毒瓶
その知らせがもたらされたとき、俺はアルにお茶を配膳したところだった。
「大変です、ダグラスさんが……!」
早朝のお屋敷。いつもなら使用人室に出てくる時間になっても、ダグラスさんの姿が見えないと月が言っていた。俺はお茶の準備をしながら、部屋に行くよう指示を出した。
その結果知らされたのは、ダグラスさんが死体となってベッドに横たわっていたという到底俄には信じられない情報だった。
俺はアルに辞去を告げ、階下の女性使用人部屋に足を踏み入れた。
そこに転がっていた死体は俺の心臓をわしづかみにした。
苦悶に歪んだ表情のまま、ダグラスさんは固まっていた。そして肌の露出している部分は老人のように皺くちゃだった。よく見れば、首筋に大きく二つの穴があいている。
一体どんな殺され方をすれば、こんな死体になるのだろう。
「…………」
隣にいた月は俺を見上げ、怯えた顔をしている。月の大声につられてやってきた紫音も同様であった。けれど俺は次の行動を考えねばならなかった。
それは朝一番に起きて、仕事を行なっていた月に質問することだ。
「今朝、玄関が開いていたりしなかったか?」
「いいえ。ちゃんと閉まってました。見た限り、不審者が入った様子はありません」
「そうか」
月の話にもとづくなら、外部の犯行ではないらしい。
もしそれが正しいとするなら、ダグラスさんを殺したのは内部の人間ということになる。
だとすれば非常事態。犯人探しなど二の次だ。
「すまん、ちょっと席を外す」
「どこ行くんだ、玲」
駆け出した俺に、紫音が呼びかけた。
「アルのところに行ってくる。すぐ戻る」
俺は階上に向かう階段を駆け足で昇り、アルの部屋に飛び込んだ。
アルはちょうど淹れたての紅茶に口をつけるところだった。
「それを飲んではなりません!」
俺は制止を叫んだ。アルはびっくりした顔になって固まった。
「そんなに慌てて、どうしたんだい?」
「ダグラスさんが殺された。おまえも危ない。その紅茶は飲むな」
俺は敬語が乱れるのも構わず、アルが手にしたティーカップを奪い取り、その飲み口に指を触れさせ、自分の舌で舐める。
舌が感じとったのは非常に強い苦みだ。
そして、全身の血の気が一気にさーっと引く。視界が揺れ、少し舐めただけで体に毒が回ったことが容易に判じられた。
俺の即断は正しかったようだ。万が一内部の犯行だった場合、それはおおよそ意図的なもの。だとすればまっさきに守らなくてはならないのは自分の主人である。
「玲君?」
毒が回ってふらつく俺に、アルが声をかけてきた。
「すみません、ダグラスさんが何者かに殺されました。次はご主人様かと思って……」
「ダグラスが?」
「はい」
俺は死体の状況を簡単に説明し、それがアルに及ぶ危惧を述べた。
それを聞き、アルは思い切り顔をしかめた。
屋敷の中で人がひとり死んだショックはいかほどのものだろうか。
しかし衝撃に打ちひしがれると思っていたアルが、ここから屋敷の主人としての底力を発揮し始めた。
「今すぐ捜査班を結成する。ぼくと玲、二人で執り行なう」
そういって「着いてこい」と命じ、アルは階下にあるダグラスさんの部屋へ向かった。
ドアの外には月が俺の帰りを待っていた。
「玲さん、アルさん……!」
「取り乱すことはないよ。このままホールに向かってくれたまえ」
月を送り出したあと、ダグラスさんの部屋に入り、アルは俺を振り返った。
「ダグラスの検死はあと回しだ。重要なのはそこじゃない」
「と申されますと?」
「ぼくのティーカップに毒が塗られていただろう。犯人はまだこの屋敷にいる。クラリック公を含め、全員をホールに集め、尋問を行なう」
アルの言うのは独断だが、いまは方針を決めるほうが大事だ。
俺は彼の意志に従い、客間と使用人室を巡り、ホールに集うよう指示を出した。
