絶対遵守の誓い
最初は何の冗談かと思った。
けれどもいまこの瞬間、ふざけ合っている場合ではない。
見ればベアト様は眉根を寄せながら、微妙な表情で笑んでいる。
俺は想像を絶するひと言に声を失っていたが、
「あなた様が……転移?」
絞り出せたのはこれだけだった。
「ああ」
ベアト様は小さく頷き、俺の返答を肯定する。
「きっとおまえたちは、私のことを忘れているんだろう。レイ、おまえ以前言っていたな、転移者は記憶の喪失とともに欠落が生じると。私の場合、その欠落は、他者による存在認識を失うことだったんだ」
「存在認識の欠落?」
「ああ。誰も私を私だと認識できなくなることだ」
ベアト様は哀しそうな表情を浮かべ、信じがたい告白に言葉を継いだ。
「おまえたち、いや……私自身も忘れていたが、私はレイたちと同じ高校に通い、修学旅行を共にする生徒だった。アル以外にもうひとりいた交換留学生、ベアトリーチェ・ネヴェリーノ。それが私だ。イギリスに転移したことで名前が英語ふうになっていたが、私はイタリア人なんだよ。それがどうしてか、自分をイギリス人だと思い込んでいた」
混乱した俺だが、必死にベアト様の告白を受け止めようとする。
「ベアトリーチェ……?」
その名前には微かに覚えがあった。そして俺は、ベアト様が「ベアトリス」と呼ばれることを拒んできた理由が腑に落ちてきた。彼女は無意識のうちに、自分が異なる名前で呼ばれることに抵抗していたのだろう。ベアトリーチェ。それが彼女の真の名前なのだから。
「あなたが、俺たちと同じ班だった生徒……」
「そうだ。私は修学旅行の班決めにあぶれ、おまえたちのあとについていくだけの病弱な生徒だった。病気の理由はきわめて精神的なものだ。私は鬱病を患い、常に体調が不安定だった。修学旅行初日も、体調がすぐれず、宿舎で休んでいた。でも途中で体調が戻ったから、おまえたちと合流すべく出かけることにした。そして土産物屋から出てくるおまえたちを見つけ、そこに駆け寄った。事故に遭ったのはまさにそのときだった」
「轢かれたのですか、車に」
「取り戻した記憶のとおりなら、そうなる。気づくと私は、今から三年前のイギリスに転移させられていた。本当の自分、ベアトリーチェ・ネヴェリーノではなく、伯爵家の令嬢、ベアトリス・ネヴィルとして。そしてその三年間の経験が私を変えた。病気は寛解し、安定した体調を取り戻した。なによりただ人に流されるだけの存在から、自分の意志で物事を決められる人間になった。貴族となることで私は成長したんだ。結果はご覧のとおり、おまえがよく知る、革命家志願のベアトになった」
ベアト様の告白は、ファンタジーに慣れた俺にとっても荒唐無稽に聞こえた。しかし冷静に考えてみれば、彼女は俺たちと同じ体験を辿ったに過ぎない。この世界への順応ぶりが抜きん出ているだけで、ベアト様は確かに転移者としてあるべき運命を辿ったのだ。
「私は以前の自分を変えたかった。病弱で班決めの日も休み、復帰しても誰からも相手にされなかった、完全なる空気のような存在だった自分を。アルのように明るい奴になりたかった、おまえのように気高くありたかった」
ベアト様はそこで言葉を切り、俺の顔を覗き込んできた。俺は彼女に抱きかかえられながら、自分の記憶が戻ってくるのを感じていた。堰き止めていた水がふたたび流れ出すように。それは最大の記憶喪失。自分に告白した相手のこと。
脳裏にいつかの夕暮れのシーンが浮かぶ。
俺は誰かに呼び寄せられ、放課後の教室に残った。
相手は俺にいった。「君のことが好きだ」と。
甦った記憶は、その黒い影のベールに包まれた正体を明らかにする。
俺の視線の先にあったのは、窓から吹き込む風に琥珀色の髪を翻し、ふたつの青い目を俺に向けるベアト様だった。病弱な交換留学生。ベアトリーチェ・ネヴェリーノ。それが俺に愛の告白を告げた相手。記憶の中の彼女は、夕日に頬を染めながら、力一杯手を握っていた。緊張に震えながら、上目遣いで俺のことを見ていた。
「おまえは記憶を失っていたというが、思い出したか? 私のことを」
「イエス・マイロード。はっきりと思い出しました」
ベアト様が欠落させてたのは、他者による認識。それは誰も彼女をベアトリーチェだと認識できないことを意味する。そんな孤独な存在を、俺は記憶を取り戻すことで認識することができた。ぼっちが集まった修学旅行の班。そこに加わることさえできなかった哀しい彼女のことを。そんな彼女が、俺を好きだといってくれたことを。
