月の告白
あくる日のアフタヌーン。
応接間でのお茶の時間、俺はご主人様の命令で紅茶を淹れることになった。
ジョーンズによれば、英国貴族は一日に五度紅茶を飲むようで、アフタヌーンティーはその中でも最も重要な一杯という。
トランザム卿の指示はロシアンティーを淹れろというもの。
だが俺は、紅茶淹れには密かに自信があったのだ。
(妹のわがままに散々付き合ってきたからな……)
妹の説によれば最適の湯温は九十度以上で、沸騰直前のお湯を使う。
紅茶を美味しく淹れるには、ポットの中で茶葉が跳ね回るようにしなければならない。これを「ジャンピング」という。
そのためには、水のなかに適度な酸素が含まれていなければならず、沸騰すると肝心の酸素が抜けてしまうのだ。
そしてロシアンティーの作り方だが、淹れ立てのストレートティーにジャム、トランザム家の場合は、いちごのジャムを入れる。ジャムにはラム酒が少々含まれている。それが紅茶により一層、奥深い香りを与えるのだ。
「これでどうでしょう?」
出来上がった紅茶をジョーンズにチェックして貰うことになっていたが、くり返しになるけれど俺は紅茶の淹れ方には自信があった。もはや文句のつけどころがない出来だと自負していたが、その考えは少々甘すぎたようだ。
「及第点だが、ジャムの量が多すぎる。ご主人様はもう少し控えめな量を好まれる」
まさかの難癖がジョーンズの口を突いた。確かに個人の好みというものは存在する。俺は妹の舌に最適化した作り方をしていたので、ケチをつけられたのだろう。
しかし、ここでまた腹部を殴られるとは思ってもみなかった。
「やり直しだ! この役立たずめ!」
これまで同様、顔は目立つから腹部を鋭い一撃で殴られる。くわえて態度が生意気だという理由でもう二、三発、パンチを食らう。
俺がその暴力にじっと耐えていると、ジョーンズが嘲るようにいった。
「おまえはすぐにごめんなさいと謝ってこないのが気に食わないんだよ!」
ジョーンズは暴力的なしごきは一週間で終わるといっていたが、あれは嘘だったのか。
俺はついに頭にきて、奴の顔を正面から睨み、挑発的にこういってしまう。
「顔を殴ってみろよ、腰抜け」
怒らすのは覚悟の上だったが、ジョーンズは感情をあらわにし、
「貴様ァ……望み通りにしてやるよ、おらァ!」
たまらず俺の顔面にパンチを見舞う。バキッともの凄い音がした。
(ちくしょう……めちゃくちゃ痛えじゃねぇか)
涙こそ出なかったが、俺は激痛の走った頬を片手で押さえつけた。見れば、手に血がべっとりとついている。唇が切れたのだろう。
でもこれで、ジョーンズはひとつミスを犯した。
目立つところを殴ってはいけないという一線を奴は越えてしまったのだ。
想像したとおり、俺の怪我は使用人たちの間で物議を醸すことになった。
「玲さん、どうしたんですか?」
夕方の休憩中、月が俺の顔を見て、頓狂な声を上げた。
「心配するな。大したことないって」
口ではそういうが、平気なわけがない。
唇はざっくりと切れ、頬には大きな青あざができていたからだ。
このぶんでは内出血で顔が腫れてくるだろう。それも時間の問題だ。
そして夜になり、トランザム卿以下、階上の住人たちの晩餐が始まった。
「レイ、おまえは引っ込んでいろ」
ジョーンズは俺の惨状をご主人様に見せたくないのだろう。苦虫を噛みつぶしたような顔で俺に使用人室での待機を命じる。奴は奴で、俺の負傷がバレるのを気にしたのだ。
だからこそ俺は、ジョーンズの命令に従う気はまったくなかった。
「御意」という代わりに、配膳皿を手にして、ご主人様の待つ食堂へ向かう。
「最近は貴族なのにビジネスを手がける連中が多すぎる。ビジネスにかまけるなど、成金のやることだ。まったく嘆かわしい」
