八百長
アルはときどき、思い切ったことをやってのける。
俺にはまったく予想もつかないこと。たとえばスペンサー将軍との裏取引はその好例だ。クラリック公に屋敷の下僕をスパイとして潜り込ませたこと。あの話を聞いたとき、俺はアルを見る目が変わった。
他人が相手なのだから、予想外の行動をとるのはむしろ当たり前のことかもしれないが、アルの場合は桁違い。さすが貴族の当主。痺れるような独断専行だ。
おかげで執事の俺は、自分の描いた絵を変更するか否かを突きつけられた。
――ヴァルゴ号の走りに手心を加えさせること。
浅知恵で仕掛けた作戦を遂行するか否か。
俺はどうすればいいのか。
(しかし本命馬なら、最後は地力で押し切ってしまう公算が大きいんじゃないか……?)
その前提で、考える角度を変えてみよう。
アルの持ちかけた賭けは、彼が陥る窮地をさらに深くした。
だとすれば、俺が買収すべき相手はヴァルゴ号の騎手ではなく、敵対するアルデバラン号の騎手ではないか。
俺の軍資金はネヴィル家に来て稼いだ給金の全額だ。
パブで酒を飲むこと以外に使い途がないため、かなりの金が貯まっている。
騎手を買収するとなれば相当の金が必要になるだろう。だが、ここは俺にとっても一種の賭けなのだ。アルデバラン号にぎりぎりの勝負をさせ、最後は負けて貰うこと。
すみやかに作戦内容を変え、俺はレースの行方に一喜一憂している貴族たちを尻目に、
「ご主人様。私、馬の様子を見に行きたいのですが」
静かにお茶を飲む我が主に、別行動を打ち明けた。
ついでに視線を送り、月に目配せする。彼女はその意図を悟ったのか、
「わ、私もヴァルゴ号を見に行きたいです」
恐縮しながら俺への追従を申し出る。
「見に行くならパドックに出てきてからにすればいいのに」
アルは賛成も反対もしなかったが、俺はそこを強引に押し切る。
「馬の生身の姿を目に焼きつけたいのです」
月同様、厳かな調子で暇乞いをした。主人の許を離れるのだから当然の所作だ。
「それじゃ、行ってくるといいよ。滅多にない貴重な機会だしね」
今ひとつ釈然としない様子のアルだったが、最後は納得してくれた。
「行こう、月」
「ええ」
俺は貴賓室の使用人に馬のいる場所を聞き、一階奥にある厩舎へ向かった。
騎手の名前は新聞で読んでいた。マイケル・ランドルフ。
「玲さん、本当にやるつもりですか」
「今更咎めないでくれよ」
「ですが、ちょっと無謀な行為だと思ったもので」
「やるだけのことはやる。断られる可能性はあるが、やって後悔するほうがいい」
俺の中ではプランがまとまっている。
まず立ち寄ったのは貴賓室側の花飾りだ。廊下に誰もいないことを確認したあと、その一部を拝借する。
「その花、何に使うんですか」
「騎手に渡す花束を作る。手ぶらで行くわけにはいかないだろ」
薔薇の花を何本か引き抜き、根元に紙をかぶせた後、カバンから取り出した糸でしっかりと結わえる。これで即席の花束の出来上がりだ。
「玲さん、ときどき本当に悪党だなと思います」
「仕方ないだろ。目的のためには手段を選んでいられない」
この程度の行動を窃盗だといわれては先に進めない。
俺は月の文句を簡単にいなして、一階奥の厩舎へ向かう。
そこは思いのほか面積の大きいスペースだった。競馬場と一体になってはいるが、体の大きい馬が集っているだけあって、敷地が広い。別の施設と勘違いしてしまうほどだ。
騎手の待機室はその一角にあった。
「ここからは単独行動をとる。おまえは外で待っていてくれないか」
「了解しました」
俺は月にカバンを預け、待機室のドアをノックする。
返事があったのを確かめ、入室する。
「なんですか」
ドアを開けたのは騎手のひとりだった。ここには使用人はいないらしい。
「ランドルフさんの応援に伺いました。どちらにおられますか」
「ミスターランドルフ、お客さんだよ」
ドアを開けた騎手は部屋の奥へ声をかけた。
のそりと立ち上がる人物がいた。騎手は総じて小柄だが、動作自体がのそりとしか言いようがないほどゆったりしていた。少し年嵩のいった眼光鋭い男だった。
「私がランドルフだが」
じろりと睨み上げてくる。職人肌の親方のような顔立ちだ。これはどう逆立ちして見ても買収に応じるようなタイプではない。俺は自分の作戦が潰えたことを悟った。
「私、あなたのファンなんです。これをお受け取りください」
「ああ。ありがとう」
花束を渡し、素直に受けてとってくれたのが精々だった。
もう少し隙のありそうな相手なら迷わず攻略に走ったのに、ランドルフは花だけ受け取って部屋の奥へ戻っていく。俺に背を向け、にべもない態度だ。
しかし心の中で俺は自問自答した。
(ここで引き下がって本当にいいのか……?)