「なら、言うべきことはひとつだ。玲、おまえの答えを聞かせてくれ」
――答え。それが示すことは明らかだ。
俺がベアト様の好意にどう答えるかということ。
修学旅行中の俺はその返事を持て余していた。答えを出せぬまま、自分のようなぼっちが他人の好意を受け止められるのかと悩んでいた。
しかしそれから半年以上が経った。俺は異世界のイギリスで執事となり、ぼっちな自分でも主人を守り、爵位を汚す者を打ち倒せることを知った。ベアト様がそうだったように俺もこの世界で成長したのだろう。
なれば答えは出せるのではないか。俺はもうただのぼっちではない。誰かの好意に応えられるだけの力を手に入れた。他者を受け容れる心の強さを。
だからもう迷わない。俺はベアト様が革命家になることを支えると誓った。それと同じだけの想いを彼女に向ければいい。主従の関係を越えて、愛という名の下にひとりの女の子を、その真剣な告白を、全身で受け止めればいい。
「俺もあなたが好きです、ベアト様。屋敷の主人だからではなく、俺の同級生だったベアトリーチェ・ネヴェリーノとして。俺はあなた様の好意を受け容れます」
「そうか。嬉しい返事だ」
さきほどまで涙で濡れていた彼女の顔が、ふたたび別の涙で覆われていく。
そしてベアト様は、俺のことをもう一度強く抱きしめた。その抱擁はこそばゆく、しかし心のあり様が伝わってくるものであった。俺はなされるがまま、しばしの間疲弊した体を投げ出し、彼女の感情に包まれていた。
そんなときだった。ヴィンセントの骸が声を発したのは。
「グボッ……」
心臓を貫かれてなお、彼は生命力を保っていた。
「グルル……」
人語は発しないが、徐々に床から起き上がってくる。完全に討ち果たしたと思っていた俺にとってのその回復は衝撃を与えるに十分だった。
俺はさきほどの戦闘で負ったダメージが深く、容易に立ち上がれない。ベアト様は俺を庇うように抱きすくめるが、本来それは立場が逆だ。ベアト様にヴィンセントの相手はできない。俺は気合いをこめて膝をついたが、そこから動くことができない。
見れば、ヴィンセントの傷口はうごめく虫が這い回るように塞がっていった。
心臓を突いただけでは足りなかったのだ。俺は自分の詰めの甘さを悔いた。
「……殺シテ……ヤル……」
ようやく発した人語とともに、立ち上がったヴィンセントはずるずる音を立てながら、こちらのほうに近寄ってくる。ベアト様が危ない。俺は不十分な姿勢ながら、剣を構えて彼女を守る姿勢をとった。
「……ヤル……殺ス……」
荒い息をつきながら、ヴィンセントが歩いてくる。その歩みは壊れかけの機械のように遅かったが、一歩ずつ確実に寄ってくる。今度は心臓を貫くだけでなく、命の源を断ち切るようにそれを刳り出さなくてはならない。しかしこの状況でそれが可能なのか。
「玲……私に構うな」
気丈な発言が耳を打った。けれども俺は譲らない。自分が敬愛する主人を、そしてひとりの人間として愛をこめた相手を、危険な目に遭わせることほど執事として失格なことはない。このとき、俺のなかで矛盾は消えていた。俺は自分自身として、そして主人に仕えるひとりの執事として、ふたたびヴィンセントと相見えることを決めた。
「おまえのセリフはそっくりお返しするぞ、ヴィンセント」
――殺す。存在さえ残らないほどに。
そうして剣を握り直したとき、後ろで椅子が倒れる音がした。
振り返ると、カーソンが立ち上がっていた。
「レイ、ここはオレに任せろ」
言うが早いか、カーソンは敏捷な動きでヴィンセントの前に立ち塞がった。
「ヴィンセント、同じ吸血鬼としておまえのことは憐れに思うよ。だがいい加減潮時だ。大人しくあの世に行ってくれ」
カーソンが短い動作で拳を振るった。その一撃はヴィンセントの心臓にめり込んだ。
「ナ……何ヲスル……カーソン」
「心臓を握り潰す」
カーソンが力を込めると、肉が潰れる嫌な音がした。その音が聞こえたときには、もうすでにカーソンは心臓を抜き取っていた。拳に握られた命の証。
「グヴォ……!?」
心臓を抜き取られて、ヴィンセントは激しく咳き込み、口から大量の血液を吐き出す。
そしてその動きは、次第に力を失ってネジが切れたように静止し始めた。
「キサマ……人間ノ味方ヲスルトハ……ナ……」
遂に動きを止めたヴィンセントが後方に倒れる。完全に動力を失ったように。
