黒魔術協会
「何しにきた」
俺を拘束した奴の声は女性のものだった。
しかも力は弱い。銃口のようなものは彼女の指だった。俺は腕を振りほどき、くるりと回転してその人物と向き合った。
「…………」
一瞬、言葉を失った。
「何しに来たと訊いている。答えろ、レイ」
俺のことをレイと呼ぶ女性。その相手はベアト様しかいない。
「あなたこそ、こんな場所で……」
ようやく言葉が出たが、実に間抜けな声になった。
「経理の仕事を見つけたといったろ。この会社に雇われたんだ。おまえこそ何をしている。さてはアルと共謀して私のことを連れ戻しにきたわけじゃないだろうな」
「とんでもございません」
俺は少々迷った挙句、具体的な用向きを半分ほど教えた。このビルの最上階にある組織を訪れたいこと。そのためにはこの食品メーカーの敷地を通らなければならないこと。メーカーの人間に不審がられないよう、ひと芝居打っている最中であること。
黒魔術云々は伏せておく。必要以上にベアト様を混乱させることはない。
「どうだろうな、怪しいな」
俺が情報提供しても、ベアト様の警戒は解けない。察するに、家出をしたも同然の彼女にしてみれば、アルに見つかることほど恐れていたことはないはずだ。だから俺は、警戒を解くべく、これがあくまでビジネス上の行動であることを強調する。
「あまり心配しないでください、そして私を信用してください」
「信用しろといわれると弱いな……」
俺のひと言は、彼女の柔らかい部分を掴んだようだ。
そのことを梃子に、俺は攻勢を強めていく。
「むしろ、私たちが最上階に向かう手伝いをして貰えませんか。現状、入室には成功しましたが、ここから先の行動は些か手詰まりでして」
「私に何をさせようというんだ」
「アルにお茶でも配膳してください。彼は今、演技の真っ最中です。あなた様に気づかれても動揺するとは思えません。そこでお茶をアルにこぼすのです。社員の注意を引けるでしょうし、洗面台に立った隙に最上階への道を突破しようかと思います」
「なんだか犯罪の片棒を担がされている気分だな」
「犯罪ではありません。罪悪感を抱かれる必要はないかと」
「無茶をいうな。気持ちの問題だ」
高慢に言ってのけ、胸を反らすベアト様だが、言い分はもっともだ。
しかしここで引き下がるわけにはいかなかった。
「この用件は、かつてなく重要なミッションなのです。どうかお力添えを」
「そんなふうに懇願されると弱いな。やむをえない、話には乗ってやるが、あとで詳しいことは全部教えて貰うぞ」
「今はそのお言葉だけで結構です」
そう言うや否や、ベアト様は給湯室のやかんに水を入れ、火にかけた。
屋敷にいたころには考えられない行動だ。
俺がその様子をじろじろ見ていると、
「私がお茶を淹れるのがそんなに面白いか」
少し拗ねた調子で頬を膨らませる。凝視したせいで機嫌を損ねてしまったか。
「いえ。ベアト様の社会への順応ぶりに感嘆したまでです」
「自立せねばならないのだから、当然のことだろう」
不満そうに言い、彼女はお茶の葉を取り出す。横から見ている限り、分量はかなり適当だった。とりあえず紅茶らしいものが出来ればオッケーという淹れ方だ。
やがて湯が沸き、ポットにお湯を入れ、紅茶もどきが出来上がる。
ひとり分のティーカップに注ぎ入れ、準備はできた。
「それでは行ってくる。こいつをアルにぶちまければいいんだな」
「まともにひっくり返せば火傷をします。上着に少し引っ掛ける程度で大丈夫かと」
「難しいことをいうやつだな」
ベアト様は不満たらたらな様子で、給湯室を出た。そしてそのまま、応接ソファのほうに歩きだす。
俺は給湯室のドアから彼女の奮闘ぶりを見守る。
「…………」
ベアト様が応接ソファの前に仁王立ちになった。
「…………」
アルが目を見張っている。露骨に驚いた顔だ。
「…………」
