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孤児院の秘密

 クラリック公が共同経営する孤児院に訪れるのは稀だ。


 たいていは執事であるヴィンセントが代行し、所定の目的を果たす。クラリック公自らが出向くときは経営に関わる大事があるか、きょうのように電話ではできない秘密の謀議を巡らせるときのどちらかである。


「子供たちはうまく飼い慣らしてあるようだな」


 口ひげを撫でながら言うクラリック公に、スペンサー将軍が鷹揚に答える。


「それはもう。エレンがよく働いてくれてます」

「献身的なメイドだ。我が屋敷に引き抜きたいくらいだよ」


 院児の心のこもった歓迎会を経て、スペンサー将軍の書斎に閉じこもったクラリック公とヴィンセント。メイドのエレンと副院長に雇った新人は、最初のお茶を給仕させた以外、人払いをしてある。こちらから呼ばない限り、彼らが現れることはない。


「クラリック公、エレンを引き抜かれたらこの孤児院は立ち行きません」

「冗談だよ、スペンサー将軍」

「それならよいのですが」

「屋敷の人間が何人か従軍したので人手不足なのだよ。彼女が君のメイドでなければ本気で引き抜きたかったところだ」


 志願兵が何人も出るとは、クラリック公の屋敷は愛国者が多いのだろうか。

 そんな益体もないことをスペンサー将軍が考えていると、クラリック公が葉巻を取り出した。口の部分を専用ナイフでカットし、ヴィンセントがマッチで火をつける。


「和平交渉が座礁して何となく戦争が起きてしまったが、大陸では連合軍の苦戦が伝えられている。この状況を好機とし、次策を練らねばならん。将軍、君はどう考えるかね?」


 口からゆるやかに煙を吐き出し、クラリック公が将軍の顔を見た。

 まるで彼自身の腹の内を当ててみよと言わんばかりの表情だ。

 将軍は公の真意を概ね把握している。だから何の迷いもなく、静かに言葉を継いだ。


「軍人として申し上げますと、大陸での戦況は思わしくありません。ただ、どちら側も決め手に欠けるため、膠着状態が訪れるのは時間の問題。そこを長い戦いの入り口と見るか、それとも早期停戦の道標と見るか。バルフォア首相に開戦の責任を押しつけ、早期停戦論の主導者として公が立ちますれば、厭戦気分に陥った大衆の支持を得られるでしょう」

「よく状況分析ができている。さすが将軍だな」


 クラリック公は秘密にしているが、彼は一度、バルフォア首相から後継指名されている。和平交渉の失敗、その責任を取るといえば、通例なら受理するのが相場だ。


 しかし開戦時の首相となれば、今度は戦争に責任を負ってしまう。クラリック公が慎重にも後継指名を不受理したのは、それをバルフォア首相に押しつけるためだった。


「いずれにしろ、党内での支持者は減り、首相は求心力を失っている。首相になるだけならばいつでもなれる。問題は最適のタイミングだ。その意味で、連合軍の苦戦は実によいニュースだと考えている。早期停戦に大義名分が立つからな」

「ちなみに停戦交渉にはやはり……」

「陛下にご出馬頂く。ドイツ皇帝を引っ張り出すにはそれ以外あるまい。問題は中東の利権だが、ほしければ分けてやる。大幅な譲歩をしても、戦争によって目を覚まされた大衆は自分や家族の命より大事なものがあるとは思うまい」


 葉巻を吸いながら、そこまでいって公は指をパチンと鳴らした。

 側に控えたヴィンセントがグラスを取り出し、テーブルの上に置く。そしてデキャンタに移したワインを音もなく注ぎ込む。


 ワインを注ぐ音以外に書斎を満たすのは静寂だけだった。

 その厳かな静けさを破ったのはスペンサー将軍のひと言だった。


「そうなりますと、公」

「なんだ?」

「私はどのように動けばよいでしょう。アイルランドには、共和国派に手だれの元軍人を何人も送り込み、戦況を優位に運んでいます。しかし早期停戦派を組織するとなりますれば、イギリス全土に指導者を送り込まねばなりません」

「そのとおりだな。人選は任せた」

「承知いたしましたが、問題はその先です」

「先だと?」

「公は早期停戦を旗印に後継首相に就かれる。そこから先の政治的野心はどこまで大きなものなのでしょう。そこを知らぬ限りは支援のしようもありません」


 スペンサー将軍とて、公の真意を残らず把握しているわけではなかった。

 むしろ『その先』に関わる言は、丁寧に避けられていたと思っている。

 直接聞くのは憚られたが、きょうこそはそのデリケートな部分に触れようとスペンサー将軍の心は固まっていたのだった。


 ――革命。


 その言を最初に将軍に述べたのはヴィンセントだった。

 公を見えない部分で支えている彼が、将軍相手にぽつりとこぼした言葉。そのひと言で、将軍はクラリック公の遠大なビジョンを理解した気でいた。公は首相どまりで終わる器ではない。その先を見通す類希なる指導者だと。