あとに残ったのはじっとりと湿り気を帯びた静寂だった。
部屋に充満するのは生臭い血の匂い。そんな吐き気を催すものと引き替えに、ヴィンセントは殲滅された。屋敷の家令であり、同種の吸血鬼であるカーソンによって。
「レイ、ベアト様。これで憂いはなくなったぜ」
しばし眠りに落ちていた間に力を回復させたカーソンだが、その口調は弱々しい。異常な戦いの末、彼もまた極度の疲弊に陥っていたのだ。
「だがな、オレにはもうひと仕事残っている。レイ、それが何だかわかるか」
「……いえ、わかりません」
「オレにはおまえらを転移させた責任がある。たとえご主人様を延命させることが理由だったとはいえ、結果的におまえらには過酷な運命を与えちまった。元の世界で生きてるにせよ、死んでいるにせよ、因果の理は捩じ曲げちゃいけねぇんだ。そんな歪んだ世界を、オレが元に戻してやる」
「……どうやって?」
「簡単な話だ。おまえらを召喚した術式を逆にすればいい。そうすれば転移する前の世界に戻すことができる。そしてその術式を操れるのはオレだけだ。もし元の世界に戻りたいと本気で思ってるなら、帰してやる。最後はおまえらの意志次第だ」
俄には信じられなかったが、彼は言ったのだ。元の世界に戻れると。
そして疲れた顔こそ激しい消耗を物語っているが、カーソンの語調ははっきりしていた。
気休めでも何でもない。そこには事実としての確証があった。
「転移したのは八人。ルナ、ユキ、シオン、デュラハン、ヴィンセント、アル様、ベアト様、そしてレイ。それぞれが自分の意志で逆召喚を選べる。ここに残りたい奴は残る。もし元の世界に未練があれば帰る。少々力技になるが、見たところレイ、おまえのなかには魔力が充填されている。それを用いれば必要な魔力には十分だ」
「俺のなかに……魔力が?」
「ああ。異常な力が漲っている。盗み聞きする趣味はないが、さっきのおまえらの話、聞いちまった。おおかたレイ、おまえ転移者の記憶を集めていたんだろう。結果、おまえのなかではひとの意志が凝集された。しかも自分を含めて八人ぶんだ。それはな、おまえが想像もしない途方もない魔力になりうるんだよ」
「確かに、記憶集めはしていましたが……」
語尾を濁しながら、俺は答える。
まさかそれによって力が溜め込まれていたとは。俺は自分の体に起こった異常を感知することができないから、それが真実であるかどうかもわからない。
「おまえは魔術師じゃない、ただの人間だ。だから自分で気づけないのは当然だ。けどな、オレは訓練された黒魔術師だ。オレにはおまえのことがよくわかる」
そう言ってカーソンは、俺のほうに近寄ってきた。
「これから術式を発動する。そうすれば、元の世界に未練がある奴はそこへもう一度転移する。おまえの意志は聞いておいてやろう。どんな選択肢を選ぶつもりだ、レイ?」
俺の決断を急くように、カーソンは俺の肩に手をかけた。
魔力というやつはわからないが、体力はもう尽きかけていた。けれど俺は立ち上がった。ベアト様の手を優しくほどき、カーソンの腕に掴まりながら。
「俺の意志は……」
しかし言葉はそこで固まった。
俺はこの世界で多くの大事なものをつくってしまった。ただのぼっちでしかなかった奴らとの交流。頼りない絆。そしてベアト様……ベアトリーチェとの主従を越えた関係。
ベアトは革命家になると言っていた。俺はそれを支えると誓った。
その誓いを嘘にしないためには、俺はこの世界に残るべきだった。
けれど、俺は元の世界に未練があった。転移事故に巻き込まれ、俺は何より大事だった家族に別れのひとつも言えていない。きっと俺は死んだことになっているのだろう。家族はそれを哀しみ、悲嘆に暮れているのだろう。
「カーソン様」
「畏まるなって。カーソンでいいよ」
「なら、カーソン。俺は元の世界に未練がある。でももし、俺が死んでしまったのだとしたら、そのときはどうなる。俺の魂はいま、どこにある」
「そんなことまでオレにはわからねぇさ。だが、すでに死んでいるとしたら、死体に転移することになるんだろうな。それは元の世界における、おまえの消滅を意味する。そして魂はこちらの世界に留まったまま、おまえはここで生を全うすることになる」
「つまり俺が死んじまっていたら、逆召喚なるものは発動しないってことか」
「だろうな。生きている奴にだけ転移は機能する」
カーソンの返事を聞き、俺はわずかに考え込んだ。
