最後のお姿
日没を前にハンティングは終わった。
その成果であるが、結局のところヴィンセントの独壇場だった。その次がベアト様で、アルとクラリック公は会談に夢中だったようで成果は数えるほどでしかなかった。
屋敷に戻るや、俺は整備庫に向かった雪嗣に追いつき、
「アルの様子はどうだった?」
まっさきに尋ねたのはそれだった。雪嗣は猟銃をしまいながら、
「おふたりで話し込まれる時間が長かった。しかもこちらに聞こえないよう慎重にお話しされていたから会話の内容はわからん。詳しいことはアルバート様本人に訊いてくれ」
戦局を左右する重要な会談だったと見え、状況を把握してないという。
こうなっては彼のいうとおり、アルから直に訊くしかない。
やむなく俺は屋敷に戻り、お仕着せに着替え、階下に向かった。
アルとクラリック公はお茶を召し上がるはず。そのタイミングを見計らって会談の模様を把握しようと考え直したのだ。
案の定というか、運のいいことに、キッチンへ向かう途中、アルと出くわした。
狩猟用の衣服を着替え、書斎へ向かうところだった。
表情を見ると、顔色が非常に悪い。何か不穏さを感じさせる表情だ。
俺は素早く側に寄り添い、アルに耳打ちをした。
「会談の様子はいかがでしたか」
その問いにアルはしばらく答えない。
ややあって俺を振り返ると、気の滅入った声で返事をかえしてきた。
「これから書斎で会談の続きだ。知りたければお茶を配膳したあと聞くといい」
それだけいってアルは書斎に消えた。
よほど落胆する出来事でもあったのか、俺は端的に不安にかられた。
しかし仕事の手をとめるわけにはいかない。俺はキッチンでミルクティーとストレートティーを淹れる。あいにくクラリック公の好みは把握していないため、ストレートティーにミルクと砂糖壺を置くという無難な選択をした。
そのときの俺はよほど仏頂面だったのだろう。晩餐の準備に追われていた紫音が、
「どうした玲。おまえ、えらく無愛想だぞ」
「……マジか?」
「そんな顔で給仕に行くなよ。スマイルが大事だぜ」
彼女にいわれて、俺はアルの不機嫌がうつったことを知る。本音か欺瞞かはべつにして笑顔ひとつないアルを見るのはほとんど未経験だったから。
「……こんな感じか?」
「固い笑顔だな。そんなんじゃアルバート様に叱られるぞ」
事情を知らない紫音は軽口を叩く。それはいまの俺にとってわずかな慰めだった。
やがて紅茶を淹れ終わり、俺はそれを銀の盆に載せ、書斎へと向かう。
扉をノックすると、アルの返事があった。それを合図に静かに入室する。
入室した書斎は、さきほどのアルの様子を体現したように重苦しい空気に包まれていた。
しかしそれは、主人のアルが落ち込んでいるだけで、クラリック公は溌剌とした笑顔を咲かせていた。比較すれば、どちらが優勢か一目瞭然だった。
俺はテーブルにふたりぶんの紅茶を置き、公には好みのミルクと砂糖を入れてくださいませと申し添える。
公はさっそくミルクを注ぎ、スプーンですくった砂糖をどばどばと放り込む。
俺はちらりとアルを一瞥するが、会話が弾んでいる様子はない。
万が一、会話の断片でも聞ければと楽観的に思っていたが、これでは情報収集は望むべくもないだろう。
俺はふたりに一礼し、部屋を退出しようとした。
その動きを厳かな調子で片手で制したのはクラリック公だった。
「待ちたまえ、執事君。君もここに残るといい。きょうはネヴィル家にとって重要な判断が下された日だ。君は執事としてそれを聞く義務がある」
「……義務ですか?」
「そうだ。ネヴィル卿は私の要望を満額回答で聞いてくれた。これで我らがブリタニアの未来は明るい。みなの期待どおり、戦争は長くは続かないだろう」
俺は、公が早期停戦派だということさえ知らなかったので、おうむ返しで頷くことしかできなかった。
そんな公の力強い声を受け、アルがか細い声で会話を継いだ。
「クラリック公は首相に就任し次第、議会によって終身権を付与される。戦争を早期解決に導き、戦況打開のために模索されていた徴兵制を非実施することと引き替えに」