どうせやるならやって後悔しろと言ったのは自分ではないか。
ふたたび強気な自分が首をもたげてくるが、冷静な自分が葛藤を始めた。
俺はいま、ネヴィル家の執事なのだ。お仕着せをまとっており、言い逃れることはできない。そんな俺が分の悪い勝負に賭けていいのか。いいはずがなかった。
だとすれば、どうするのが最も賢いだろう。
攻略相手を元に戻してみること。ヴァルゴ号の騎手に手心を加えさせること。
「すみません」
考える間もなく、俺は声を発していた。
「この中にヴァルゴ号の騎手の方はおられますか」
待機室をぐるりと見渡す。その中に挙手した人物がひとりいた。若くて精悍な顔立ちの騎手である。さっきのランドルフより遙かに温厚そうな男性。
「なんですか」
「私、あなたのファンでもあるんです。ぜひサインを貰えないかと」
「いいですよ、それくらいなら」
にっこりと笑いかけてくる。こいつ、雰囲気的にアルに似たタイプだ。
「…………」
ヴァルゴ号の騎手を連れて外へ出ると、月がカバンを持って待機していた。
「月、この方に手帳とペンを渡して」
俺の頼みを聞き、月はすかさずカバンから荷物を取り出した。
ヴァルゴ号の騎手は嫌な顔ひとつせず、手帳にペンを走らせた。
ウィリアム・バジェット。
サインを書き慣れているのか、中々の達筆だった。
「これでよろしいですか」
「ええ、ありがとうございます」
サインを受け取るが、勝負はここからだった。どうやって買収を持ちかけよう。
瞬時に頭を働かせ、俺は当たり障りのないことを尋ねた。
「バジェットさん。あなた、何か困ってことはありませんか」
「え、と……それはどういう……?」
「文字どおりの意味です。困ったことがあれば、助けになりたいと思いまして」
初対面の人間に聞かれて即答できることではなかっただろうが、あまりに遠回しでも今度は意図が伝わらない。俺は間をとってどうとでもとれる訊き方をした。
「特に困ったことはありませんが……」
バジェットは小声で返答した。その表情はさっと翳っていた。何かある。わずかながら俺にそう感じさせるだけの表情を浮かべていた。
そしてバジェットは俺の期待を裏切るようなことを口にした。
「ひょっとして、八百長を持ちかけるつもりですか」
さっきのランドルフと比べ、態度は弱々しいが、そこには拒絶の色が浮かぶ。
「最近、多いんですよ、八百長騒ぎ。おかげで上からきつく言い渡されていて」
その返答を聞き、俺は確信をもって自分の浅知恵を悟った。
同じことを考える奴が多いこと。無論、目的こそ異なるが、元の世界よりルーズなこの世界では八百長が横行しているだろうこと。そのせいで騎手が過敏になっていること。
ゆえに俺は攻め口を根本的に切り替えた。
「八百長なんてとんでもない。私はあなたのファンなのですし、馬には愛着があります。そちら方面で困りごとあればぜひお力になろうと思った次第でして」
「お力とは?」
「僭越ながらヴァルゴ号は私の主人が所有している馬でして。もし無事に勝利を収められれば、次の騎乗もまたバジェットさんにお願いするよう計らえます」
「……本当ですか?」
ここでまたバジェットは表情を変えた。
押しも押されもせぬ本命馬、その騎乗を任されて喜びとプレッシャーを同時に味わっていたのだろう。そのプレッシャーの中には敗北したとき責任をとらされることも含まれる。
つまりバジェットとしては何としても勝たねばならないのだ。
この一点で彼と俺の利害は一致する。
問題はアルデバラン号との勝負だ。出来るだけ接戦に持ち込むこと。