しかしアルは何やら事情を察したのか、平然とした顔に戻った。
そんなアルに、ベアト様がお茶を引っかける。「熱い!」というような声が聞こえてきた。見れば、紅茶は無事、アルの上着にかかったようだ。この事態に一番驚いたのは月のようで、主人がくらった粗相にあたふたしている。
ほどなく「洗面所に行きましょう!」という月の声が響いてきた。
アルは幹部社員にひと言断りを入れ、お茶をぶちまけられたことなどなかったように、悠然と立ち上がった。このあたりのムーブはさすが貴族だと思わされる。
アルは月を引き連れて給湯室のほうに歩いてきた。ここにはタオルも洗面所もある。幹部社員が促したのだろう。彼の歩みに迷いはなかった。
「…………」
やがてドアが開き、アルと月が入室してきた。
俺は今さっきトイレから出たきたばかりという顔で彼らを迎え入れる。
しかしその演技はすぐさま見破られてしまう。
「玲、この会社にベアトがいたぞ。君は知っていたんだな」
タオルで上着を拭きながら、アルは詰問調になっている。
「いえ。私も今さっき会いまして、非常に驚いたくちです」
「お茶をかぶったことよりも、彼女がいたことのほうがびっくりだよ。でも堂々と屋敷を出た理由がわかった。ちゃんと自活するルートを確保していたわけだ」
アルは安堵したのか、憤慨しているのかわからない口調で吐き捨てる。
「すみません。お茶をかけろというのは私の指示でした。しかしそうすれば、ここの社員の注意をベアト様に集められます。隙を見て最上階に向かえる好機かと」
「何から何まで君の策略か。勘弁してくれたまえ」
「ご主人様。濡れたタオルは私が洗っておきます」
月はアルから手渡された汚れたタオルを洗面台で洗い始める。それは今この瞬間、まったく必要のないムーブだった。
「月、そんなことはどうでもいいから。アルバート様、早く最上階に上がりましょう」
俺はふたりを本来の目的に引き戻した。この好機を逃してはならない。
◆
給湯室から顔を出すと、ベアト様が落としたティーカップを拾い上げ、お茶で汚れたソファを拭いている。幹部社員はその様子を呆れたように見守っている。
「出ましょう」
俺のひと言が合図となった。給湯室を出た俺たちは階段に身を滑り込ませる。その動きに気づいた者は誰もいなかった。みな黙々の自分の業務を続けている。
俺はアル、月を階段に押し上げ、最後尾で昇った。
ベアト様をひとり放置してしまったが、やむを得まい。彼女は黒魔術だの吸血鬼だの、屋敷で起こったファンタジーを知らない。知らないことに巻き込むことほど、ひとを混乱させるものはない。必要があれば、あとで教えてやればいい。
俺たちは古びた階段を駆け足で昇り、ほどなく最上階に辿り着いた。
そこは両開きの扉に閉ざされ、会社の入り口にも、牢獄の門にも見えた。有り体にいえば物々しい造りだった。俺はアルに入室を促す。ここでは彼が先頭だ。
「…………」
斯くしてドアノブに手をかけたアルだが、扉に鍵はかかっていなかった。最初にアル、ついで月と俺が入室を果たすが、あまりの静けさに耳がぼうとなった。ロンドンの喧騒もまったく聞こえてこない。黒いカーテンに閉め切られた部屋は、洞窟のなかのように真っ暗だった。中心にあるテーブルに置かれたローソクだけが唯一の灯りだった。
あまりに暗かったので、俺はそこを無人だと思い込んでいた。
しかし入室した直後、どきりとさせる声が響く。
「なんの用かな」
テーブルの脇に大きな箱があった。そこに座り込んでいる人物がいる。
ローソクの灯りを頼りに目を凝らすと、それはひとりの老人だった。
「鍵もかけずに、随分と無防備なのですね」
アルは老人の問いに答えず、固い声で質問を返した。
「部外者が立ち入るような場所ではないものでね。それにきょうは何人かのメンバーが集っておる。鍵を閉めたら彼らが入れない」
他のメンバーがいるのか?
