまりアルのことだ。
彼は自分の意識に関係なく、この世界に戻ってこられなかった。
その事実は、俺を打ちのめした。決壊した涙がまた、喘ぎ声と共に溢れてくる。
「――それと……――ネヴェリーノさんが……」
妹は次いでベアト様の容態について口にした。
「――まだ昏睡状態で……――いまも病院で眠ってる……」
ベアト様は元の世界に残ることを選んだ。だから目覚めることはないのだろう。
「――死んだのは……――アルだけか……?」
「――はい……――……」
アル。俺のご主人様だった奴。
彼が元の世界で永劫の死を迎えたことに、俺の胸は張り裂けそうだった。
貴族という責に忠実で、誰よりも威厳に溢れていた。人懐っこい笑顔と、仮面の微笑を使い分け、異世界に戸惑う俺たちを、屋敷の秩序という新たなる世界に導いてくれた敬愛すべき主人。この世界ではもう、彼に会うことはできない。
「――アル……――どうして……」
涙に暮れる俺の頭を、綾子があやすように撫でてくる。
俺の妹は、俺より遙かに心の強い人間だ。だからこんな真似ができる。悲しみに打ち震える俺を、優しく受け止めてくれる。綾子がいてくれなかったら、俺はアルの喪失に我を忘れ、取り乱していたかもしれない。
「――アル……――アル……!」
俺は悲しみを吐き出すように、何度もアルの名前を呼ぶ。
ベアト様以外にも、ぼっちな俺を好きだと言ってくれたのがアルだ。その想いはすれ違ってしまったけど、きっと俺は別の形でアルのことが好きだったのだろう。
「――兄さん……――今は悲しんでいいのよ……」
「――すまん……――こんな体たらくで……」
元の世界に戻ることは、きっと何かを失うことが対価として求められるのだろう。
できれば、全員生きて戻りたかった。それが自分のエゴだとわかっていても、俺は最良の結末を望んでいた。妹のハンカチで涙を拭かれながら、俺は異世界に行ってからというもの、自分がどれだけの愛を積み上げていたのかを深く悟った。
「――今は……――何年だ……?」
「――事故から半年以上経ったわ……――もう年が変わるところ……」
「――そうか……――……」
事故に遭ったのが初夏だから、計算的には間違っていない。
俺はそんなにも長く眠り続けていたのか。
だが、意識が回復するにつれ、俺は平静を取り戻しつつあった。アルとは違い、この世界で生き延びたという仲間たち。あいつらの顔が見たかった。そして自分が生きていると教えてやりたかった。俺同様、この世界に戻る意志をもった者たち。それぞれ目的は違うだろうが、俺はあいつらの元気な顔が見たくなった。
「――綾子……――他の連中は……?」
「――なに……? ――兄さん……」
「――他の連中に会いたい……――できるかな……?」
「――中野さん、黒石さん、飛さん……――学校に復帰してるわ……」
「――俺だけが……――眠っていたわけだ……」
「――でも目覚めたわ……――もう一度、会うことができる……」
「――そうだな……――おまえともまた会えた……」
今度は綾子の涙を手で拭い、俺はできるだけ気丈に振る舞った。
おそらくこの世界で、俺を一番心配していたのはこのよく出来た妹だ。綾子はぼっちな俺には過ぎた妹だった。その証拠に何度も看病に来てくれて。視界が闇に閉ざされているなか、何度も見た影はきっと彼女のものだったのだろう。
しかし俺は、そんな妹の姿を見て、なぜか満足してしまった。最愛の家族に会うこと、そしてもう一度言葉を伝えることで、俺が願ったことの大半はもう叶ってしまった。
おまけにあいつらの顔を見たら、俺はもうこの世界に残る動機を失うだろう。自分の回復を喜ぶと同時に、ここに守るべきものがあるのか、執事だった頃のように責任を感じるものが手元にあるのか、俺は不安にかられた。
俺にとって異世界での経験は、それほどまでに俺を変えてしまったのだった。
執事でなくなった俺。そんな俺にどんな存在意義があるのか。
虚空に呟いた問いに、答えは何もなかった。