「失礼ですが、ヴァルゴ号は逃げ馬ですか、差し馬ですか」
「差し馬です」
「なるほど。でしたら出来るだけレースを派手に盛り上げて頂きたい」
「派手とは?」
「出足でもたつかせて貰えませんか。実は我が屋敷の主人が、簡単に勝っては面白くないと申しておりまして。あすの新聞を大きく飾るような劇的な勝利を望んでおられます」
「ネヴィル卿が?」
「ええ。圧倒的に勝つか、劇的な幕切れをもたらすか。ふたつにひとつです」
「あなた、本当にネヴィル卿の使用人の方なのですか」
「執事です。こちらのハンカチに紋章が刻んであります」
俺は胸ポケットから支給品のハンカチを取り出し、バジェットに見せつける。
それをまじまじと見て、彼も納得したようだ。さっきまでの神経質に移り変わる表情がほっと安堵の息を吐いたように感じられた。
偽りとはいえ、オーナーの意図を聞いた反応は人をこうも変えるのか。
買収する必要なんてなかった。アルの命令とするだけでよかった。
「ところでアルデバラン号は強いですか」
「非常に強いです。馬の強さ自体でいえばヴァルゴ号のほうが一枚上手ですけど」
「では圧倒的な勝利は望むべくもありませんね」
「難しいと思います。いずれにしろ接戦になる可能性が高いかと」
「ならば可能な限り、劇的な接戦に持ち込んでください。大外からまくって、最後の直線で五馬身くらい突き放せば主人もたいそう喜びます」
「わかりました。全力は尽くします」
「よろしくお願いします」
最後は丁寧な礼を交わし合い、バジェットは待機室に戻っていった。
「玲さん、やり方が汚いです」
黙って側にいた月が、会話が終わると俺の背中を小突いてきた。
「馬鹿いえ。八百長は頼んでないぞ」
「でもアルさんの依頼をでっちあげたじゃないですか」
「うそも方便だ」
「便利な言葉ですね」
黒ルナが容赦ないツッコミを浴びせてくるが、俺は自分の描いたとおりの結果をもたらせて満足していた。あとはバジェットの腕に任せるだけだ。
「せっかくだから、ヴァルゴ号を見ていこうか」
「あまり遅いとアルさんが心配しますけど」
「ちらっと見るだけだよ」
そう言って俺は係員に聞き、厩舎の中をさまよう。
教えられた場所を目指すが、ナンバーが振られているわけでもなく、目的の馬を見つけるのに一苦労する。
「あの馬でいいのかな」
ようやくそれらしい馬を発見した俺。けれどもすぐに駆け寄ることはしなかった。なぜならそこには調教師と話し込む、見知った人物がいたからだ。
俺は月を引き込み、手近な階段に身を隠した。
「どうしたんですか、玲さん」
「あいつが調教師と話してる」
「あいつって誰ですか」
「ニコラスだ。ニコラス・リチャード。ヘインズ卿の執事」
無関係なあいつがヴァルゴ号に何の用だろう。
その意図を探るべく聞き耳を立てたが、声が小さくて中々聞き取れない。
しかし目でははっきり追うことができた。ニコラスが懐から取り出した何かを差し出し、調教師がそれを受け取った様子を。
それはアンプルだった。注射用の液体が入ったガラスの小瓶。視覚情報にもとづけば、その使用意図は明らかに思えた。
――八百長。
しかもヴァルゴ号を負かすための策謀。アンプルの中身はわからないが、ようやく聞こえ始めた声がその答えを教えてくれる。
「……これは興奮剤だ。やる気のない馬に活を入れるため多用されているから、レース後あんたが調べられる心配はない」
ひそめた声で調教師に指示をだすニコラス。
そのひと言ですべてを理解した俺は、もうひとりの悪党を逃す気は更々なかった。




