闇夜の遊戯
クラリック公が訪れてから、屋敷の様子がいつもと違うことに気づいたのは玲たち修学旅行組だけではなかった。
特に家政婦長のルース・ダグラスは、長年この屋敷に勤めてきた経験からいって、今宵の晩餐は異常だと感じた。アルバート、ベアトリス、クラリック公、誰もが口ひとつ利かない、まるで火が消えたような寂しい晩餐。
そればかりではない。キッチンメイドの紫音によれば、公の執事であるヴィンセントは厨房に押し入り、主人に出す料理の毒見をしたというのだ。いくら主人思いだとはいえ、そこまで無礼な真似はネヴィル家始まって以来のこと。紫音の愚痴を聞きながら、忠誠心の篤いダグラスは自分までもが愚弄された思いに駆られたが、いざ現実に立ち返ると自分にできることは何もない。そんな悔しさに歯噛みした彼女だが、
「ご主人様は次期首相になる公を全面的に支援することになりそうだ」
使用人室で玲が放ったひと言がさらなる憤りを招いた。四ヶ月前のガーデンパーティの折り、公爵令嬢であるエミリー様の高慢な態度を記憶にとどめるダグラスは、あけすけに言えばクラリック家を快く思っていなかった。そんなクラリック家に、まだ成人して間もないアルバート様がいいように利用されている。
詳しい事情に通じていないダグラスだが、自分の胸のうちでそう断じ、
「どうしてそんなことになったんだい?」
やり場のない怒りが玲に向かう。
「…………」
玲はその問いに答えなかった。無論、玲としては、主人の放ったスパイが摘発されたという真相は公言できない。ただ重苦しい顔で沈黙を守るのみ。執事として重圧を感じているだろうことはダグラスにも察せられたが、玲までこの態度ではらちがあかない。
「何か言えない理由でもあるのですか?」
不安顔で玲に尋ねたのは月だった。しかしそれでも、玲は答えない。正確にいえば、答えることができない。これは相当大きな闇があるのだ。ダグラスはそう確信し、戦時下で催されたハンティングが実はきわめて重要な会談だったことに思いを致す。
だからだろう。
夜が更け、屋敷が眠りに落ちていっても、ダグラスは眠れなかった。
彼女はこの屋敷の住人たちを、とりわけネヴィル家の人びとを愛していた。家族のいない彼女にとって、グリムハイド・アビーの人びとは唯一無二の家族なのだから。
だが、そんなことに思いをはせればはせるほど、眠りはダグラスを拒絶する。
月は天頂に昇り、そろそろ日が変わる時間帯だ。
彼女は眠り薬を必要だと悟った。眠り薬とはいわゆるアルコールである。この屋敷の鍵を管理する彼女にはそれを拝借する権限がある。普段なら絶対にやらないことだが、このままでは夜通し起き続けることになると思ったダグラスは、部屋を抜け出し、階下に向かうことにしたのだった。
ちょうどそのときだった。屋敷の外で物音がした。
窓から外を覗くと、ネヴィル家の愛車、シルヴァーゴーストが横付けされていた。
かすかなエンジン音を立て、何者かがトランクに荷物を詰め込んでいる。
一体誰だろうか。
目を凝らしてみると、その正体はすぐにわかった。ベアト様である。
(なぜベアト様が……?)
この時間帯に屋敷を立つ理由がわからない。隠れて夜遊びに行くとも思えなかった。
偶然目にしてしまったこの事実をダグラスは持て余した。止めるべきか、見過ごすべきか、最初は考えがつかなかった。
ひょっとして家出だろうか。
ベアト様の奔放なところをよく知る彼女には、理由はそれしか浮かばなかった。
足止めするにしても、ベアト様は令嬢だ。命令をできる対象ではない。それどころか、強行に出発されれば、止める権限などダグラスにはない。
誰かに報告せねば。そう思った。相手はアルバート様しかいない。
慌ててダグラスは階段を昇った。二階は主人と客人の間だ。アルバート様は寝静まっているだろうが、これは緊急事態。どんなことがあっても起きて頂き、家出を敢行しようとしているお嬢様を止めて頂かねばならない。
自然、駆け足となった。階段をひとつ飛ばしで昇る。老いた体には酷で、息が上がった。それでもダグラスには手をついて休む暇など与えられなかった。
ようやくアルバート様の部屋の前についた。
おもむろにノックをする。しかし返事はない。熟睡されているのだろうか。
もう一度ノックをする。今度は連打だった。しかし今度も反応がない。
扉の前に立ち尽くし、ダグラスは息を吐いた。
それは重く湿り気を帯びたため息だった。
興奮した自分を落ち着かせるべく、彼女は視線を闇に移した。
だが、そこには意外なものがあった。
客人の間からこぼれる小さな光だった。ドアの隙間からそれは細くこぼれている。
(誰か起きているのだろうか……?)
