吸血鬼
「ルナ、何があった」
「実は……」
靴音高くホールに入ってきたカーソンが手近な月に質問を浴びせる。月はたどたどしい声でその問いに答える。ダグラスさんが殺されたこと。アルが毒殺未遂に遭ったこと。その毒瓶をデシャンが所持していただろうこと。最後は早口になっていた。
「ありがと、ルナ。それだけ聞けば十分だ」
屋敷で殺人が起きた非常事態なのにカーソンは落ち着き払っていた。しかしその眼光だけは鋭さを増し、悠然と佇むヴィンセントを捉えていた。
そしてヴィンセントの後ろ側に立ち尽くす紫音に声をかけた。
「シオン、そこにいると危ないぜ。横にどいてな」
カーソンの冷静な指示に、紫音はすぐさま応えた。
一体何を始めるつもりなのだろうか。混乱した疑問に包まれた俺だが、
「レイ、ライフルをとってこい」
背後の俺を見ず、指示を飛ばしてきた。
怒りにかられた雪嗣を宥め、警察よろしくフェアな捜査を始めるものと思っていたが、その指示は乱闘の継続を意味した。いや、それに留まらない。この場で私刑を始めるのかと思わせる強い響きがあった。
「早くしろ!」
狼狽してまごつく自分をカーソンの声が後押しし、俺は執事室に飛び込み、屋敷の鍵を取り出した。その足でカーソンの横をすり抜け、玄関を出る。整備庫に向かうためだ。
(カーソンの奴、何を始める気だ……?)
整備庫の鍵を開けながら、俺は混乱した自分の声を聞く。ロンドンから戻るや、あっという間に修羅場を支配したカーソン。俺は彼の指示にしたがってしまったが、それはその判断が最善だと思ったから。あいつはヴィンセントのことをよく知っているようだった。そのアドバンテージを信じて、俺は荒唐無稽な彼の判断を腹の内に飲み込んだのだ。
すぐさま駆け出し、屋敷に戻ると、そこでは尋問が行なわれていた。
対象はヴィンセントとデシャンの二名。ふたり揃って並べられている。
そんなふたりを擁護すべく、喉をからしていたのはクラリック公だ。
「貴様のやり方は公正ではない。せめて両名の指紋検査を先に実施すべきだ」
「そんな暇はないんですよ、公爵殿」
カーソンが強行策を主張し、公と意見がぶつかり合っていた。
「戻りました、カーソン様」
俺が声をかけると、カーソンは小さく振り返り、
「玲。これから尋問を行なう。拒否した者はその銃で撃て」
その指示に待ったをかけたのはアルだった。
「カーソン、幾らなんでもやりすぎだ」
「いいえ。こうでもしないと解決しないんですよ、ご主人様」
アルの制止を拒んだあと、カーソンはふたたび両名に向き合った。
「ご主人様に毒を仕込んだのはデシャン、おまえだな?」
「…………」
俺はやむなく彼に銃口を向けているが、殺す気があるかと問われたら自信がない。けれどその威圧は言葉以上に絶大な効力を発揮したようだ。
「――――」
フランス語で何ごとか呟く。カーソンは満足げな表情を浮かべた。
「素直に犯行を認めてくれて感謝する。これでおまえは死ぬことはない」
「…………」
デシャンがほっと息を吐いたのも束の間、
「あらあら、犯行を認めちゃって。ぼくの黙秘の意味がないじゃない」
へらへらと笑ったヴィンセントが右手を軽く動かした。その手はデシャンの顔面を捉え、彼は宙に浮き上がり、数メートル離れた壁に激突した。
なんという怪力だろうか。到底人間のなせる業とは思えなかった。
「次はヴィンセント、おまえだ。ダグラスさんの死体の状況は聞いた。彼女を殺ったのはおまえだな? 誰の指示だ?」
「待て! 私は指示など出してないぞ!?」
カーソンの尋問を聞き、クラリック公は絶叫を上げた。その酷いうろたえ様から、彼が事件の黒幕であるという考えは俺のなかで否定された。
同じことをカーソンも考えたのだろう。