慌てて部屋を見回すと、扉を隔てた向こうにもうひとつ別の部屋があった。
やがて俺たちの話し声に気づいたのか、扉が開き、男性が数人現れた。
「知らない連中だな、部外者ですか」
彼らは老人に話しかける。老人は手にした杖を振って鷹揚に頷く。
「部外者なら出て行って貰おうか。ここは会員以外入ることを許されない」
男たちが俺たちを追い払おうとする。しかしここでアルが決定的なカードを切った。
「私たちはクラリック公の紹介で来たのです」
「……公の!?」
男たちの狼狽ぶりはこちらの想像以上だった。その反応から、この協会におけるクラリック公の立場が窺い知れた。
けれどそのうちの一人が冷静にこう言い放った。
「紹介だというからには、紹介状を持っているんだろうな」
「それはありません」
アルは率直に答える。
「代わりに言質を得ています。今すぐ公に問い合わせてもよいのですよ」
「紹介状がないなら同じことだ。部外者を信用するわけにはいかない」
「では正直に言いましょう。私たちはこの組織に属する者によって命を落としかけました。彼を警察に引き渡す代わりに、この組織を調査に来ました。責任者は誰ですか? まずはメンバーのリストあたりを見せてください」
合理的なアルは回りくどい話を好まない。これを警察に頼らない私的な捜査であることを単刀直入に申し立てていた。
「何度もいうが、紹介状がなければ信用できない」
「では腕ずくで話をつけましょうか」
アルはそう言って、俺のほうをちらりと振り返った。それは「戦え」という指示だった。
俺は部屋をぐるりと見渡す。剣道で使える武器を探したのだ。
うってつけのものはすぐに見つけられた。それは剣を下げた甲冑の騎士像だった。
飾りとはいえ、その剣は、十分な武器になるだろう。しかし問題はそれを使うと相手を殺してしまうことにあった。そんな気はないのに使える武器ではなかった。
ゆえに俺が選んだのは老人の持つ杖だった。
「これを貸して頂きます」
俺が頼むと、老人はすっと差し出した。無言だが、その目は「使え」と言っていた。
対ニコラス戦の再現だ。俺は杖を構えて、男性メンバーに向き直った。
「痛い目に遭いたくなければ、メンバーリストを見せてください」
「脅迫するつもりか!?」
「ええ、そのとおりです」
俺は言うが早いか、杖を振り上げ、連中の小手を強かに打った。
一人……二人……そして三人。
反撃の余地のない、あっという間の出来事だった。
「これでも手加減しました。次は容赦なくやりますよ」
「待ってくれ!」
メンバーの一人が叫ぶように言った。
「クラリック公の紹介という話は信じる……降参だ!」
床にうずくまった他二名を尻目に、その男は隣の部屋に駆け込んだ。
そしてすぐに戻って来た。手には小ぶりなノートがあった。
「ここにリストがある。見たいなら存分に見てくれ」
リストを手渡すと、協会のメンバーたちは部屋を脱兎のごとく逃げ出した。
目的のリストを見やり、俺はアルに合図を送った。彼が真っ先に見る権利がある。
「拝見させて頂きます」
そしてアルが一歩踏み出したときだった。
「待たれよ」
低いながらも威厳のある声を発した人物がいた。その声はメンバーとのやり取りを微動だにせず見守っていた老人のものだった。
「そのリストの閲覧、わしは許可しておらん」
待ったをかけられ、アルの体は固まっていた。
相手が老人だと侮っていたが、もしかすると彼がここの責任者なのかもしれない。
「何度も言いますが、クラリック公の許可は得ています」
アルが怯むことなく口にしたが、老人は頑として譲らなかった。
「この組織は貴様のような子供に扱える代物ではない。回れ右をして帰ることじゃ。さもなくば、おまえたちの大事な人が危険な目に遭うぞ。それでもよいのかな?」
それは報復するということなのか。
言葉自体はただの脅迫だが、老人のそれは何か抗いがたい敵意がこもっていた。
しかし老人相手に武器を振り回す趣味はない。俺はアルに代わって、反抗の糸口を見つけようとした。
「クラリック公の意志を覆すとは、あなたはよほど偉いのですね」
ジャブのように皮肉を飛ばすと、老人はくつくつと不気味な笑い声を上げた。
「勿論偉いよ。わしは生物として公より格上の存在じゃ」
老人はいつの間にか箱から立ち上がり、俺の前に正対していた。
「そんなにリストが見たいなら見せてやる。ただし一部だけじゃ」
老人は俺からノートを奪い取り、そのなかの一ページを俺に手渡した。