ベッドメイクをした都合上、彼女はその部屋の住人が誰か知っている。
クラリック公ではない。公の執事のヴィンセントだ。にやけた顔が疎ましい、あの気色の悪い執事である。
相変わらずアルバート様の部屋から返事はないが、ダグラスの興味はそのか細い光の先へと移っていた。静かに耳を澄ませば、会話の声が聞こえてくる。独り言ではない。誰か別の人物と会話をしているようだ。
足音を消しながら、ダグラスはその扉の側に歩み寄った。
そして聞き耳を立てるべく、ドアに耳を押し当てる。
「――――」
最初のうちは、会話は途切れとぎれでしか聞こえなかった。
しかしやがて、軽薄そうなヴィンセントの声が確かな輪郭を持ち始めた。
その発言は、ダグラスに衝撃を与えずにはおかなかった。
「これは即効性の薬だ。ネヴィル卿の食事に混ぜたまえ」
「ウィ」
独特なイントネーションを帯びたフランス語も聞こえてくる。
相手はデシャンだ。間違いない。ヴィンセントとデシャンが密談をしている。
「ネヴィル卿も憐れなものだ。素直に公のいうことに従っていればよいものを」
「――――」
ヴィンセントの声にデシャンがフランス語で答えた。
密談の内容は部分的にしか聞こえなかったが、世の中年女性がそうであるように、スキャンダラスな話を好むダグラスには、彼らの話題が容易に想像がついた。
――毒薬。
彼らはアルバート様の食事に毒を盛ろうと画策しているのだ。推理小説じみた憶測だが、ダグラスは自分の直感を信じた。理由は不明だが、彼らは主人を殺そうとしている。
思い切って部屋に押し入り、彼らの謀議を咎めねばならない。
そう確信したダグラスだが、あいにく彼女はか弱い女性のひとりだった。頭と体が別々の動きをする。どんなに勇気を振り絞っても、体はぴくりとも動かなかった。
そのわずかの間、一目散に走り去れば、もしかすると彼女は助かったかもしれない。
けれどピン留めされた蝶のように、ドアに貼付けられたダグラスには最良の行動をとる余裕はなかった。だから、次に起きたアクションにもまったく対応できなかった。
ドアは向こうから押開けられた。ダグラスは悲鳴を上げそうになった。
その口を片手で掴む者があった。にやけた顔のヴィンセントだった。
彼は物音ひとつ立てず、ダグラスを部屋に引き込み、
「おや、家政婦長。こんな時間に盗み聞きとは感心しませんね」
ダグラスはなおも悲鳴を上げようとする。だが、ヴィンセントの握力は万力よりも強く、彼女の頬を掴み上げた。ごりごりと骨が軋む音がする。
「どうしよう、デシャン。我々の会話は全部この淑女に漏れてしまったよ」
「――――」
ヴィンセントの発言に、デシャンはフランス語で答える。
それはやや強い調子の抗弁だった。
「口止めしろだって? 無理な相談だよ。人の口に戸は立てられない」
「――――」
「勿論、死んで貰わないと。完全な口封じにはそれしかない」
「――――」
「君もしつこいね。家政婦長は我々がアルバート様を殺そうとしていることだけでなく、君とボクがつながっていることも知ってしまったんだ。それをバラされたら、困るのはボクじゃなく君のほうだ。些か情のある相手だろうけど、諦めてくれ」
「――――」
「どうやって殺すつもりか? そうだね、そこは考えどころだ。このまま顔の骨を砕いてもいいし、別の方法をとってもいい。君の提案があれば聞き入れるけど」
「――――」
「できるだけ苦しまないように? 君は優しいね、デシャン。でもそういう出来合いの優しさは恩着せがましいというんだよ。どのみち彼女は死ぬ運命なんだ。その方法は美しい命を容赦なく押し潰すほうがいい」
「――――」
デシャンがフランス語で神に憐れみを祈った。
