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大戦の余波

 第一次世界大戦。


 それは十九世紀末、絶頂に達したヨーロッパ列強の資本主義と帝国主義の不安定さを露呈する出来事だったと俺は世界史で学んだ。


 しかしそれが日常に溶け込むと、学術的な整理とはべつのうねりを呼び起こした。

 簡単にいえば、俺たち使用人たちの話題がそれ一色に染まる。


 ファルマスステークスから数日が経ち、元の世界より二週間以上早い開戦を迎えた第一次大戦は階下の住人にも抗いようがない影響を及ぼしていた。

 まるで戦乱の動揺に屋敷全体が投げ込まれたかのようだ。


「玲さん、ニュースでは何と言っているんですか」


 晩餐の配膳を終え、使用人室に戻った俺に食いついたのは月だ。

 ラジオニュースは応接間にいる貴族たちしか聞くことができない。給仕という立場でそれを聞くことができた俺に、みんなの視線が集まる。


「緒戦で連合国軍は苦戦しているようだ」


 第一次大戦は、イギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国軍と、ドイツ、オーストリア、オスマントルコからなる中央同盟軍との戦争である。


 イギリスはフランスに派兵し、ドイツの侵略を食い止めているが、元の世界の情報では戦局はやがてこう着状態に陥る。しかしこの世界ではドイツの進撃が激しく、ブリュッセルは陥落し、フランス国境はすでに破れてしまったという。


「長い戦争にならないといいけどね」


 心配そうに口を開いたのはバークマン。その発言にダグラスさんが頷く。


「――――」


 雪嗣は新聞を読んでいる。ラジオがない俺たちにはそれが唯一の情報収集手段だ。


「みんな辛気くさい顔すんのやめろよ。戦争ったって私たちには関係ないんだから」


 お通夜のような雰囲気に耐えかねたのか、紫音が空元気を出した。

 けれどそれで使用人室の空気が変わるわけではない。むしろその後に訪れた沈黙があまりに色濃いので、発言した紫音自身が口をつぐんでしまったほどだ。


 きっとみんな、わかっていて発言しないのだろう。

 この場では、ある事柄がタブーとなっていた。それは徴兵制である。


 アルの話によれば、史実では一九一六年、兵士不足を補うために徴兵制が敷かれることになるのだった。しかしこの世界はべつの歴史を辿っている。俺はイギリス軍が苦戦すればするほど、その悪夢が近づく予感がしていた。


 セルビアの地位をめぐって帝国主義国家たちが、さしたる大義名分もなく開始したのが第一次大戦だ。俺としてはそんな戦争に巻き込まれたくはない。


 ただし唯一の例外が、アルがそれにどう応えるかだ。今のところ何のアクションも起こしていないが、高貴な義務に則って従軍する可能性はありえる。そこに徴兵制が敷かれれば、俺はべつの大義を得ることになる。自分の主人を守るという執事としての名分を。


 その触れてはならないタブーに切り込んだのが、相変わらず空気の読めない月だった。


「玲さん、無理やり戦争に引きずり出されたらどうするんですか」


 慎重に言葉を選ぶそぶりもない。

 けれどその発言を無視できなかったのは、彼女が不安げに問うたからだ。


「おまえ、俺のこと心配しているのか」

「心配しますよ。私は玲さんに戦争で死んでほしくありません」


 正面から切り込んできた。こんなふうに問われたら答えないわけにいかない。


「アルバート様次第だな。ご主人様が従軍すれば、俺か雪嗣が従卒になるだろう。あるいは二人とも参戦することになるかもしれない。そこは俺が選べる部分じゃない」


 覚悟を決めているかと言われれば、自分でも怪しい。世界史レベルの知識でも、第一次大戦が泥沼化するのは周知の事実だ。俺の本能はそうしたこの世の地獄を避けたいと思う。高い確率で死ぬ戦場に率先して行きたい奴など戦争狂か自殺志願者だけだ。


