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四人組との再会

 一週間後、到着した俺たちを出迎えたのは緑を敷きつめた競馬場の芝だった。


 陽光を浴び、輝く緑がどこまでも広がっている。サッカースタジアムとどちらが広いだろうか。どちらにも行ったことがないので俺には判定できない。


 運転手のバークマンを残し、俺たちは施設の最上階にある貴賓室へ向かう。そこは貴族とその付き人しか入れない特別な場所だ。途中、豪勢な花が飾られており、出迎える側の力の入れ加減が半端ない。


「うわぁ、すごい見晴らしです」


 興奮ぎみに窓へ駆け寄ったのは月である。


 彼女のいうとおり、貴賓室からの眺望は最高で、競馬場の隅々まで見渡せる。

 無論、そこにも使用人がおり、客人を出迎え、紅茶を運んでいる。さながら高級ホテルのラウンジに迷い込んだかのようだ。


「ぼくはミルクティーを。玲と月も好きなお茶を頼むといい」

「本当にいいんですか?」

「遠慮することはないよ」


 ネヴィル家に勤めて以来、給仕することはあってもされるのは初体験だ。

 当然、俺と月はまごついた。端的に慣れていないからだ。


「ではストレートティーを」

「私はレモンティーをお願いします」

「畏まりました」


 使用人は一礼して歩き去っていく。そのしぐさはあくまでも優雅で、隅々までよく調教されていることが感じられる。調教という言葉が大袈裟なら、訓練といってもいい。


「ところでアル」


 俺は他の貴族がいないのをいいことに、敬語を抜いて話しかけた。


「なんだい?」

「きょうのレースはなんて言うんだ。日本ならダービーとか有馬記念とかあるだろ」


 有名なレースの名前くらいは知っていた。

 しかしここは異世界のイギリス。俺はまったくといっていいほど無知である。


「きょうのレースはファルマスステークス。牝馬マイル戦の最高峰だ」

「牝馬って?」

「メスの馬のことだよ。そのくらい馬好きなら覚えたほうがいい」


 窘めるような口調だが、アルは微笑んでいた。それは自然な笑みである。


「ちなみに出走する所有馬はヴァルゴ号。乙女座という意味だね」


 乙女座か。確かに牝馬にふさわしいネーミングだ。


「新馬戦以来、三戦全勝。気性が荒くて騎手泣かせの馬だけど、前走はぶっちぎりで勝ったそうだ。バークマンによれば、こんなに強い馬は先代のときにもなかったらしい。その意味ではネヴィル家始まって以来の競走馬といっていいだろう」


 アルの笑みに少しだけ自慢が混じる。俺は競走馬を持ったことはないが、子供の頃自分が捕まえたカマキリを友達のそれと勝負させたことがあり、レースのもたらす興奮だけはわかる気がした。多分に男の子の本能を刺激するのだろう。


「きょうのレースは必ず勝って貰いたいね。あとで勝利の美酒に酔いたいよ」


 そこまで言って、アルは急に立ち上がった。


「ごめん、玲君。ちょっとお手洗いに行ってくる。お茶が来たら受け取っておいて」

「ああ、わかった」


 俺が答えると、アルは足早に貴賓室を出て行った。残されたのは俺と月だけ。本来集っているだろう貴族たちも、時間が早かったせいかまだ一人もいない。


「玲さん、玲さん」


 途端に手持ち無沙汰になった俺に、月が話しかけてきた。


「先日、騎手を買収するといってましたけど、いつ仕掛けるんですか」


 ヴァルゴ号を負けさす寸前まで持っていき、ぎりぎりで勝たせる。

 アルを窮地に陥れる策謀のことを月はいっていた。


 最有力な本命馬だ。アルは勝利を確信しているだろう。そんな馬が敗色濃厚になる。アルは大恥をかくことに絶望を感じる。けれど俺の力強い声援で勝利をもたらす。言葉にすれば単純な出来レースだが、さしあたりアルを追い込むのはこれしかない。もし失敗したとしても次がある。俺はそんなふうに楽観視し、