「さあ、ヴィンセント。答えろ」
彼の威圧に合わせて、俺も銃口の狙いを定める。
「やれやれ、君がぼくの邪魔をするとはね」
「無駄口を叩くな。貴様は我が屋敷の家名を汚した」
「へぇ、ぼくが犯人だという証拠は?」
「ダグラスさんの殺され方だ。おまえ以外、該当者はいない」
「なるほど。君が現れたことがぼくの運の尽きだったってわけだ」
「ご託を並べるな。大人しく警察に引き渡されろ」
「それはご免被る」
「ならば撃つまでだ」
カーソンが片手を高々と挙げた。それは俺への発砲の合図だった。
まさか本当に撃つはめになろうとは。
ヴィンセントはそんな俺の瞬時の迷いを見逃さなかった。
「本当にそこの執事君が撃てるのかな? 前にも言ったよね、銃を撃つからには、君に撃たれる覚悟があるのかと。覚悟がないなら、その銃口を取り下げたまえ」
――覚悟ならある。
なぜなら、主人であるアルが殺されかけたのだ。その罪は万死をもって贖われるべきだ。
それとカーソンへの無言の確信があった。帰宅して早々、この場を支配したこの家令に俺は敬意を抱いていた。彼が撃てというなら、撃つべき理由があるのだろう。それは責任転嫁などではなく、彼という人間への純粋な信頼であった。
だからこそ、迷いなく引き金をひいた。
――パン!
銃声が鳴り響き、銃弾はヴィンセントの胸に当たった。
確実に心臓を捉えただろう。
撃ったあとは、逆に迷いは消えた。俺はネヴィル家に徒なす者を殲滅しただけ。そして命に価値はない。無価値な命をひとりぶん、吹き消しただけ。
だが、次の瞬間。俺は予想外の出来事に息をのんだ。
心臓を撃たれて後ろに倒れかけていたヴィンセントがふたたび姿勢を戻したのだ。
胸からはもの凄い流血が溢れていたが、その奔流はすぐさま止んだ。
「やれやれ、執事君。ぼく以外が相手だったら今ので死んでいるよ」
その笑顔は心をわしづかみ、ぞっとさせるものだった。絶対見てはならないものを見てしまった。そんな怖気に襲われた。
「上出来だ、レイ」
カーソンはそう言って、ヴィンセントの懐に飛び込んだ。
繰り出したのは頭部を狙ったハイキックだ。蝶のように舞った華麗な一撃はヴィンセントの後頭部を直撃した。さすがのヴィンセントも少しだけふらつく。
「馬鹿力だね、カーソン。君は体術だけなら本当に無尽蔵だ。ぼくも敵わないよ」
「じわじわ追いつめてやるよ」
今度はカーソンの拳がヴィンセントの腹部を捉えた。
突き上げるようなボディアッパー。その一撃でヴィンセントの体が、ホールを半分ほど吹っ飛ぶ。しかしその着地点がまずかった。
立ち上がるヴィンセントの側にはアルがいた。
彼は自分の不利を悟ったのか、あろうことかアルを人質にとった。
「停戦命令だ、カーソン。歯向かうなら君のご主人様が死ぬぞ」
アルを背後から抱きかかえ、喉元を強く締めつける。アルの顔色がみるみる白から赤へ、そしてどす黒い青へと変色していった。そこまでするのは相当の力だ。
主人を盾にされて、カーソンの追撃も止まった。
「卑怯だな、ヴィンセント」
「君に殺されたくはないからね」
訪れたのはわずかな静寂、そして膠着状態。
けれどもそれを放置するカーソンではなかった。背中に手を回し、俺に指示を出す。
その指示は「ヴィンセントを撃て」と命じていた。
俺が手にした銃はライフル。確かに散弾銃と違い、ピンポイントで相手を狙撃することができる。カーソンはそこまで見越して俺にライフルを取ってこさせたというわけか。
素早い動きで銃口をヴィンセントの頭部に合わせる。
迷う時間はなかった。アルにあたる可能性はあったが、これ以外の方法で彼を救うことは叶わない。俺は息を吐きながら静かに引き金をひいた。狙うイメージは剣道の突きだ。
――パン!