「俺は戦争に行きたくない。徴兵制が敷かれる前に早期停戦を望むよ」

「早期停戦?」

「ああ。一応ドイツとの間でそれを模索する動きがあるようだ。国王陛下とドイツ皇帝が互いの利益を棚上げできればその可能性はあるらしい」


 これはアル経由で知った情報だ。

 彼はまだ、第一次大戦の結果を元の世界とは別の歴史に変えることを諦めていない。


「それじゃ、玲さんや雪さんが戦争に行かなくて済むかもしれないんですね」

「理論的にはそうなる」

「なるほど」

「それを聞いて安心したぜ」


 月と紫音が安堵の息を漏らした。俺の命ごときの行方を案じてくれていたことに素直に感謝したくなった。

 そんなときだった。使用人室にカーソンが戻ってきたのは。


「どいつもこいつも辛気くさい顔してんなー?」


 彼だけは、戦争が起きてからも普段の明るさを失っていない。


「特にレイ、おまえだ。おまえが落ち込むとルナちゃんやシオンちゃんが心配するだろ」


 肩に手を回し、額をぐりぐりしてくる。こういうスキンシップは正直うざったい。

 けれども彼なりに場の空気を配慮しているのだろうし、あえて抵抗はしなかった。


「カーソンさん、適当なこと言わないでください」

「そうだぜ。私はべつに玲のことを心配してるんじゃないんだからな」


 カーソンの戯言にふたりは膨れっ面になる。こういうとき俺は人望のなさを思い知る。


「馬鹿いえ。アルバート様はレイが落ち込むと塞ぎこんじまう。この屋敷ではレイの心持ちがバロメーターなんだよ。こいつにはどうあっても元気出して貰わなきゃならないの」


 そう言って額ぐりぐりを続けるカーソン。

 俺自身、先日の競馬以来、アルとの間にすきま風が吹いていることを感じていたので、


「わかりました。元気を出すよう努力してみます」


 カーソンの言葉に応え、精一杯の強がりを口にした。

 しかしそういう態度をとっても、彼は俺の体を離さなかった。


「おまえがなにを不安がっているか大方予想がつく。自分が戦争に駆り出されるかもしれないと恐れいているんだろう。その考えが浅はかなんだ。新首相に内定したクラリック公は早期停戦派だ。この戦争は思ったより早く終わるぞ」


