救済
きょうは屋敷中が騒然としている。
執事や家政婦長、コックを筆頭に、使用人たちがめまぐるしく動き回り、下っ端の俺たちもその動きに急き立てられていた。
ジョーンズが昨日いったとおり、きょうは来客があるのだ。
無論、相手は俺たちと同じ庶民ではない。正真正銘の貴族だという。
朝食の配膳の際、俺はトランザム卿にジョーンズがこしらえた顔の傷を調べられた。
「だいぶ腫れはひいたようだな」
俺の顔を一瞥し、安堵の息をつくトランザム卿。
それは俺の身を慮ってくれたからではない。傷物になった使用人など客人の前には出せないからだ。そのための吟味はご主人様の仕事である。
「客人の前で恥をかかさないでくれ。しっかりやってくれよ、レイ」
とはいえ、わざわざこういわれると悪い気分ではない。
いじめを愉しむジョーンズとは異なり、トランザム卿という人物は決して悪人ではないようだ。ただ、どこか間が抜けて、感情のコントロールができないだけで。
やがて正午すぎ、屋敷を客人が訪れた。
一体どういう人物が、何の目的で来たかは下っ端の使用人である俺にはわからない。
執事であるジョーンズが応接間から戻ってきて、使用人室に入ってくる。
家政婦長のフレミングさんが興味津々といった具合に尋ねた。
「お客様の用向きはなんですの?」
「保有する国債をご主人様に売ることの相談らしい。なんでも客人の経営する孤児院の改修費用を捻出するために来たようだ。慈善事業といえば聞こえはいいが、いってしまえば商談だよ、商談」
ジョーンズの吐き捨てるような話しぶりから、トランザム卿のビジネス嫌いは、使用人たちにも伝染していることがわかる。
なんてことを銀食器を磨きながらぼんやり考えていると、作業の手が止まっていたせいか、
「また上の空になりやがって」
ジョーンズが脚にキックを入れてくる。一切の容赦がないため、重い体重が乗った強烈な蹴りとなった。
「…………!?」
すんでのところで体を支えたが、あやうく膝から崩れ落ちるところだった。
晩餐に向けてテーブルクロスの準備をしていた月が、そんな俺を心配そうに見ている。彼女の前で恥はかけないから、危ないところだった。
しかしジョーンズの癇癪はいつどこで炸裂するかわからない。
こんな地獄のような環境からは一刻も早くおさらばしたいが、屋敷を出たところで何をすればいいかわからない。俺はこの世界のことをほとんど何も知らないのだ。
ならば、面従腹背。表向きだけでも従順でいるしかない。
ややあって、主人と客人たちの晩餐の時間となった。
商談はもうあらかた終わったのだろう。午後のお茶を挟みつつ、屋敷に泊まることになった客人をもてなすべく、ディナータイムが始まったのだ。
メイドたちの働きによって食堂の準備は整っており、俺はジョーンズとともにぴかぴかに磨きあげた銀の大皿を手に、食事の配膳を始める。
キッチンから音も立てずに歩いて行くが、広い食堂は静けさに満ちており、トランザム卿とその夫人、客人のかわす会話がいやでも聞こえてくる。
「しかしさすがですな。恵まれない子供の支援を無償で続けるとは。先代の事業とはいえ、それを見事に受け継いでおられる。ネヴィル卿のまごころには心打たれる思いだ」
「ご謙遜を」
相づちをうった若い貴族の横顔が見える。
それ以上にトランザム卿の発言が俺の心を捉えた。
ネヴィル? 聞き覚えのある苗字にハッとなり、俺は客人の顔を見た。
若い客人の顔は、クラスメートの英国人、アルバート・ネヴィルに酷似していた。
そのとき背筋に走った衝撃をなんと表現していいのか、俺にはわからない。
けれど、拙い言葉にすればこんな感じになる。
――そいつは俺にとって、まるで救世主みたいに見えたんだ。
客人はアルと同じ顔をしていた。容姿だけとりだせばそっくりだった。
柔和な笑み。
紳士然とした口元。
意志のこもった眉毛。
さらさらとしたきれいな金髪。
アルだ。目の前の貴族は間違いなくアルだ。
細かい事情はわからないが、彼はこの世界に貴族として転移したのだろう。
アルはトランザム卿のほうを見ている。
振り向け。こっちを振り向け、アル。
(アル———!)