「それは協会の組織図じゃ。誰が偉いか、残らず書いておる」
手にしたリストに俺は目を走らせた。
ピラミッド上の組織図の脇に、名誉顧問としてクラリック公の名が記されている。
副主宰の名も刻まれている。憎きヴィンセント・キャンベルの名が。
そしてなぜか副主宰にスペンサー将軍の名があった。
「…………」
俺はしばし言葉を失った。それはこの組織図の頂点に刻まれた名に驚いたから。
――フレデリック・カーソン。
肩書きは協会の主宰ということになっている。
俺はアルにそのリストを無言で渡し、必死に心の整理をつけようとした。この黒魔術協会は先代のネヴィル卿からの引き継ぎ事業だということだった。その経緯を踏まえて、あくまでも名誉職的に主宰の座についているのではないか。さもなければ、彼はヴィンセントの仲間ということになってしまう。先日の屋敷内での乱闘ではカーソンはヴィンセントと敵対していた。そのふたつの事実は重なり合わない。
「……そんな馬鹿な。なぜカーソンが……」
アルがぽつりと漏らした。それは俺も同感だった。
「わかったかね。貴様らの家令は我が協会の頂点に君臨する男だ。先代のネヴィル卿に忠誠を誓った彼はこの事業を丸ごと引き継いだのだよ」
老人がだめ押しのようにいう。それでも俺たちは口を開けない。
「協会のことが知りたければカーソンに訊くといい。もっとも彼はこう答えるだろう。協会は今や、黒魔術とは無関係な組織に変質していると」
「どういうことですか」
ようやく口を開いたアルが老人を問いただす。
「この協会は革命の拠点となっておるのだ。副主宰のヴィンセントが組織のあり方を根本から覆してしまった。カーソンはお飾りにすぎない。メンバーの大半は協会を離れ、残った人間は革命分子と化している。クラリック公の黙認のもとでな」
――革命。
そんなものがどうして黒魔術の会員制組織から誕生したのか俺にはわからない。俺にわからないことはアルも理解できなかったと見える。先ほどからおろおろしている月を尻目に、俺たちはなおも沈黙を浮かべていた。
「クラリック公は元々戦争支持の国家主義者だったが、早期停戦を唱え、反戦ムードに火を放つほうが得策だと理解した。そしてブルジョア革命を完遂し、王族を駆逐し、護国卿につこうとしていた。みずからをクロムウェルの再来と見なして」
老人は俺から杖を取り戻し、滔々と語り出した。
「ところが副主宰のヴィンセントは公が押し進める革命的行動をもう一段階高めることを提唱した。それが万国の労働者に自由と解放を約束する、マルクスのいったプロレタリア革命じゃ。その思想は、公の目論みの裏で着々と浸透した。おまえたちもここに来たからには奴が吸血鬼であることは知っておろう。ヴィンセントはその溢れるほどの魔力を駆使して協会を自分の思うがままにする組織へと変えてしまった。その段になってようやく、カーソンは気づいたのじゃ。自分が組織を掌握できなくなっていることに」
革命というのは、ベアト様が望む夢物語。そんな意識が確かにあった。
元の世界を知っている俺には、それがロシア以外の場所で起こることは容易に受け入れがたい事実だった。
けれども老人の話を聞く限り、それは現在進行形の動きであるという。しかもクラリック公が首相となれば、ヴィンセントは国政に影響を及ぼす立場を手に入れる。公のビジョンを、彼の押し進める革命とは桁違いの運動へと変えることができる。少なくとも、その可能性を手に入れる。
「わかったかな、若いの? この協会はもはや黒魔術の研究とは別個の組織なのじゃよ。召喚だの転移だのにこだわるのはカーソンひとりで十分じゃ」
ここまで聞いて、俺はなぜ老人が脅したのかわかった気がした。
革命組織の秘密を知っては、ただでは帰してくれないだろう。秘密と引き替えに何かを奪われる。まさに等価交換の原則に則って。
それが俺たちの命でない保証はどこにもなかった。
「そこの執事風情の。何やら顔色が変わったな。恐れをなしたかね?」
「ふざけるな」
どうにか答えを返すが、空元気にしか聞こえなかった。
「その恐れは正当なものじゃ。なぜならおまえたちはこの場で死ぬのじゃからの」
そう言い放つと、老人は俺たちに手をかざした。
俺は反射的に武器をとるべく、甲冑騎士の持つ剣を手にしようと駆け出した。
しかしそんな動きを止める力がのしかかってきた。
「ちょろちょろ鼠みたいに動いても無駄じゃ。さあ、血反吐をはいて死ぬがいい」