 カーソンのセリフが俺の不安を拭おうとしているのはわかった。そしてそのセリフは、それなりの妥当性があるのだろう。


 けれど元の世界で大戦の辿る結末を知っている俺には、あえて楽観的な意見を述べているようにしか見えなかった。ゆえにカーソンがどこまで本気か俺にはわかりかねた。


「アルバート様もクラリック公を支援して、戦争の早期解決に懸けておいでだ。だからさ、オレたち階下の人間があれこれ気をもむ必要はないってこと。わかったか?」


 そこまで言って、ようやくカーソンは俺を解放した。


「承知いたしました、カーソン様」


 俺は自分が元気になったことを示すべく、懸命に笑顔を浮かべることにした。


「その表情がまだ固いな」

 カーソンは俺の頬をつまみ上げ、無理やり笑顔にさせる。


「もうひわけありまへん」

 おかげで変なしゃべり方になってしまたった。


 それを見て、爆笑したのが紫音だ。


「あははははっ、玲の奴、アホみたいなツラ!」

「フッ……」

 新聞に集中していた雪嗣も俺を見て思い切り苦笑した。


「玲、いざとなったら俺も一緒に従軍してやる。だからそんな気に病むな」

 おまけに俺をまっすぐに見据え、頼もしいことをいってくれる。


「カーソン、そこくらいにしておやりよ」

 ダグラスさんまで笑っている。隣に座ったバークマンもだ。


「ああっ! 今の玲さんの顔、写真に撮りたい!」

 中でも一番無邪気にはしゃいだのが月だ。両手でファインダーを作り、カメラマンの真似事をおっぱじめやがった。


 あっという間に使用人室は賑やかになる。

 戦乱がもたらした沈鬱をカーソンが吹き飛ばしてくれた。

 本当にこの人は凄い。人間力が段違いだ。


「そんなところでレイ。ご主人様たちにお茶を淹れるぞ」

「御意」


 すっかり空気の変わった使用人室を後にし、俺たちはキッチンへ向かった。

 調理は終えたのでデシャンはいない。俺とカーソンの二人だけになる。


 ヤカンに水を入れ、火にかける。

 静かに炎が燃え盛る音がして、俺はここが静寂に包まれていることを知る。

 だからカーソンの小声が俺の耳にすっと滑り込んできた。


「なあ、レイ」


 ティーカップを用意しながら、カーソンが俺に話しかけてきた。


「実際問題どうなんだ」

「どうとは?」

「戦争のことだよ。おまえ、従軍するべきかどうか迷ってるだろ」


 彼のひと言は俺の柔らかい部分を的確に刺し貫いた。俺は板に釘打ちされた蝶のように身動きがとれない。早い話、体が固まってしまった。


「なんでおまえがそこまで戦争のことを気にかけるのかは聞かない。けど早期解決の道を探っているというのに、おまえは地獄を前にした虜囚みたいな顔をしてる。どうしてそこまで気を逸らせる? アルバート様ならいざ知らず、いち執事であるおまえが」


 俺の瞳をのぞき込んでくるカーソン。俺はそれをスルーできなかった。


「私は徴兵されるのを怖がっています」

「あんなのは無責任な噂話だ。オレの読みじゃその前に戦争は終わる。ドイツと我が国が手打ちをしてな」

「しかし万が一の場合は噂話で終わりません」


 カーソンの弁は、俺には楽観論にしか聞こえず、つい反論してしまった。


「それに貴族は高貴な義務に従って、戦場に出向くことになるかもしれません。そんなとき私はアルバート様に付き従うのが義務でしょう。また戦争が長引く可能性がある以上、自分が徴兵されないという保証はありません」

「おまえ、そんなこと考えていたのか」

「はい。カーソン様は穿ち過ぎと思われるでしょうけど」

「わかった。おまえに足りないものを指摘してやろう」

「なんでしょうか」

「レイ、おまえに足りないのは自分としての意志だ」

「意志?」

「執事である前に、我がブリタニアの国民である前に、おまえ個人がどうしたいかだ。それがないから、戦況に左右される。アルバート様の意志が気になる。でもそれは問題から目をそらしていることに他ならないぜ」


 そういってカーソンは、俺の胸に指を突きつけてきた。

 その指は、俺の心臓を差していた。


「思うにおまえが迷っていることを知って、アルバート様も悩んでおられる。その悪循環をオレが断ち切ってやる。自分の意志を持て、レイ」


 もう一度、強い調子でいわれる。

 しかしそこまで追いつめられて、俺は悟った。自分には意志などないということを。


 ――命に価値はない。


 そんな頑な信念しかないことを。

 従軍か厭戦か。俺の信念からはその問いの答えは出ないということを。


「カーソン様」


 俺は彼の人間力にあてられ、決然と口を開いてしまった。


「俺はある信念を持っています」

「信念?」

「俺は命に価値はないと思っています。だから従軍を強いる理由があれば、それに従ってしまうものと思っていました。でも同時に怖いのです。地獄のような戦場でむざむざ犬死にすることが」

「なるほど。おまえはニヒリストだったんだな」


 カーソンは難しい言葉を使って俺の信念を把握しようとした。


「ニヒリズムっていうのはな、戦争に加担するのか否かを両方とも否定しちまう考えだ。それは何もしないこと、無力を意味する。一見悩んでいるように見えて、そこからはどんな答えも出てこないんだ。おまえに意志がない理由がわかったぜ」