「それにくわえてアイルランド問題の解決が終身権の条件だ。大英帝国の足下を揺るがす全ての動きを封じ込める。その任を背負った上での終身権だ。大衆の支持獲得のためには彼らに普通選挙権を与えることにする。王族、貴族のための国家から、大衆のための国家に変えるのだ。保守党内の多数派工作は課題のひとつだが、ネヴィル卿の供出される政治資金によってほどなく党内はまとまるだろう」
クラリック公が口にしたのは、俺が知る世界史とは別物であり、俺が知るイギリスとはまったく異なる大英帝国の姿だった。
「それが実現されれば、もはや大英帝国は帝国ですらなくなりますが」
「無論だ。我が国は共和国に生まれ変わる」
「そこには王の退位は含まれるのでしょうか」
「そこは陛下のお心次第だ。私から何か強制することはない」
俺の不躾な質問にも丁寧に答えてくる公。自分の描いたバズルのピースが埋まり、抗いがたいほどの愉悦が襲っているのだろう。口調は穏やかだが、顔色に興奮が滲んでいた。
しかし冷静に考えてみよう。
アルはクラリック公の野望に反対の立場だったはずだ。
それがなぜ数時間のハンティングの末、満額回答につながったのか。
「アルバート様、この結論は一体……」
俺のとぎれがちな声に、アルは黙っていたが、体は小刻みに震えていた。
それは、彼にとってこの最終案が受け容れがたいものだったことを物語る。
「ネヴィル卿の口からは言いにくかろう」
斯くして会話の端を引き取ったのはクラリック公だった。
「ネヴィル卿は我が屋敷にスパイを放っていたのだ。自分の下僕を辞職したと見せかけ、クラリック家に再就職させるという手段でな。こんな卑劣な、爵位を汚すような真似をされては貴族として生きていくことはできない。その一件を私の一存で握りつぶす代わりに卿には私のビジョンを共有して頂くことにしたのだ」
自信満々でいうが、言い換えれば脅迫したというわけだ。
しかしどちらの失点が大きいかといえば、勿論アルのほうだ。俺は彼のスパイ行為を知っていたが、それが露見したときのことは考えていなかった。
大敗北。これを戦争に例えるなら、彼はとりかえしのつかない敗北を喫したのだ。
だが、それだけではアルの悲壮な顔の説明はつかない。彼は敗北を受け容れながら、ただそれに打ちのめされるだけでなく、何か深い思慮を感じさせる顔をしていた。
その疑問は、次のアルの言葉によって明らかになる。
「クラリック公」
「なんだね?」
「私は公の提案した内容のほぼ全てを受け容れました。立憲政治の根幹を揺るがす終身権の付与についても受け容れました。ただひとつだけ、受け容れがたいことがあります」
「ほう、まだ反論する余力があったか」
あごひげを撫で回す公を、アルは静かに燃える熾火を思わせる目で睨んだ。
「国王陛下の退位は断じて認められません」
「だから私は強制はしないといっておる」
「けれども公は、このイギリスを共和国に変えると仰った。それは陛下の退位を見込んだうえでの発言と受け止められます。ネヴィル家の家訓は王族への忠誠。それを汚す企みに手を貸すことは貴族として許容できることではありません」
「馬鹿馬鹿しい。私が終身首相に就けば、そして国民一人ひとりに政治的権利を付与すれば、いずれ貴族など無用の長物と化す。卿の抵抗は意味のない迷いだ」
迷いを捨て、自分の側につけ。
クラリック公はそう猫なで声で言い、アルの翻意を促した。
「しかし私は陛下の地位を保全しない限り、公の考えに乗れません」
「スパイ行為を告発するといってもか?」
「構いません。汚名を背負うより、陛下への忠誠のほうが大事です」
「むう……」
最後の詰めで粘り腰を発揮するアルに、クラリック公はあからさまに不機嫌になった。
「貴公との話し合いはいつも最後で物別れになる。残念で仕方ないよ」
「とはいえそこを譲ってはもはや私は私でなくなります」
「なるほど。あとで後悔しないことだな」
アルを翻意させねば政治資金は得られないというのに、クラリック公の引き方は意外にあっさりとしたものだった。彼はあすまで屋敷に滞在する。そのあいだ、もう一度アルを攻略する算段でもつけたのだろう。
「…………」
給仕したお茶にも手をつけず、会話はそこで立ち消えになった。
俺は情報収集以上の暗部を覗き込み、ますます政治への不信感を深めていた。