トランザム卿は夫人と会話をかわしていた。
「貴族は働かず、領地を運営するはずですものね」
「そこに我々の矜持があるのだ。連中は何もわかっておらん」
「失礼いたします。オードブルをお持ちいたしました」
会話に割り込むように、俺が声をかける。
不機嫌そうな顔つきで、トランザム卿が俺のほうを見た。その表情はみるみる驚愕に染まっていく。
「その顔はどうした!? 怪我で顔がぱんぱんじゃないか!?」
ちょうど慌てふためいたジョーンズがあとを追いかけてきていたが、タイミングがあと一歩遅かったようだ。ご主人様は俺とジョーンズを見比べ、稲妻のごとき一喝を浴びせた。
「使用人は私の持ち物だぞ! 傷物にしたのは誰だ!」
「ジョーンズさんです、ご主人様」
「なんだと!?」
トランザム卿は立ち上がり、ジョーンズのほうにつかつかと歩いて行く。
「貴様、また暴力を振るったのか! あれほど手は上げるなといったのに!」
「申し訳ありません、ご主人様。しかしこれには訳が……」
「言い訳は聞きたくない!」
ご主人様の叱責に、さすがのジョーンズもうなだれるしかなかった。しかし、これで奴に吠え面かかせてやったと喜ぶことはできない。
配膳を終え、使用人室に戻ったとき、すれ違いとなったジョーンズに俺はこう囁かれたのだ。
「あすはお客様が来る。そこで大失敗をやらかせば、ご主人様もおまえがグズだと思い知るだろう。覚えていろよ」
嗜虐心のこもった目で捨てゼリフを吐かれる。
「玲さん、一本取りましたね」
使用人室に残った俺に、月が笑顔を隠しながら小声で話しかけてくる。
「これで終わりじゃないよ。ご主人様の前で恥をかかせてやったぶん、きっと奴の怒りは燃え上がっているだろうから」
「ええ、あとで復讐されるんじゃないかと、そこが不安です」
月の気遣いは、的外れではないだろう。
「心配させて悪いな。でも乗り切れる自信はあるから」
彼女の不安を拭うべく、俺はできるだけ明るく笑顔でいった。
会話はそこで終わるはずだった。
けれど月は、まだ少し話し足りなそうにしている。
「なにか他に心配ごとでもあるのか?」
「ええ。実はこのお屋敷に来て以来、気になっていることが」
「じゃあ、あとで落ちあおう。ジョーンズの目を盗んで、就寝前に階段のところにいる」
使用人たち階下の住人は、男性が一階と地下、女性が最上階と割り振りが決まっている。相互の不純な交流を断つためだが、階段だけは両者が出会える場所となる。
もっともこれはかなりリスキーな行為だったが、月の様子が気がかりだったのだ。
(ジョーンズに見つかってぶちのめされたら最悪だな……)
そのためには慎重を期すしかないので、俺は誰よりも先に寝室へと戻り、早々と寝たふりをして、やがて夜が更けた頃、何食わぬ顔で廊下へ出たのだった。
足音を立てないように階段を昇り、女性使用人たちの部屋に通ずる踊り場に出る。
月はそこで静かに佇んでいた。
この行為は俺にとってもリスキーだが、彼女にとっても同じくらい危険だろう。ムチ打ちの一件以来、順調に仕事をこなしている月が大きな失点を犯すことになる。
それでも俺を呼ぶ理由が何かあるのだろう。それが何かはわからないが。
「よう、月。約束どおり来たぞ」
「ありがとうございます、玲さん」
「そんな畏まらないでくれよ。俺は貴族じゃないんだから」
「あはは、そうでしたね。つい癖になってました」
ひそめた声で笑ったあと、息をすうっと吸い込み、勇気を奮うように月がいった。
「実は私、なくしてた記憶を取り戻せたんです」
なくした記憶。
それは屋敷に来た当初、このイギリスを舞台とした転移世界の共通ルールとして認識していた事柄だ。
俺たちは記憶をなくし、同時に自己の一部を欠落する。