事は急を要するため、クラリック公には不躾な真似に映ったろう。
案の定、ホールにやってきた公は不機嫌そうに俺とアルを見やった。
「こんな朝早くから何事かね」
「使用人がひとり殺されました。これから事情聴取をやらせて頂きます」
「まさか、この私も疑っているのではあるまいな」
「疑ってはおりませんが、平等に調べさせて頂く必要があります」
位の高い公に対して、アルは一歩も引かない構えを示した。
ここまでのアルの動き方は完璧である。突如もたらされた使用人の不審死に我を忘れることもなく、手際よく事を進めている。昨晩、クラリック公に不本意な要望を飲まされ、苦渋の表情を浮かべていた彼とはまったくの別人である。
しかしその完璧ぶりに風穴を空けた人物がいた。ヴィンセントである。
「ネヴィル卿」
「なんだろうか」
「卿の妹君であらせられるベアトリス様がご不在のようですが」
アルの表情がさっと一変した。
辺りを見回せば、確かにベアト様がおられない。
「お部屋に呼びにいったのですが、もぬけの殻でした」
自発的に答えたのは月である。
この場の誰も知らないが、俺はその不在の理由を知っている。ベアト様は昨晩遅いうちにロンドンへ立ったのだろう。しかしその不在は、アルに少なからぬダメージを与えた。
「あいつめ、こんなときに勝手なことをして……くそっ!」
おおよそ貴族らしからぬ言葉遣いで憤激を吐き捨てる。
その隙をついて、クラリック公が思いもしないことを口にした。
「不在の人間ほど怪しいものだ。卿がまっさきに尋問せねばならないのは我々ではなく、貴公の妹君ではないのかな?」
「…………」
クラリック公の抗弁だが、アルはショックで無言となっていた。
やむをえず俺は、彼の代わりに見立てを述べた。
「さきほどアルバート様のティーカップにも毒が塗られておりました。ご不在のベアトリス様がそれをやってとは到底思えません。今この屋敷にいる者ほど嫌疑の対象となるべきなのです。なにか異論はおありですか?」
紅茶の毒について話すと、今度はクラリック公が無言になった。
犯人はダグラスさんを殺したのみならず、アルまで殺そうとした。このカードは思いのほか使える。そう確信した俺は、最も怪しい人物を消去法で選び出した。
「デシャンさん、あなたは食器全般を管理する立場にいました。アルバート様のティーカップに細工したのは誰か、見当はつきますか?」
「……ノン」
返事は否だった。しかし俺は、そんな責任逃れを許さない。
「あなたが何も知らないというのはおかしいでしょう。少しは責任を感じてください」
厳しく問いつめたのは、デシャンには管理不行き届きがあったからだ。
「早朝のあいだ、ティーカップに触れた可能性のある人物は?」
「――――」
デシャンはフランス語で何やら抗弁をした。
それを訳したのは、クラリック公の側に侍ったヴィンセントであった。
「それらしい人間は見てないそうだよ。なぜ自分が疑われているのか憤っている」
「あなたが責任者だからだよ。ミスター・デシャン」
俺は少々芝居がかるのも構わず、強い調子で言い放ったあと、デシャンの側に歩み寄り、彼の肩を掴んで前後に揺さぶった。
「やめたまえ、執事君」
あえて乱暴な真似をしたが、その途端、ヴィンセントが俺を咎めた。背後から体を掴み、いわゆる羽交い締めにして俺を引きはがす。それは恐るべき怪力だった。俺は抵抗する間もなく、デシャンから遠ざけられた。
「ふたりとも、暴力はやめたまえ」
厳かな声でクラリック公が平静を説いた。俺はデシャンの反応を見たかったが、ヴィンセントが抑え込むことでそれを確かめることは叶わなかった。
「問題をふたつに分けるべきだ。使用人殺しとネヴィル卿の毒殺未遂。それらを混同するから話がややこしくなる」
この場で一番落ち着き払った公が、捜査の主導権を奪い、全員を見回した。
