開戦
ワンテンポ遅らし、貴賓室に戻った俺を待ち構えていたのは月だった。
「月ちゃん大勝利です!」
なぜかえらくテンションが高い。ヴァルゴ号が勝ったためか?
訝しむ俺に月は何かを突きつけてきた。それは馬券だった。
「おまえ、ヴァルゴ号に賭けたのか」
「そうなんですよ。配当は安いですけどそんなこと関係ありません。もう一度言います、月ちゃん大勝利ーっ!」
「自分で言うかな」
「玲さん、ノリが悪いです」
「馬券なんてどうでもいいんだよ。ヴァルゴ号が勝ったことが重要だ」
俺のご主人様――アルは四人組と賭けをしていた。ヴァルゴ号が勝ったら、彼らは国王陛下が和平交渉の席につくよう計らうと約束していた。いくら本命馬とはいえ、負ける可能性は十分にあったわけで、そんな無謀な賭けにアルは勝ったのだ。彼はさぞ喜びに打ち震えているだろう。
そんなことを考えながら貴賓室を見回すと、
「ネヴィル卿、勝利のコメントをお願いします」
「ぎりぎりのレースでしたが、ご感想は?」
部屋の片隅で新聞記者に取材をされている。アルの顔は心なしか紅潮している。
「私はヴァルゴ号の勝利を信じていました。いまは喜びで胸が一杯です」
月並みなコメントではあるが、アルは勝利の余韻に浸っているように見えた。
反対にアルと賭けをおこなっていた四人組であるが、すでにヘインズ卿、ウェルベック卿、トランザム卿の三人が退出している。当然のごとく、ニコラスの姿もなかった。
(ニコラスの奴、無事ご主人様を言いくるめたのかな……)
心の中で小さく呟くと、ひとりの紳士が俺のところへ歩いてきた。
一瞥すると、四人組の片割れであるダドリー卿だった。
「おたくの主人は鼻高々だな。私らはいい引き立て役だよ」
よほど気位が高いのか、負けてなお卿は尊大な表情を浮かべている。
無言で返すほど無礼なことはないため、俺は慎重にへりくだりながら、
「しかしながら卿、これで和平交渉が大いに進展するのですから、お国のためには僥倖であったかと」
「ほう、貴様は反戦派か」
「あくまで中立的な意見です。戦争はないに越したことはありません」
「それを反戦派というのだよ。避けられない戦争は、堂々と受けて立つほうがよい」
「それが道理にかなった戦争なら、やむを得ないと考えます」
「ことはそう簡単ではないぞ。大義名分など後からいくらでも立てられる。貴様はまだ若いからこの世のしくみをよくわかっておらんのだ」
ダドリー卿は執事の俺を鼻で笑う。賭けに負けた腹いせだろうか。
俺は卿の機嫌を損ねぬよう、穏便に答えを返した。
「……ええ、そうかもしれません」
「かもしれないのではない、そうなのだ」
そういってダドリー卿は、手近な席に座り、葉巻を取り出した。
貴賓室の使用人が慌てて灰皿を持ってくる。
「そこに座りたまえ、執事君」
卿は正面の席を指差し、俺に着席を促した。
アルはまだ取材を受けている。手持ち無沙汰な俺はその指示に従った。
「いいかね、執事君。貴様がどういう政治的立場であろうとも、主人であるネヴィル卿が熱心な反戦派である以上、選べる立場などないのだよ。主人が好戦派ならば戦争に行く、反戦派なら従軍拒否する。そして徴兵制が敷かれたら貴様らの主人は国となる。その指図ひとつで銃を担ぎどこまでも行く。そこに貴様らの気持ちが入り込む隙はない」
「完全に言いなりということですか」
「それが本来的な使用人のあり方だ。屋敷の執事になった以上、そうした覚悟があるものと思っていたが、ネヴィル家の調教は手ぬるいのかな」
口調は穏やかだが、所々に棘のある話し方だ。
やはり腹いせをぶつける相手にされているのか、それとも高位の貴族として、ネヴィル家の自由な気風に違和感を持ったのか。
「そもそも貴様は国家というものをどう考えている」
「国家ですか」
ダドリー卿は、戦争になれば主人は国家になると言っていた。
しかし元の世界の常識ではそれはありえない。ひとは人権を持っており、自分の人生を自分で決められる。反戦か従軍かは自分だけが決められる。
「私は国家を主人としたわけではありません、ネヴィル卿に仕えているだけです」