最後まで手は震えなかった。おかげで銃弾はヴィンセントの頭を撃ちぬいていた。
「ぐ、グォォォ……」
銃撃されたヴィンセントの姿はおぞましく、正視に耐えなかった。
頭部は半分ほど吹き飛び、残された脳が顔面のほうへずるりと垂れ下がっていた。
アルは解放され、カーソンがその華奢な体を抱きかかえる。他の屋敷の面々は、全員がこの惨状から目を背け、現実を直視できなかったようだ。主人であるアルもヴィンセントの絞め技で意識を失い、目を閉じている。ただひとり俺だけが、この異様な事態を真っ正面から受け止めていた。
そしてもう一人、正気を保ちながらこの事態を見守っていた人物がいる。
ヴィンセントの主人、クラリック公だ。
「おお、なんてことだ……」
彼は半死半生のヴィンセントに駆け寄り、その体にすがりついた。
「グルル……ゥゥ……」
すでに人語を話さないヴィンセントだが、意識はあるようだ。泣き出さんばかりの勢いの公に対し、何かしら言葉のようなものを発している。
「おまえがいなければ私はどうにもならん。頼むから行かないでくれ……!」
「ギギ……オルゥオ……」
顔を半分吹き飛ばされてなお、ヴィンセントは死なず、ゆっくりとした歩みであるが、屋敷の外へ向かっていた。その動きは時間が経つほど速度が増した。その回復ぶりは同じ人間とは思えないほど急速なものだった。
「グルゥ……カーソン……」
そして捨て台詞のようなものをカーソンに吐きかけ、小走りになって駆け出した。
「レイ、もう一度撃て!」
カーソンの命にしたがって銃を発射した。
しかしもうその頃には、ヴィンセントは俊敏さを取り戻していた。もし彼を殺すつもりなら、脳を吹き飛ばした直後、冷静にもう半分を撃たなければならなかったのだろう。
やがてライフルの弾が切れた。ヴィンセントはグリムハイドの丘に消えた。
「あなたの執事はとんでもない悪党だったようですな」
「…………」
間髪入れずカーソンが行なったのはクラリック公への尋問だった。すでに罪を自白したデシャンと並んで椅子に座らされ、意識を取り戻したアルの前に引き出されている。
俺はもう銃口を向けなかった。なぜならクラリック公は悪事の隠し立てを止め、自分の知ることを洗いざらい話し出したからだ。
「あれは協会の人間だ。あまりに頭が回るので雇ったら、あっという間に屋敷の執事まで昇りつめた。ネヴィル卿が非協力的なのが覆らないと知り、最後通牒を出したのもヴィンセントだ。我々の秘密を知りすぎた人物は闇に葬るべきだと」
「とはいえクラリック公。全てをヴィンセントのせいにしたいようですが、あなたは彼の正体を知っていたのではないですか?」
慇懃にカーソンが問いつめていく。クラリック公は逃げられないと悟ったのか、
「……知っていた、あいつは人間ではない、吸血鬼だ」
そのひと言を聞いたとき、俺は理解が覚束なかった。
ヴィンセントは俺たちを轢き殺した運転手。この世界に転移してきた忌むべき殺戮者。だがそれだけではなかったのか。吸血鬼とは何ごとだ。ファンタジーの世界か。
しかし俺は思い出した。この世界があくまで現実とは異なること。
自分たちが知る世界とは違う歴史、違うルールが支配する異世界であること。
そしてそう考えれば、疑問は氷解する。ヴィンセントの異常なまでの怪力。そしてさきほど見せつけられた恐ろしいまでの生命力。ダグラスさんの奇怪な死因。そのどれもが、彼が人間でなく、虚構的存在である吸血鬼であるとするなら、理解可能な現象だ。
「あいつは吸血鬼だ。飼い馴らしているつもりが、逆だったようだ。私は彼に振り回され、ネヴィル卿を亡き者にしようとした。その罪は受け容れなければならない」
「その罪は、私の一存で預かっておきましょう」
アルが口にしたのは寛大な措置だ。
けれどもこの一件によって、アルと公の力関係は完全に逆転してしまった。
そのことが如実に感じられたのはアルの放った次の発言だ。