「もういっていいよ、玲」
アルが弱々しくもわずかな威厳を保った顔を俺に向けた。
俺は国王がどうなるべきか、自分の考えなど持っていない。だがアルは、自分の信念を最後まで貫き通そうとした。そこには執事として敬意を感じざるをえなかった。
「失礼いたします」
混沌とした政治状況を棚上げすれば、それは自分の主人を誇らしく思う感情だった。
俺は丁寧な礼をして、書斎を出る。
そして向かった先は使用人室。部屋を出ると、どっと疲れが出たのだ。
しかしそこには俺を待ち構えていた人物がいたのだ。ベアト様である。
なんとそこで紫音と会話をしている。
盗み聞きするつもりはなかったが、紫音は大きな声で愚痴をこぼしていた。
「あのヴィンセントって執事、ちょっとおかしいよ。キッチンにやってきて、毒見をさせろとかいうんだぜ。どんだけ信用してないんだって話ですよ」
興奮しているせいか、敬語が乱れている。
「おまけにデシャンさんもそれを易々と許すしさ。ああむかつく。ベアト様もそう思われますよね?」
「痛くもない腹を探られるのは気に入らないな」
「やっぱそうでしょう? 公爵の執事だか何だか知らないけど、爵位が上だからってあんな横暴な真似ができるんですね。だから貴族社会って気にいらねぇ」
その言葉を貴族相手に吐くか? というツッコミが喉元まで出かかったが、それをベアト様の発言が封じてしまった。
「レイ、待っていたぞ。これからドレスに着替える。着替えを手伝え」
ベアト様の従者制はまだ続いていた。きょうは雪嗣が担当の日だ。
「雪嗣に頼んではいかがでしょう」
「おまえがいい。少し話したいこともあるんだ。私の部屋までこい」
平気で従者制のルールを破り、ベアト様はそそくさと使用人室を出た。
「ドレスをお召しになるなど、どんな風の吹き回しですか」
俺はベアト様の部屋に入るなり、彼女の心変わりに質問を浴びせた。
「べつに。何となく着たくなった」
「それが理由ですか」
「私はドレスを着たくないんじゃない。普段着にしたくないんだ」
例によってわがままか。本当にこの人は、全てを自分にペースに巻き込むお方だ。
とはいえ、俺も特別反論したいことがあったわけではなく、
「それではお手伝いいたします」
下着姿になったベアト様を極力見ないようにし、着替えの補助をする。
そのドレスは、以前王の拝謁で着たドレスと同色、同柄のもの。爽やかな夏色のドレス。色の白いベアト様によくお似合いの衣装だった。
「…………」
俺が背中側のボタンをとめると、鏡に映ったベアト様の半身が見える。
「とてもお美しく存じます」
「髪もアップにする。手伝え」
「畏まりました」
元々女性の髪の扱いなど慣れていなかった俺だが、もっぱらベアト様に強いられ、巻き髪やロールアップあたりなら問題なくできるようになっていた。
「…………」
柔らかくしなやかな髪を手でほぐし、ひとまとまりにしていく。
そんな作業をしながら、俺はベアト様が自分を呼び寄せた理由に思いを馳せていた。
――ハンティングが終わった後、返事を聞かせろ。
革命家になるべく、自立を目指しているベアト様。その願望は、アルと彼女、どちらを選ぶかという選択を俺に強いるものだった。
当然のことながら、ハンティングが終わっても、俺の答えは出ていない。
それどころか、アルの窮地を知ってしまった今では、彼を見捨てるわけにはいかない。
そんな懊悩を抱え、俺が悶々としていると、
「レイ、答えは出たか?」
鏡に映った口が動き、彼女が俺を見上げてきた。
答えとは勿論、アルを選ぶか、ベアト様をとるか、その決断に他ならない。
俺は迷っている自分を肯定し、正直に答えることにした。
「答えはまだ出ておりません。それどころか……」
「どうした?」
「アルバート様が窮地に陥っています。いま彼を見捨てることはできません」
「べつにアルを見捨てろとは言ってない。私の味方をしろと言っているんだ」
「それは相反する状態です」
「なぜだ?」
「革命家になられるということは、この国のあり方を変えることを意味します。アルバート様は古い秩序を大事にされる方です。必然、ベアト様と利害が対立します」