「それが最近の風潮なのかな。とんでもない勘違いだ」
ダドリー卿は葉巻を吹かし、俺のほうへ煙を吐き出した。
「貴様らがなぜ豊かで不自由のない暮らしができていると思う。それは貴様が作ったものではない。我が大英帝国が築き上げた資産があればこそだ。多くの大衆はその事実を自分に都合よく忘れている。もっとも大衆が無知であるがゆえに、彼らの行く末は我々高貴な者たちが導いてやらねばならんのだがな」
ダドリー卿の世界観は、貴族としては当然のものだったかもしれない。
だが俺は、小さな違和感を抱き続けてきた。相手が高位の方だったため、それを口にはしなかったが、段々セーブができなくなってきた。
「失礼ですが、ダドリー卿」
「なんだね」
「卿ご自身は好戦派なのでしょうか、それとも反戦派なのでしょうか」
「好戦派ではないよ、かといって反戦派でもない」
葉巻をくわえ直し、卿は俺を見据えてくる。
「たとえどんな結果になろうとも、国家の意思に従う。そして国家の意思を形成するのは我々貴族だ。高貴な義務でもって我々は国家自身となる。貴様のような大衆は、国家の命じるままに動けばよいのだ。主人の命が常に絶対的であるように」
ダドリー卿がそこまで語ったところで、取材を終えたとおぼしきアルが、月を引き連れこちらへ歩いてきた。
「ダドリー卿、うちの執事と密談ですか」
「違うよ。彼に世の中の仕組みを説いていたところだ」
「わざわざすみません、躾のなっていない執事で」
アルは謙遜するが、顔には不敵な笑みを浮かべていた。
俺はダドリー卿の正面の席をアルに譲り、月と共に彼の側で直立した。
「私も取材、受けちゃいました」
貴族との、神経をすり減らすやり取りをよそに、月は子供のように笑っていた。
その笑みを慰めとするも、ダドリー卿は席を立つそぶりもなかった。
「とりあえず、おめでとうと言っておこうか、ネヴィル卿」
「私は賭けに勝ちました。陛下を交渉につける件、ぜひともよろしくお願いします」
「本意ではないが、私とクラリック公で働きかけてみる。ただし、もし陛下が乗り気にならなかったら、交渉は諦めてくれ。最後は陛下のお気持ちひとつだ」
「それで構いません。私はただ、万策を尽くしたいのです」
「お気持ちはわかる。卿の反戦への意志は立派なものだ」
さすがに貴族相手では、ダドリー卿も尊大な様子を控え、アルを持ち上げた。
しかしそれは、すぐさま翻されることになる。
「ネヴィル卿。今回の件で自分の意志がなんでも通ると思ったら大間違えですぞ。たとえ陛下が反対しても、約束の政治資金は用意して頂く」
傲慢な態度を隠さず、アルの退路を塞いでくる。
「お言葉ですが、陛下が交渉につかない、もしくは交渉決裂となれば、私は資金を供出する気はありません」
「それでは約束が違う」
「私は賭けに負けたら供出すると言ったのです。賭けに勝った以上、資金をどう動かすかは私の一存にあるのは明白でしょう」
「ぐぬぬ……」
今度はダドリー卿が追いつめられる番だった。
アルはごり押しをはねつけ、自分優位に会話を運んでいく。
「私は何か間違ったことを言っていますか?」
「いや、まっとうな主張だ」
「では陛下への働きかけ、よろしくお願いします。時間はもういくばくもありません。今この場ですみやかに動いてください。電話ならあちらにあるそうです」
「電話?」
「クラリック公にかけて、アポをとるべきでしょう。ついでにバルフォア首相とも意見調整しなければならないでしょう」
「待ってくれ、卿。急いては事をし損じるという。もう少し時間が……」
「時間はありません。我が大英帝国の岐路です。もたもたしないでください」
完全に会話の主導権を握ったアルが、ダドリー卿に指示を出す。
卿は「この小僧が」と言わんばかりの赤らんだ顔で睨みつけてきたが、アルの正論の前に反駁する言葉を失ったようだった。
「……電話を借りるが、よいか」
貴賓室の使用人に話しかけ、重い腰を上げる。
勝者の余裕か、アルはこちらを振り返って相好を崩し、俺の名を呼んだ。
「玲」
「なんでしょうか」
「君の淹れたお茶が飲みたいな。ここの使用人に頼んでみてくれないか」