「まず使用人殺しだ。死因は一体なんだったのか?」
その問いに答えるのは俺。
「検死はまだ済んでおりません」
「そこのメイドはどうだ?」
公が指差したのは月だった。
「正確なことはわかりませんが、血が大量に流れた跡がありました」
「ふむ……失血死といったところか。次の毒殺未遂と関連性がないな。こういった犯行の場合、手段は似通う傾向にあるのだが」
「随分とお詳しいのですね」
半ば皮肉のこもったセリフを月が口にした。高位の人間にも黒ルナは怯まない。
「推理小説の読み過ぎだよ。ただあれらは、実際の捜査から多くのヒントを得ているのだ。まんざら嘘八百ということもあるまい」
月の皮肉を受け流し、公はアルのほうを見た。
「私は捜査をネヴィル卿の毒殺未遂に絞るべきだと思う。手段もよくわからん謎の失血死よりも手段が明確なぶんだけ調べようがある。ここは身体検査を提案したい」
公が主張したのはこういうことだった。
ネヴィル家の住人を公が調べ、クラリック家の人間をアルが調べる。利害の重ならない相手なら、客観性が保たれるというわけだ。
「いいでしょう。その提案、お受けします」
アルの一声が合図となった。
「まずは我々から調べて貰おう」
先に両手を挙げたのはクラリック公、そしてヴィンセントだった。
彼らを調べるのはアル。衣服のポケットを中心に、何か不審物を所有していないか、念入りに確かめていく。その様子を俺たちは固唾をのんで見守る。
「……何もありませんでした」
俺が一番疑っていたのはヴィンセントだったから、この空振りは痛かった。
「それではネヴィル家の者たち。そこに並びたまえ」
公の声にしたがって、俺たちネヴィル家の使用人たちは、アルも含め、一列になる。
両手を挙げ、無防備になる。
「ちくしょう、なんで私たちが」
口では不満を漏らしたのは紫音だが、彼女さえも行動では大人しく従う。
そんな俺たちの検査役はヴィンセントだった。先頭のアルから順に、体に両手を這わせていく。
「…………」
俺のひとつ前がデシャンだった。俺は消去法で彼のことを疑っていた。けれどもヴィンセントは異物を発見できなかったようだ。
「次は君だね、執事君」
耳許で気色の悪い笑い声を発するヴィンセントにむかつきを覚えたが、抵抗するわけにはいかない。俺は両手を挙げたまま、彼のなすがままに任せた。
「おや……?」
そこでヴィンセントが手を止めた。まさぐるのは俺の上着のポケットだ。
「これはなんだい?」
ヴィンセントが手にしたのはごく小さな小瓶だった。そのため、ポケットに入っていても意識に上らなかったのだろう。けれど問題はそんなところにはない。
「これは毒瓶だね」
蓋を開け、中の白い粉を舐めたヴィンセントが愉しそうに呟く。
そんな馬鹿な。俺の疑問は鋭い声となった。
「そんなもの、手にした覚えはないぞ」
「でも実際に君の服から出てきた。言い逃れはできないんじゃないかな」
「ふざけるな」
俺の語気は荒くなったが、窘めるようにクラリック公が口を挟む。
「レイとかいったか。君がやったのかね」
「冗談じゃない」
「ならばこの状況をどう説明する? 貴様のポケットから出てきたのだぞ」
「濡れ衣だ」
「犯人はそうやって言い逃れるものだ。おおかたネヴィル卿に恨みでもあったに違いない。待遇に不満でもあったのかね」
「だから俺じゃないと」
「ヴィンセント。その執事を監禁しろ。使用人殺しもこやつがやった可能性が高い。じっくりと尋問してやるといい」
「お待ちください」
一方的に捜査を進める公に、堪りかねたアルが反論した。
「ここはネヴィル家の屋敷です。勝手な真似は慎んで頂きたい」
「ではネヴィル卿もご同席の上で尋問を行なおう。それで文句はあるまいな」