「それは難しく考えすぎだ。アルに力を貸しながら、私の夢を共有する。同時にやればよいではないか。世界がどう変わるかは、所詮私たちの一存ではどうにもならない。神の定めた運命だけが全てを決める」
「つまり、二股をかけろと仰るのですか?」
「そんなにおかしいことか。おまえは自分の力を過大評価しすぎだ。おまえがアルに力を貸したところで、大多数が王制の打倒を唱えれば、革命が勝利する。逆もまたしかりだ。勝利はおまえの一存では決まらない。イギリスの国民がどちらを選択するかだ。私はその選択において、革命の側を選ぶだけ。おまえはアルに対するのと同じだけの忠誠を、この私にも注げばよい。何度もいうが、決めるのは国民だ」
ベアト様の論法は一風変わっていた。
しかしどこか筋の通った意見にも思える。特に自分の決断が状況を左右すると思い込んでいたあたりは虚をつかれた思いだった。
俺はふたりの主人を持つ。いまはその優劣をつける局面ではない。
例えば本当に革命が勝利を収め、貴族の残党狩りでも起きれば事情は別だろう。けれど大衆蜂起がそこまで野蛮な行動に出るかは想像の域を超えない。いわば俺は自分の決断を先延ばしにできるのだ。そしてベアト様はその先延ばしを許容されるという。
俺が自分の頭を整理していると、ベアト様が少し微笑みながら、
「思うに、おまえは真面目すぎるんだよ。物事をすぐに二項対立で考える。私はおまえに革命家になれといってるんじゃない。革命家になる私の味方になれと言っているんだ」
「しかし、それは革命に加担することになるのでは?」
「何度もいうが、その迷いは自分が世界を変える鍵となったときに考えろ。それは選ばれし者だけが許される迷いだ。私はまだその立場にない。勿論、おまえもだ」
「なるほど、選ばれし者の悩みですが……」
確かに俺はいち執事だ。それもごく平凡な人間だ。
アルやクラリック公とは遙かに社会的地位が異なる、ただの平民だ。
俺は自分の思考のおこがましさを知った。この屋敷で政局が動いていることから勝手に自分を何者かと思い込んでいた。しかし蓋を開ければ、俺は大衆の一人にすぎない。
「すみません、ようやくベアト様が仰ることを消化できました」
「べつに責めるつもりはない。納得できたのならよしとしよう」
「はい、納得いたしました。私でよろしければ、あなたのお力になりましょう」
「嬉しいぞ、レイ」
鏡のなかのベアト様はにっこりと笑っていた。それに俺の返事を聞き、わずかに頬を赤く染めている。その表情は、俺が正解に辿り着けたことを意味した。
俺はアップにしたベアト様の髪をピンでとめ、その出来映えを確認する。
「こちらも出来上がりました」
「うん、いいな。悪くない仕上がりだ」
ベアト様が淑女のような格好をなさるのは珍しいことだが、いざそれらしく外見を調えるとこんなにも立派な貫禄が出るのか。
「僭越ながら、大変素敵なお姿かと存じます」
本当に、このまま貴族をやめられるのが勿体ないほどに。
俺がそんな満足に浸ったのと、ベアト様が口を開いたのはほぼ同時だった。
「レイ、実はおまえにだけ言っておきたいことがある」
「なんでしょうか?」
「今晩、私はロンドンに立つ。アパートはもう借りてある。問題は交通手段のシルヴァーゴーストだが、あとでバークマンに取りにきて貰う」
まさかこのタイミングで家を出られるとは俺も予想していなかった。
だからその発言を聞き、言葉を失ってしまった。
「出立をアルに話せば、止めるに決まっているからな。アパートの場所はおまえにだけは教えておく。車はタウンハウスに止めておく。バークマンにはそう伝えろ」
今後起こりうる状況はすでに整理されきったあとなのだろう。それくらいベアト様の準備は万全だった。そして俺を味方につけと言った理由の一端がわかった。屋敷で唯一連絡先を知っている相手を作り、アルを過剰に心配させないためでもあったのだ。
そしていま鏡に映っているのは貴族であるベアト様の最後のお姿。
きょうの晩餐を最後に、彼女は貴族ではなくなる。
「よし、準備が調ったな。階下へ行こう」
椅子を立ち上がり、綺麗なターンでドレスの裾を翻す。
そんな麗しいお姿は今宵でもう最後かと思うと、彼女の味方をすると言った俺でも一抹の名残惜しさを感じてしまうほどであった。