「私の政治的野心か……」


 斯くして公はワインを流し込み、将軍の期待に応えるのだった。


「どうするのが最良か、私はヴィンセントと長く話し合ってきた。どうすればこの国を掌握できるのか。しかし彼の読みどおり戦争が起きたとき、私は確信した。最初は夢物語のようだった運動がついに現実味を帯びたのだと」

「その運動とは?」

「革命のことだよ、将軍。我々はクロムウェルであり、ナポレオンになるのだ」


 いざ言葉にして聞けば、それだけのものだった。

 しかしそのひと言の背後に広がる雄大な景色は、もう老いたといっていいスペンサー将軍の心を掴んで離さなかった。いまこの瞬間から、我がブリタニアの歴史は変わる。


「素晴らしい展望です、クラリック公」


 年甲斐もなく打ち震えるスペンサー将軍にヴィンセントが寄り添った。


「ワインをお注ぎいたしましょうか」

「ああ、頼む」


 本心をいえば、スペンサー将軍は、この影のように寄りつくヴィンセントという執事を苦手な相手だと思っていた。どんなに軍略の立て方はパーフェクトでも、人間的に好きになれない相手だと。しかしそんな忌避感がいまはどうでもよくなる。


(老兵の自分に、もう一花咲かせるチャンスが到来しようとは……)


 そう心のなかで独り言ち、将軍はワインを飲み干した。

 あとは革命という目標に向かって、どんな戦略を立てるかだ。


 志願兵で膨れ上がったイギリス軍だが、大衆蜂起をかき立てるには徴兵制の実施でさらに膨れ上がったときのほうが望ましい。


 いずれにしろ、正規軍をこちら側が掌握しなければならない。

 アイルランドに投入した元軍人から参謀役を選ぶ必要が生じる。そのあたりの人選は、軍で用兵に携わったこともある将軍の仕事だ。


「ところで将軍」


 想像を膨らましたスペンサー将軍を現実に引き戻したのはクラリック公だった。


「なんでしょうか」

「我々の計略を実行するにあたっていくつか障害がある」

「障害ですと?」

「そうだ。ヴィンセント、おまえの口から話せ」

「御意」


 クラリック公の言を引き取って、ヴィンセントが恭しく礼をした。


「ご主人様が首相就任するにあたって、議会である法案を通す予定です」


 将軍に対し直立の姿勢で、彼は言葉を続ける。


「それはあらゆる戦争が集結するまで、首相に終身権を付与するものです。その戦争には大陸での争いのみならず、アイルランドなど内部での戦争も含みます。いわばご主人様は平和の使者。それを達成するまで首相の任を解かれません」