しかしそんな声はダグラスには聞こえない。自分をどうやって殺そうか、愉悦さえ浮かべて吟味する目の前のヴィンセントに深甚な恐怖心をかき立てられていた。
ベアト様の社交界デビューが反故になって以来、この屋敷を不穏な暗雲が覆い尽くしていた。戦争がそれをより一層濃くした。ダグラスはその不穏さが主人であるアルバートやベアトに及ぶことを恐れていた。しかしまっさきにターゲットになるのがまさか自分自身であったなんて。死にたくない。殺さないで。そんな悲痛な叫びが、強引に押さえつけられた口許から溢れ出しそうになった。
「――――」
そんな張り裂けんばかりの絶叫は、ヴィンセントの手から漏れて哀しく痛ましい息づかいとなった。けれども叫べば叫ぶほど、ダグラスは絶望を深めた。なぜならヴィンセントの大きな手は鼻まで覆っているため、ダグラスは今にも窒息しそうだったから。
ダグラスの手はヴィンセントの片手を掴んだ。それは死の淵にある人間が発揮する恐るべき馬鹿力であった。並の人間なら、それで手を離してしまうだろう。けれどヴィンセントは眉ひとつ動かさず、さらに力をこめてくる。こうなってはもはやダグラスに抵抗するすべはなかった。彼女は薄れゆく意識のなかで死を覚悟した。
「…………」
やがてダグラスはヴィンセントの手の中で意識を失った。ヴィンセントは、自分の隣で震えるデシャンに笑顔を送った。まるでこの出来事が愉しい遊戯であったように。
「――――」
デシャンは無言である。だがその遊戯にはまだ続きがあったようだ。
「家政婦長はまだ生きている。せっかくだからボクが頂いてもいいよね」
デシャンが答えるより早く、ヴィンセントはダグラスを抱きかかえた。
まるで男女が寄り添いワルツを踊っているかのよう。
そんなダグラスの首元に食らいついたのは、ヴィンセントの鋭い犬歯だ。
「生きた人間の血を吸うのは久しぶりだ。ああ、実に嬉しい……」
「――――」
デシャンは投げやりに、好きにしろ、という意味のフランス語を吐き捨てた。
「そうやって悪役をボクに押しつけて。人間は自分勝手な生き物だ」
コックの転職先を探していたデシャンに声をかけ、彼をネヴィル家に送り、悪評を立てるためのスパイとして数々の妨害工作をさせたのはクラリック公だ。その経緯と、スパイを受け容れたデシャンの人柄をヴィンセントはよく知っている。主の悪巧みに金欲しさで加担した、気難しがりやのコックとして。
だがそんな彼も、人ひとりを殺すとなれば、急に態度を変える。
殺さずに済ます方法はないかと、無理難題を口にする。
「本当に勝手だよ、君たちは……」
ヴィンセントの犬歯がダグラスの首筋に食い込む。そこに開いた穴からは、一筋の血液が生命の証のように流れ出てくる。ヴィンセントはそれを吸い取り、頸動脈から今まさに心臓から送られたばかりの血を、喉を鳴らして飲み干していく。
次第にダグラスの顔からは血の気が引き、体は萎れた花のように縮んでいく。
「でもそんな人間の血がなければボクは生きられない。無情な因果だね……?」
「…………」
一方、ヴィンセントの吸血行動を初めて目にしたデシャンは魂を抜かれたように絶句していた。自分の本当の雇い主――クラリック公はこんな化物を飼っていたとは。事実だけは知っていたけれど、いざ目の前で人ひとりを絶命させる様を見せつけられ、彼は気分が悪くなっていた。
「試しに君も飲んでみるかい、デシャン」
「……ノン」
おかげでヴィンセントの冗談にもろくに対応できない。彼の意識はもはや目の前の殺人にはなく、死体となったダグラスの処理に向かっていた。この吸血行動が済んだら、すみやかに彼女の部屋に運び、自然死したふうに装わねばならない。
デシャンの頭は急速に動き始めたが、それは自分の罪から逃げ出したいという現実逃避に他ならなかった。