老人の手から何か抗いがたい力が発せられていた。俺は騎士像に走りよった姿勢のまま、動けない。アルと月も同じ状態だった。そして老人の発する圧力はますます力を増してくる。とても人間わざとは思えない攻撃だった。
「…………」
だが、俺はその圧力の下でもがく。主人のアルが、仲間である月が、わけのわからない力で殺されようとしている。抗わねば。俺の中に眠る忠誠心が、友情の絆が、そんな形がなく頼りないものたちが俺を突き動かしていた。孤独を愛するぼっちの俺が、思えば遠くまで来たものだ。そんな自嘲を浮かべつつ、俺は一歩ずつ甲冑へと向かう。
「仕方ないのう。ではこれでどうじゃ」
老人が呟くと、今度は力が鋭利なものへと変化した。その力が及ぼす範囲でもがく俺は自分の身が切り刻まれるのを感じた。体のあちこちから血が噴き出す。
「くそっ……!」
まるで刃のついたワイヤーのなかで暴れているような気になる。俺の行く手を阻むのは鋭利なナイフたち。その力は俺を容赦なく削る。体も、激痛に耐える心も。
けれど戦う意志は失わなかった。体はぼろぼろだが、それでも戦う理由が俺にはあった。
――命は無価値。ならば死を恐れず戦うことで価値を発揮すべき。たとえこの命が燃え朽ちようとも、俺は主人や仲間を見捨てない。
「おう、中々見上げた根性じゃな」
老人の戯言を聞き流し、俺は甲冑に手をかけた。そしてその剣を握った。
「よくもやってくれたなァ!」
俺が剣を振るうと、鋭利な圧力が避ける音がした。そのおかげで、老人は放つ謎の力は抵抗できるものだと知った。こちらには武器がある。
「アル、月、逃げろ!」
俺はふたりの側に駆け寄り、そこでもう一度剣を振るった。
こちらの剣戟によって圧力が跳ね返されたのか、アルと月は老人の影響範囲から脱することができた。壁際に滑り込み、アルが月を庇った姿勢で踞る。そしてふたりとも動かなくなった。謎の力によるダメージで意識を失ってしまったようだ。
そんなふたりの様子を見やり、俺はようやく老人に正対することができた。
「あんたは俺たちを殺そうとした。それは殺される覚悟があるってことだよな」
上がっていた息を整える。精神統一。俺は背筋を伸ばし、剣を中段に構えた。
「貴様こそ殺される準備はできたようじゃな」
一歩も引かぬ姿勢で老人が身構える。
また謎の力を使われるのか。ならばその力ごと切り裂いてやるまで。
俺が裂帛の気合いの声を上げたのと、床を蹴って飛び込んだのはほぼ同時だった。その体重の乗った姿勢のまま、老人の喉元目がめて剣を伸ばした。
「突きィィィァッ!」
「フンッ!」
老人が手をかざすと、俺の剣は中空で静止した。
力をこめると微妙に揺れるが、それ以上突き込むことができない。
完璧な盾によって阻まれている。しかし最後は、俺の気合いが上回った。
「グホッ……!?」
俺の剣は老人の喉を突き貫いた。肉体を抉り込む感触が鮮やかに手に残った。
――殺った。
俺の手に残る感触は老人に致命的なダメージを与えたことを教えてくれる。
ひとを殺したことはないが、たぶんこういう感触なのだろう。
老人は壁際まで吹き飛び、謎の力によるバリアは破れていた。俺はトドメを刺すべく、すり足で老人の側に歩み寄った。
そのときだった。協会の入り口のほうから鋭い怒鳴り声があがった。
「レイ、いるか? いるなら返事しろ!」
その声で、誰が入室してきたかわかった。ベアト様である。俺が振り返ると、想像したとおり、私服姿のベアト様が立ち尽くしていた。そしてどういうわけか、彼女の隣に並んでいる人物がいる。フレデリック・カーソン。協会の主宰だと記されていた男。
「レイ、無茶しやがって。気をつけろ、そいつはまだ死んじゃいねぇぞ」
――マジか。
入室した二人に気を取られていたが、俺はふたたび老人に正対する。だが老人は早くも床から立ち上がっていた。
それどころか、喉元に空いた穴は急速に塞がり、肉体が蘇生していた。
「なんだ、こいつ……」
声を絶した俺の前で異常が花を咲かせている。それは蝶が蛹から孵る様を見ているかのようだった。喉元を中心に、老人の体にひびが入った。まるで皺くちゃの体を脱ぎ捨てるように、彼はべつの生命へと変化していく。現れたのは若々しい青年であった。
「おまえ……!」
俺が感じたのはおのれの悪意だった。
なぜなら目の前に出現した青年は、紛れもなくあのヴィンセントだったから。
「執事君、おひさしぶり」
白い歯を見せて笑ったその男は、芝居がかった道化師のように唇を歪めていた。