「なるほど。悪くない提案だと思うが」

「けれどそこでひとつ問題があります。終身権を付与するにあたって、党内に反対派が存在しているのです。彼らの元締めは私たちのよく知る人物です」

「何者だ、反対者とは」

「トランザム卿です。彼は表向き我々の派閥に属していながら、それとはべつにバルフォア派にも通じていたのです。いわゆる二股という形で」


 ここまでいったところで、クラリック公が会話に口を挟んだ。


「将軍、私は慎重派だ。邪魔者は丁寧に取り除きたい。この意味がおわかりか?」

「つまり、暗殺せよと?」


 将軍の返答に、クラリック公は無言で頷く。それは承諾の意に他ならなかった。


「殺し方だが、往来で派手にやらかすのはまずい。世論が盛り上がらない地味な殺し方が望ましい。たとえば屋敷で頭部を撃ち抜かれたりするような……」

「それでしたら、腕のよいスナイパーを用意しましょう」

「さすが将軍だ。話が早い」


 ぱちぱちと拍手を送るクラリック公。将軍は平伏して頭を下げた。


「そして障害はもうひとつある。何かわかるかな?」

「いえ、想像がつきません」

「先刻、その動向を探っていた相手だよ」


 そこまでいわれれば、将軍にも答えがわかった。


「ネヴィル卿ですか」

「彼には手を焼いている。正直我々も持て余しぎみでね」


 しかし将軍の理解では、ネヴィル卿は下院に議席を持っていない。派閥争いとは無関係のはずだ。必要な金は出させているし、一体どんな問題があるというのだろう。

 その疑問は、会話を引き取ったヴィンセントの発言で明らかになった。


「実は屋敷の下僕がスパイ行為をしているのを見つけまして。元ネヴィル家の使用人だったことから類推するに、命令を出したのはネヴィル卿とみて間違いないでしょう」

「ネヴィル卿がスパイ行為を?」

「ああ。今のところ巧妙に泳がせているがね」


 苦虫を噛み潰したような顔でクラリック公が吐き捨てる。


「通信手段は手紙で、中身まで見たわけではない。だが、あの若造には知られた可能性がある、こちら側の野心を」


 それを聞いて将軍は驚いていた。あの若者がそこまで本気だったことに。

 同時に排除すべき障害だという理由も得心がいった。


「こちら側もスパイ行為をしているわけだから、道義的理由で叩くわけにはいかんがね。まあ、ネヴィル卿にはツキがなかったと思って頂くより他ない」


 クラリック公は静かな笑い声を立て、将軍を見据えてきた。


「取るべき手段はひとつしかない、ということですね」


 トランザム卿と同じ。謀殺以外に選択肢がないということ。


「そのとおりだ。屋敷のスパイにはすでに指示を出してある。来月にもネヴィル卿にも最後通牒を出しに行く予定でな。もしそこで寝返れば、命は首の皮一枚つながるわけだ」

「懐柔するおつもりがあるのですか」

「彼は大金持ちだからな。味方になってくれるなら殺すまではしない」

「すべてはネヴィル卿の一存で決まると」

「賢い選択をしてくれることを祈っているがね」


 そこまでいって、クラリック公は葉巻を灰皿に押しつけた。

 公にぴったりと寄り添ったヴィンセントは、空のグラスにワインを注ぎ込む。

 一部の隙もないムーブだったが、クラリック公は微妙な動きを察知したようだった。


「おまえもアレが飲みたいのか?」

「バレておりましたか」

「ひと月ぶりの本物だろう。指先の動きに焦りが滲み出ているぞ」

「恐縮でございます」

「将軍、()()()()をヴィンセントに」


 指先ひとつを動かし、クラリック公はスペンサー将軍に命令した。


「少々お待ちあれ」


 席を立った将軍だが、扉を開けて副院長を呼び寄せた。


「――――」


 二言三言話し、副院長は下がっていく。


 先任のバーンズが共和国軍に従軍するためアイルランドへ行ってから、孤児院の副院長にはクラリック家の従者がついていた。将軍にとっては新入りだが、クラリック公においては屋敷の事情を完全に把握した、忠実な僕である。

 やがてその従者は戻ってきて、扉を軽くノックしたのち入室する。


「お持ちいたしました」


 彼が手に持っているのはデキャンタである。

 容器の三分の二ほどを満たした濃赤色の液体は上等な赤ワインを思わせる。

 しかしその液体はワインより濃厚で、容器に張りつく独特な粘り気を持っていた。


「失礼いたします。ヴィンセント様」


 ヴィンセントにデキャンタとワイングラスを手渡すと、副院長は下がって行った。


「無礼講だ。そのソファでゆっくりやりたまえ」


 クラリック公が隣のソファを指し示し、ヴィンセントに自由を与えた。

 通常、執事が主人と同席するなどありえない。しかしそうした作法を熟知しているスペンサー将軍も、異を唱えなかった。この流れは一種の儀式なのだ。公がヴィンセントに許した特別待遇。将軍とて口を挟む立場にない。


「それでは頂戴いたします」


 デキャンタの液体をグラスに移し、ヴィンセントはそれを陽光にさらした。

 ガラスを透過する光が液体の赤さをさらに際だたせる。


「…………」


 グラスに口をつけ、ヴィンセントが美味そうに喉を鳴らす。これがワインならば、ごくありふれた光景だろう。しかし将軍は、その液体がワイン以外の何かであることを知っている。彼がヴィンセントを人間的に嫌悪するのも、この儀式が原因なのだった。


「美味いかね、子供らの血は」

「ええ。抜き立ての味は堪えられません、マイロード」


 ――人間の血。


 ヴィンセントはそれを飲む習性があるのだ。

 常識的には考えられない。戦場というこの世の地獄を見てきた将軍だが、ヴィンセントが飲む一口ひとくちにはそうした地獄が凝縮されているような気がした。


(なんとおぞましい……!)


 クラリック公は可愛い飼い犬に向けるような目つきをしているが、かろうじて常人の倫理を保っている将軍には狂気の沙汰に映っていた。そしてその狂気に自分が手を貸していることにも嫌悪感が募ってくる。


 なぜなら将軍は、健康検査の名目で、ヴィンセントが飲む血液を毎月のように準備し、彼に供している張本人だった。新鮮な血は彼の舌を満足させ、残りの血は乾燥処理を施したあと粉末状の頓服薬に変わる。犠牲者は何も知らない子供たち。将軍自身、最初はその使い途を知らず、本当に健康検査のためと信じていた。だからすべてを打ち明けられたときは、もう後の祭りだった。クラリック公の野心に当事者として関わってしまっており、子供たちを守るためという理由で反対するすべを彼は失っていたからだ。


(人間の血を飲むなど、奴は人間ではない……)


 何度も感じたヴィンセントへの怖気をここでも将軍は反芻する。


 ――吸血鬼。


 むかし読んだ小説に登場した人ならざる化物。ヴィンセントの裏の顔は、まさに絵空事としか思えないような化物の姿を想起させた。


 しかしどんなに彼がおぞましかろうと、革命を企む公に加担してしまった以上、将軍に逃げ道ともいうべき退路はない。ヴィンセントと公は一心同体だからだ。そしてヴィンセントの汚れた習性に嫌悪を覚えようと、さらなる権力への野心がそれを上書きしてくれる。


(きっと私は地獄に落ちるだろうな……)


 自嘲の笑みを浮かべる将軍だが、その皮肉げな呟きは最後まで声にはならなかった。

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