「失礼ながら文句はあります。玲はぼくの信頼を勝ち取った執事です。ぼくを殺す動機が見当たりません。彼を疑うのは、ぼくを疑うのと同義だとお考えください」
「フン、そんなに執事を疑われたのが嫌か」
アルの側に近寄って、クラリック公は口許を高慢に歪めた。
「しかし物証は彼の裏切りを示している。私心で事実を曲げてはなりませんぞ」
「証拠は不十分です。毒瓶から彼の指紋はまだ検出されていない」
「それは尋問のあとに行なおう。どうせ指紋など拭っているに違いないがな」
「…………」
アルが黙ったのと、ヴィンセントが俺を後ろ手にしたのは同時だった。
振りほどこうにも、彼の力は恐ろしく強かった。抵抗ひとつできないほどに。
「ネヴィル卿。貴公の書斎を借りますぞ」
アルの返事を待たず、クラリック公は歩きだした。
その後ろを俺とヴィンセントが続く。
このまま理不尽な罪を着せられるべく尋問に遭うのか。腹の底でふつふつお怒りがこみ上げてきたが、この場を制していたのはクラリック公だ。誰も逆らうことはできない。
しかしそれは俺の早とちりだった。
俺たちが歩きだそうとした瞬間、ホールにドスのきいた叫び声が響いた。
「ちょっと待てよ」
振り返ると、雪嗣がいた。その拳は固く握られていた。
「玲に濡れ衣着せやがって。俺は見ていたんだぞ、おまえが玲のポケットに毒瓶を入れるところを」
雪嗣が睨みつけた相手はヴィンセントだった。
「最初は目の錯覚かと思ったけど、自分らのいいように話を進めやがって。ようやく見間違いじゃないと確信が持てた。そこの執事、てめえが玲に罪をなすりつけた」
そこまで言うと、もう言葉はなかった。
床を蹴り上げた雪嗣は、もの凄い速度で懐に入る。そして固めた拳でもってヴィンセントの顔面に痛烈な一撃を与えた。
それはまさにクリーンヒットと呼ぶべき打撃だった。俺を締め上げていたヴィンセントが数メートルほど吹き飛んだ。
「おまえも同罪だ」
そしてあろうことか、クラリック公の間合いに飛び込み、その土手っ腹に強烈なボディブローをお見舞いした。公は押し潰されたは虫類のような声を出し、腹部を押さえながら絨毯敷きの床に突っ伏した。
「き、貴様……」
公が恨みのこもった目で睨み上げるが、雪嗣の攻撃は止まらない。
ネヴィル家の人間は、アルを含め、全員この一方的な暴力を眺めることしかできない。
「もうそこへんでやめておけ」
ひとりだけ冷静を説いたのは俺だった。
「まだだ。このくそ執事に自分の犯行を吐かせるまでだ」
雪嗣はヴィンセントのほうを振り返り、ふたたび両手の拳を固めた。
「やれやれ、不意打ちを食らってしまったよ」
ゆらりと立ち上がるヴィンセントはしかし、余裕たっぷりであった。
あれほど強烈な一撃を浴びておいて、傷ひとつないかのごとく穏やかに構えた。
「本気でやるなら付き合うけど……君、死ぬよ?」
「戯言をぬかすな」
血走った目の雪嗣と、悠然としたヴィンセント。
突如わき起こった乱闘に、もはや止めるすべはないのかもしれない。
そう思ったときだった。今度は玄関のほうで大きな物音がした。
振り返ると、馬車が見える。そしてトランクケースを抱えた我らが家令の姿も。
――カーソン?
こんなタイミングでロンドンから戻ってきたのか。
状況的には最悪で、間が悪いことこの上ない。雪嗣とヴィンセントも、乱闘を一時中断し、カーソンほうを振り向いた。全員の視線が彼のほうに注がれた。
「おや? 何かとんでもない状況になってるみたいだな……?」
その声に緊張感はないが、目は笑っていなかった。
鋭く細めた目をこちらに向けている。その先にはヴィンセントの顔があった。
「おまえがやらかしたのかい、ヴィンセント」
カーソンが声を張り上げ、クラリック家の執事に話しかけた。俺の勘違いではなければ、そこには赤の他人に対するものとは思えない、妙な馴れ馴れしさが感じられた。