俺は、アルの名前を叫ぼうとして、ぎりぎりのところでそれを止めた。
トランザム卿たちのいる場で、元の世界の住人としてかわす会話は避けるべきと思ったから。それにアルが、俺のことを覚えている保証はどこにもなかったから。
代わりに俺は、強烈なアイコンタクトを送る。
「…………」
相手の顔を射抜くような目線を向けると、アルがこちらの様子に気づいた。
そのハッとした顔を、俺はまじまじと見つめてしまう。彼は俺を忘れていなかった。
たかが修学旅行で一緒になっただけのぼっちな俺を、アルは覚えていてくれた。
なぜだか望外の喜びで泣き出しそうになった。
月の前では強がっていたが、トランザム家に勤めて以来、毎日のようにいじめの続く地獄のような日々の中で、俺は心が折れそうになっていた。
そんな俺に彼は、神様が与えてくれたたったひとつの救いに見えたのだ。
そのときだった。背後に近づいたジョーンズが、あろうことか俺の背中をドンと、強く小突いたのだ。俺は体勢を崩し、配膳中の皿がトランザム卿の頭を直撃する。
「またおまえかっ!」
トランザム卿は、ナプキンを手に、俺の粗相に激怒した。
俺は言い訳をしなければならなかったが、いまのご主人様にそれが通じるとは思えない。なのでしばらくのあいだ、沈黙を浮かべていると、
「彼のミスではありません。後ろの執事が彼のことを小突いたようです」
アルがトランザム卿に適切なフォローを入れてくれた。
「ジョーンズがレイを?」
「ええ。私の座る角度からは、その様子がよく見えました」
「本当なのか、ジョーンズ!?」
「いいえ。私は何もしておりません、ご主人様」
アルの指摘にもかかわらず、ジョーンズはふてぶてしくシラを切った。
「レイ、おまえはどうだ?」
「私は無実です」
「ふざけるな、貴様ら! やったやらないの騒ぎが私は一番嫌いなんだよ!」
ただでさえ怒っていたトランザム卿が顔を真っ赤にして怒鳴り上げると、急に従者ヅラしたジョーンズが、平身になって謝罪をする。
「申し訳ありません、ご主人様。しかしこれは濡れ衣です」
「ぐぬぬ……」
状況は俺をとるか、ジョーンズをとるかの二択だった。
ここで喧嘩両成敗のごとき裁定ができればよかったものの、トランザム卿の器はそこまで大きくはなかったようだ。
「レイ! 悪いのはおまえだ!」
俺は何も言い返さない。ただ黙って受け流す。
「おまえが来てからくだらないトラブルばかり、こんな役立たずな下僕は初めてだ。クビだ、クビにしてやる!」
ついに来た。情け容赦ないクビ宣告。
もっとも俺にはこの場を言い逃れるやり方があった。
ジョーンズのせいにするのを止め、惨めなこどものようにただひたすら心から救いを求めれば、トランザム卿の心変わりは得られたことだろう。
「クビにしないでください! お願いします!」
そう涙ながらに泣きつけば、たいていの場合、人の気持ちは大きく変わる。自分の慈悲を乞い、憐れみを誘う人間を、多くの人は無碍にできないからだ。
トランザム卿が期待していたのも、そういう憐れみを誘う俺の振る舞いだったろう。
だが俺は、彼の望んでいる態度をとる気は少しもなかった。
「お好きになさってください」
クビで結構ですといわんばかりの顔で、ご主人様に言い放つ。
おかげでトランザム卿も、振り上げたこぶしの置きどころに困っており、こう叫ぶしかなかった。
「まったく、なんてかわいげのない下僕だ! ジョーンズ、ムチを持ってこい!」
客人を前にしてなお、トランザム卿の怒りは止まることを知らなかった。
よしきたとばかりに、ジョーンズは使用人室へ消えていく。
本当に衆人環視のなか、むち打ちの刑を執行するつもりなのだろうか。
感情の振り切れたご主人様は錯乱したように俺への罵倒を飛ばすが、ちょうどそんなときだった、アル——ネヴィル卿が口を挟んだのは。
「かわいげのない下僕もかわいいものじゃないですか。もしクビにするなら、彼はぼくが引き取りましょう。ちょうど使用人に欠員が出ていたところだったので」
俺の頭の中では、自分を虐待しつづけたジョーンズ、それを見て見ぬふりをした月以外の使用人、問題の根幹を理解しようとしない愚かなトランザム卿への怒りが充満していた。
むち打ちの刑など喰らおうものなら、逆に殴り返してやろうと思っていた。
いまにも配膳皿を貴族たちの顔にぶちまけ、晩餐を台無しにしてやろうとも。
けれども俺は結局、そうしなかった。礼儀作法は決して崩さず、穏やかな口調でいった。
「いまのお話、心からのものと受け取ってよろしいのでしょうか、ネヴィル様?」
「うん。君さえよければ、ぼくの屋敷を再就職先とするがいい」
自分を引き取るというアル。どのみち、この場でとれる選択肢は限られていた。俺はその中で、最善の選択をすればいいのだ。
ゆえに新たな主人と見定めたごとく、俺は軽くお辞儀をしながら恭しくいったのだった。
「その厚意、ありがたく頂戴します」
何事が起きたか理解できないトランザム卿と、ムチを持って参上したジョーンズは、きょとんとした顔のまま、その場に茫然と立ち尽くすのみだった。