月の場合、以前の持ち味だった正直な黒さがなくなっていること。
だが、このタイミングでそれの回復を告げられるとは思っていなかったので、
「取り戻せたって、どんな記憶だ?」
凡庸にも、俺はありきたりな問いを発することしかできない。
「厳格だった祖父の記憶です。祖父と一緒にすごした日々のことを、この世界に来てから全部忘れていました。でもメイドの仕事になじむごとに、私はこんな従順な人間じゃないと思うごとに、その記憶が少しずつ戻ってきたんです」
「それって、おまえの黒さは爺さんへの反発心だったってことか?」
「ええ。その反発心をなくしたことで、従順なメイドになっていたのだと思います」
なるほど。そういう相関関係があったのか。
「祖父の厳格さは、とても理不尽なものでした。訳もなく怒り、私を含めた近くの人間に当たり散らす。病気が進行していて、原因がそれだとわかっていても、私は自分と、同じように暴力を振るわれた母を不憫に思っていました。絶対に許せないことだとも」
理不尽なことは絶対に許せない。
それが月の空気を読まない正直さにつながったのだろう。
「俺さ、おまえのそういうところ、いいなって思ってたぜ。クラスでは浮いてたけど、高潔で誇り高い、尊敬にあたいするぼっちだと思ってた。だからさ、おまえの変化には敏感だったんだ。急に従順になって、何かがおかしいって」
「でも記憶って不思議ですね。なくしたそれは、失ったままならずっと思い出さずにいればいいような記憶でしたもの。思い出さなければずっと苦しい過去を切り離すことができていたんですから」
「でも代わりに自分の一部を失っちゃ意味がない。くり返しになるけど、俺は、おまえの正直さはスゲえいいと思うぞ。その部分があってこその月だ。自信を持て」
「玲さんは優しいんですね」
「俺は冷たい人間だよ」
「確かに以前はそうでした。クラスメートを我関せずと無視して……。でもこのお屋敷に、この奇妙な世界に来てから、玲さん変わりました」
「変わった? 俺が?」
「ええ。私の心配をしてくれたり、他人の領域に入ってくれるようになりました。それって私と同じく、記憶をなくしたせいだと思いませんか?」
「ああ。俺も同じだ。大事な記憶をなくしている」
失った記憶。自分に告白した相手のこと。
それは未だ、思い出す気配さえない。このままずっと忘れたままなのか。
「だから私、思ったんです。玲さんも記憶を失って、凄く変わってしまったって」
「俺のどこが変わった?」
「ひとつ挙げるとすれば、キモいところがなくなりました」
「ええっ!?」
月にいわれるまで、ずっとキモいつもりのままでいたのに、俺の変化そこ? 想像すらしていなかったけど、キモさが欠落しているとは。
自分のことは自分が一番わからない。その格言を俺は噛みしめていた。
「でも、キモくない玲さんは玲さんじゃありませんものね。たまにはキモくなってもいいんですよ」
「ふざけるな。わざわざキモくなる理由がわからん」
「そこが玲さんらしさですもん。それに……」
小さく言い淀んで、月は俺の顔を見上げた。
「きのう庇ってくれたとき、玲さんのこと、ちょっぴり素敵に見えました。だからキモい玲さん以外にも、その中に優しくて格好いい玲さんがいたんですね」
それは率直な褒め言葉だった。真っ正直な月ならではの、静かな断定。
「ふんっ……おだてても何も出ないぞ」
「玲さんってば、照れてますね」
「うるせえ」
女の子に親しくされることに俺は慣れていない。だからあまりの恥ずかしさに、俺は頬をぽりぽり掻いてしまう。
こうして真夜中の密会は、この世界のルールにかんする重要な情報をもたらして、俺の純情を弄ぶかのごとき月のペースのまま終わりを告げたのだった。