「畏まりました」
俺が席を離れると、隣に月がぱたぱたとついてきた。
「玲さん、玲さん」
「なんだ?」
「結局、アルさん大勝利になっちゃいましたけど、これでよかったんですか」
「よかったって?」
「アルさんを窮地に陥れて、記憶を取り戻させるって言ってたじゃないですか。このままじゃアルさんの思いのままで窮地どころじゃないです」
「その話か」
貴賓室の隣にあるキッチンに向かい、俺は当初の目的が破れたことを思い起こした。
ヴァルゴ号は辛勝だったが、対四人組との交渉をパーフェクトに進め、アルは盤石の構えで事を運んでいる。
「このまま国王陛下を引っ張りだせば、あいつの願いどおりになるだろうな」
「そうしたら、アルさんの記憶は戻らないままですよ」
「でもここまでスケールが大きくなったら、俺たちの私欲で動いちゃならない場面だ。戦争になったら記憶集めは棚上げ。本意じゃないがそうせざるをえない」
実際、記憶集め以外の点では事態はよい方向に進んでいる。俺は自分である前に、アルの執事でもある。ここは彼の利益に即したほうが賢い判断だろう。
月とひそひそ声で話しながら、俺はアルの好きなミルク多めのお茶を淹れた。
貴賓室に戻ると、電話を終えたダドリー卿がアルの前に腰を下ろしたところだった。
「クラリック公は何と?」
「あすにもバルフォア首相と一緒に陛下と会うことになった。和平交渉の膠着を解くべく、共同して動くことを承諾して貰った。我々としては最大限の配慮だ」
「ありがとうございます。感謝の念に耐えません」
ふたたび葉巻をくわえたダドリー卿に、アルは深々と頭を下げた。
俺はそんなアルの前に、淹れたての紅茶を置く。
「ご苦労様」
ティーカップを優雅に持ち上げるアル。その横顔はとても満足そうに見えた。
貴賓室にはラジオから流れるクラッシックが満ちている。
モーツァルトのセレナーデ第十三番。聞き慣れたメロディが時間を忘れさせる。
そんなときだった。電話のベルが鳴り渡ったのは。
受話器を取り上げたのは貴賓室の使用人。何事か会話をしたあと、彼はアルたちが座る席へまっすぐに歩いてきた。
「ダドリー様、お電話でございます」
「私にか?」
「はい、クラリック様からのご連絡です」
訝しげな表情を浮かべ、ダドリー卿は電話のほうへ歩いていく。
「もしもし?」
穏やかムードにかき消されそうな声と、セレナーデ第十三番が止まったのはほぼ同時のことであった。ラジオの向こうから低い男性の声が聞こえてくる。
「――――」
俺はその声に耳を傾けた。アルもお茶を飲みながら、そちらに視線をやった。
だが、次の瞬間。俺たちはふたりとも言葉を失った。
緊急のラジオニュースが厳かな調子でとんでもないことを伝えたからだ。
「ネヴィル卿!」
絶句した俺たちのほうへ、電話を終えたばかりのダドリー卿が走ってくる。
「大変なことになったぞ、卿」
焦燥した声だったが、ダドリー卿の表情は皮肉げなものだった。
「――私も、今さっきのこラジオで」
しばらく黙りこくったあと、アルはようやく口を開き、静かに瞑目する。
「何が起きたんですか?」
ラジオニュースを聞き逃した月が、俺に問いかけてくる。
「今しがた、ドイツがフランスに宣戦布告した」
「――――」
俺が答えると、月は口を手で覆った。
ドイツが我がイギリスの同盟国に宣戦布告をした――。それは元の世界でいうところの第一次世界大戦の開戦を意味した。
「これから緊急閣議が開かれる。和平交渉どころではなくなりましたな」
吸いかけの葉巻を灰皿に押しつけ、ダドリー卿はアルを見下ろした。
俯いたアルの表情は読めない。けれど落胆というひと言で言い表せない、痛恨の表情を浮かべているだろうことは察せられた。その証拠に長い沈黙が彼を支配していた。
和平交渉を強引に押し進めようとしていたアル。
開戦の知らせは彼に救いがたい絶望を植えつけただろう。かろうじて平静を保っていた俺は、主人を陥れた最大の窮地をどこか他人事のように眺めるしかできなかった。
こうして俺はまた、絶対遵守の誓いを生きるのだった。