「昨晩、公は我々の行なっていたスパイ行為を取沙汰した。けれどもデシャンを使うことによって同じ行為を行なっているとわかった。つまりそこはイーブン。くわえて我が屋敷の家政婦長を亡き者にした。そのアドバンテージをもってして、私の最後の忠告――すなわち国王陛下の地位保全は認めて頂きます。よろしいですか、クラリック公」
「構わん。全面的に受け容れよう」
次期首相を屈服させ、普段なら爽快さを味わう場面である。
しかし俺の心は一向に晴れなかった。それはアルも同様だったようだ。
なぜなら――吸血鬼。
そんな化物がなぜ俺たちの周りに徘徊しているのか。
クラリック公がアルの要求をのんだ今、焦点はそこに絞られていた。
「ときにクラリック公。さきほど公が『協会』と呼んでいた組織について、あのヴィンセントが所属していたと仰っていたが、どのようなものかご説明頂けますか」
「貴公はまったく知らなかったのか」
「ええ。そこに何かおかしいことでも?」
「協会の正式名称は黒魔術協会という。ヴィンセントはそのメンバー、というより、協会の儀式によって召喚された化物だ」
「召喚?」
「そうだ。あの組織は先代のネヴィル卿と私が設立した黒魔術の研究機関だった。貴公が知らないことを見るに先代はその存在を隠し、引き継ぎを行なわなかったのだろう」
「そのようですね、私はまったく知りませんでした」
ようやく本来の調子を取り戻したのか、アルは仮面の微笑で吐き捨てる。
「ヴィンセントの罪はいずれ追及させて頂きます。そしてその黒魔術協会なる組織についても調べなければなりません。責任者は誰ですか? 他のメンバーの名前は?」
「……それは口にできん。メンバーとなった者以外、門外不出が協会のルールだ」
「しかし先代が関わった組織でしょう。私には知る義務があると思うのですが」
「メンバーを漏らしたら殺される。それだけ結束の固い組織なのだ」
「あなたは執事を使って私を謀殺しようとした。暗い牢獄につながれたいのですか?」
「待ってくれ。私も組織の内実までは知らんのだ。協会の住所だけは教える。捜査がやりたければ自由にやるといい」
「なるほど。そこが妥協点というわけですか」
「私は卿が望むとおり、王制を維持した上で戦争の早期停戦に動く。だから見逃してくれ。頼む、このとおりだ」
爵位を忘れ、頭を深く垂れた公にアルは厳かにいった。
「いいでしょう。だいぶ譲歩しましたが、これ以上追及してもらちがあかないようだ」
クラリック公は安堵の息を漏らした。顔には滝のような汗をかいている。
その様子を見て、アルは公の隣に並んだデシャンに一瞥をくれる。
「デシャン、裏で犯罪の片棒を担いでいたとは、君にはしてやられたよ。今年に入ってからこの屋敷で起きた窃盗事件、その実行犯も君だったんだね?」
「……ウィ」
「君のことは警察に突き出す。窃盗ではなく、ぼくを謀殺しようとした犯人として」
「……ウィ」
「今後、次のコックを雇うまで、代わりは紫音に務めて貰う。いいね?」
アルが声を張り上げると、紫音は平伏しきったように頭を下げる。
「カーソン」
「なんでしょう、ご主人様」
「そろそろお客様が帰られるようだが、運転手だった執事が遁走した。君が代わりに運転して差し上げろ」
お客様とはクラリック公。運転手とは逃走したヴィンセントだ。
「御意」
ロンドンから戻って早々、ふたたび外出するはめとなったカーソンだが、嫌な顔ひとつせず、アルの命令にしたがっていた。
そして次の命令が俺に降ってきた。
「玲」
「なんでしょうか」
「君にはべつの指示がある」
この場で起こった非常事態を裁定し、アルは自信に満ち溢れた顔をしていた。けれど、よく見れば、体は微妙にふらついている。そこには一旦は謀殺という悪意を受け、先代が隠蔽していた秘密事業の内実を知って衝撃を受けている様が感じられた。
「お客人の荷物を積み終わったらぼくの部屋に来い」
「承知いたしました」
それでも威厳を湛える声を発したアルに、俺は敬服しながら恭しく頭を下げた。