元の世界に待っているのは死かもしれない。そのときは、俺は転移に失敗し、この世界に残ることになる。戻れる確率は低そうに思えた。転移のきっかけになった事故で、俺は車の突進を真っ正面から受けた。生き長らえているとは到底思えなかった。
けれど万にひとつの可能性があるのなら――。
俺はその可能性に懸けたくなった。家族を悲しませていることは、俺にとってそれほど心残りなことだった。ベアトの隣に残ることとどちらが大事か決められないほどに。
そんな逡巡が顔に出ていたのだろう。
すぐ側にいたベアトが、俺のほうを向き直った。
「玲、悩むことはない。おまえの好きにするといい」
「ですが、ベアト様……」
あなた様はどんな選択をなさるのですか。
そう訊こうと思った俺を制して、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私はこの世界に残る。やるべきことをまだ何ひとつ為していないからな。けれどそんな意志とはべつに、おまえはおまえの生き方を選ぶ権利がある。主従の関係に縛られるな。私は自分の意志がない執事をもっても嬉しくも何ともない」
そう言ってベアトは俺の肩に手を置いた。まるで泣き虫な子供をあやすかのように。
「元の世界に行くなとはいわない。ただ必ず戻ってこい。未練が晴れたら、もう一度私のそばに帰ってこい。私にはおまえが必要なんだから」
「わかりました、お嬢様」
「……お嬢様と呼ぶなと言ったろ」
「もう無理です。あなたは私が好きな女性である前に、私の大事なお嬢様です」
こぼれだす言葉は止まらない。そして決壊した涙も。
俺は自分を好きだといってくれた主人に許しを乞うた。俺はベアト様の好意に応えたが、それでも、どうしようもないくらいに、執事だった。自分の未練を優先することを認めてくれたところで、これはひとつの裏切りに思えた。
「何度も言わせるな。必ず帰って来れるようにする」
「申し訳ありません、お嬢様……」
贖罪の涙は次から次へと溢れてくる。俺の視界はもう、涙でよく見えない。ベアト様の美しいお顔が歪む。俺はそんなベアト様に手を伸ばし、彼女の手を握り締める。
「私、レイ・ニラサワは、絶対にお嬢様のもとへ戻って参ります」
「ああ。待ってるぞ」
もう一度手に力を込め、俺は嗚咽を漏らした。
ベアト様は、滲みゆく視界のなかで薄く笑んで、
「玲、もっとこっちに寄れ」
「……はい」
「もっとだ。もっと近くに寄れ」
「承知いたしました」
指図のままに従っていると、おもむろにベアト様が顔を近づけ、瞳を閉じた。
不意打ちのように触れ合ったのは互いの口唇だった。
「これは誓いのキス。約束だ、もう一度戻ってこい」
「御意」
深く頭を垂れると、ベアト様は体を引き離していく。
そして俺の体を強く押した。
俺は後ろに体勢を崩し、カーソンの胸にぶつかった。
「こいつめ、熱々なところを見せつけやがって。状況が状況なら肩パンチ程度じゃ済まないところだぜ?」
軽口を叩くカーソンだが、彼は俺を部屋の中心に導いた。
「さて、転移儀式を始めようか。魔力の供給源はレイ。ちょっくら痛みが走るだろうけど、男の子は黙って我慢しろよ」
カーソンは俺の胸に手をかざし、何ごとか呟いた。
すると暗い部屋を明るく灯す、円形の光の輪が現れた。それは俗にいう、魔方陣というやつに酷似していた。
「魔方陣の大きさは、供給される魔力に正比例するんだ。そして影響範囲もデカい。今頃ロンドンの上空には巨大な魔方陣が展開されているだろう。それが元の世界に戻るゲートになる。レイ、力を吐き出せ」
俺はカーソンの言うがまま、体に力を込めた。
その力は確かに俺の体を軋ませる。全身の骨が折れそうな圧力。か細い肉など吹き飛びそうな力が俺の内部を奔流した。循環した力は、やがて胸に集まり、大きな光となった。
それはまるで命の光のようだった。
ずっと無価値だと信じていた俺の命。それが神々しい光を放っている。
――おまえの命は、無価値なんかじゃない。
誰かに言われた気がした。
その声に頷き返したとき、俺の命の光はさらに大きさを増していった。
魔術の発動。
体中にわだかまる力が胸の一点に集まっていく。俺はその眩い光に目をやられ、視界は真っ白に染まった。そして次の瞬間、俺の意識は光のうねりに飲み込まれていった。
こうして俺が絶対遵守すべき相手は、誰もいなくなってしまったのだ。