 俺の心臓をとんとんと突き、カーソンは顔をまぢかに近づけた。


「レイ、そういう姿勢は自分の身を滅ぼすぜ。結局、アルバート様の判断に引きずられて、執事の義務だと自分を納得させることしかできないだろうさ。でも違うだろ。執事は忠実な僕である前にひとりの人間だ。自分の責任をご主人様任せにしちゃならないんだよ」


 従軍を選ぶか、厭戦を選ぶか、決めるのは自分。

 俺はそんなこと考えたこともなかった。

 だからもう一度、反論が口をつく。


「しかし、我が国に徴兵制が敷かれたときは……」

「そうなるのは、おまえみたいな人間には僥倖だろうな。意志に関係なく、片っ端から戦争に引きずり出されるわけだから。でもな、レイ」


 カーソンはそこで言葉を切って、急に優しい目つきになった。


「オレはな、おまえにそうなってほしくない。無理やり戦争に駆り立てられて、死ぬときのことを考えてみろ。最後は後悔して死んでいくんだぜ。そんな絶望をおまえに味わってほしくない」


 カーソンは本当にいい奴だ。

 俺は彼の意図を理解したから、反論の言葉もなかった。

 ただ彼に言われたことを反芻し、ありがたくて涙が出そうになった。


 ――意志を持たなかった自分。


 その弱点を抉られて、俺はただ恥ずかしそうに黙っていることしかできなかった。


「いずれにしろ、戦争はオレたちを否応なく狂躁の渦に叩き込む。アイルランドの内戦も抱えて、我がブリタニアは足下から動揺している。そこで何が起きようとも、後悔しないで生きていくには意志を持つことだ。時間はかかるだろうが、おまえがそこまで成長してくれることを祈っているよ」

「……御意」

「はははっ、そう固くなんなって」


 砕けた調子になってカーソンは俺の肩に手を回してくる。

 まるで友人か兄弟がやるようなハグだ。

 ふと視線を泳がせると、使用人室の入り口に月の姿があった。壁に半分隠れながら、俺たちの様子をじっと見つめている。


「どうした、ルナちゃん」


 カーソンが彼女に声をかける。月はびくっと肩を震わせた。


「覗き見とは趣味が悪いな」

「いえいえ、そんなんじゃなく。ただいい雰囲気だなーって」

「ああ。オレとレイは仲良しだからな」


 大事な話をし終わったあとということもあって、カーソンは緊張の解けた声になる。


「こんなときにカメラがないなんてっ!」


 月は恥ずかしそうに顔を隠し、使用人室へ逃げていってしまった。


「ルナちゃんはなんであんなはしゃいでいるんだ?」

「俺にもよくわかりません」


 物問い顔のカーソンを見やって、俺たちは密着した体を解く。


「ま、あとは自分で考えな」

 カーソンはぽんと肩を叩き、使用人室に消えた。俺はお茶淹れに戻った。


「…………」


 やがて紅茶は出来上がり、応接間のアル、ベアト様に運ぶ段となる。

 カーソンの説教を受けたからというわけじゃないが、心の重しがひとつ取れた気になって俺の足取りはわずかに軽快さを取り戻していた。

 だが、応接間に現れた俺を待ち受けていたのは、直立したアルとベアト様だった。


「いかがなされましたか?」


 テーブルに紅茶を運びつつ、もの静かに尋ねるも、返事はない。

 アルの横顔を見ると、苦悩に歪んでいる。


「どうなさいましたか?」


 ふたたび尋ねた俺にようやく気づいたのか、

「ああ、玲」

 放心状態のアルがこちらを振り向く。


「何でもない……いや、何でもなくはないか……」


 明らかに様子がおかしい。深々とソファに沈み込んだアルを俺は呆然と眺めることしかできない。

 代わりに、興奮ぎみに口を開いたのはベアト様だった。


「きょう、ロンドンで爆弾テロが起きたらしい。死人もたくさん出たようだ」


 耳を澄ませば、ラジオニュースの声が聞こえてくる。

 その声はアイルランド独立派によるテロ行為を伝えていた。繰り返し、繰り返し、眠気が出るほどの単調なトーンで。

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