「パドックに入る前に決行する。馬の様子を見たいといえば、アルも反対しないだろう」


 実際策謀とは別に俺はヴァルゴ号を目にしたく思っていた。

 だから演技をしてもバレない自信があった。


「お茶をお持ちいたしました」


 ちょうどそこへ、貴賓室の使用人が給仕にやってきた。

 いつもは自分たちのする仕事が、される側になるとどこかこそばゆく、


「ありがとうございます」


 ついお礼を口にしてしまった。見れば月の奴も畏まっている。


「それではごゆっくりお楽しみください」


 使用人が丁寧に辞去するとの同時に、観戦にやってきた人びとが騒がしく入室してきた。その遠慮のない話し方からして、明らかに貴族のものだった。


 俺はストレートティーを口にしながら、彼らに視線をやる。

 しかしその拍子にお茶を吹き出しそうになってしまった。ざわついたおしゃべりをしながら入ってきたのは旧知の貴族たちだったからだ。


 ウェルベック卿。

 ヘインズ卿。

 ダドリー卿。

 そして俺をクビにしたトランザム卿。

 以前、スペンサー将軍がいっていた『四人組』がそろい踏み。

 ついでに俺はそこに見知った顔を発見した。ヘインズ卿の執事、ニコラスである。


「おう、ネヴィル卿の坊や」


 向こうもこちらを見つけたのか、少し小走りになって近寄ってくる。


「その坊やっていうの、やめて貰えませんか」

「おいちゃんにとっちゃ、坊やは坊やよ。悔しかったら早く歳とりな」

「玲さん、こちらの方は?」

「ヘインズ卿の執事、ニコラスさん。以前、訳あって喧嘩した仲だ」

「む、かわいいお嬢ちゃんがいるね」


 月のほうを見て、ニコラスが相好を崩す。まるで自分の娘を見るような顔つき。


「坊や、あの娘は坊やのコレかい?」


 小指を立てるニコラス。俺はすぐさま否定した。


「違うのかい? 隠したっておいちゃんにはお見通しだぜ」


 ぐいぐい迫ってくるニコラス。

 一戦交えたせいで気安くなったのか、ニコラスは戯れ合うような態度だ。

 それを見咎めたのだろう。彼の主人が鋭い声を発した。


「ニコラス、なにをやっている」

「いけねぇ、いけねぇ」


 慌てて主人のもとへ駆け寄るニコラス。その場所にはヘインズ卿がいた。


「おや、そこにいるのはネヴィル卿の……」


 卿がこちらに視線を送ってくる。意図はわからない。俺たち使用人が貴賓室でくつろいでいるのが気に入らなかったのか。それともべつの理由があったのか。

 いずれにしろ、ヘインズ卿が浮かべたのは不愉快そうな表情だった。


 そして仲間の貴族たちに耳打ちをする。特に反応を示したのはダドリー卿だ。彼とはダイヤモンドの一件で深く関わりがある。自分の家の執事が犯罪に関わったのだ。よほどの屈辱を味わったと見え、俺をじっと凝視している。反対に因縁のあったトランザム卿は、窓際に寄って競馬場を見ている。ひょっとすると俺のことなど忘れてしまったのかもしれない。


「貴様、レイとかいったな。なぜこのような場所にいる」


 こちらの席に歩み寄り、ダドリー卿が低い声を発した。

 俺は立ち上がり、十分な敬意をこめて頭を下げた。


「ご主人様の付き人として、でございます」

「肝心のネヴィル卿の姿が見えないが」

「いま、所用で席を立っております」

「なるほど」


 卿があごを撫でたのと、アルが戻ってきたのは同時だった。


「これはこれは、皆様お揃いで」


 アルの登場に、四人組はハッとなった。全員、彼のほうを振り返る。


「お久しぶりですな、ネヴィル卿」


 四人を代表するようにダドリー卿が口火を切った。

 そこには慇懃さと一緒に、異質なものを貶す、かすかな嘲りが感じられた。


「ネヴィル卿、きょうはここにどのようなご用向きで?」

「我が家の所有馬が走ります」

「ほう、ヘインズ卿と同じですな。確か馬の名前は……」

「アルデバラン号です、ダドリー卿」


 横からヘインズ卿が口を挟んでくる。


「まさかあなたの馬と競争することになっていようとは、本当に奇遇ですな」

「いえいえ、これも縁があったのでしょう」


 四人組の強い視線を浴びても、アルは自然体を保っていた。

 これは中々真似できない。アルの貴族としての精神力の高さを物語っていた。


「ダドリー卿こそ、きょうはアルデバラン号の応援ですか」

「馬はおまけだ。我々は定期的に政治懇談会を開いておってな」

「懇談会?」

「今般の政治状況について密な意見交換を行なっている。我々は貴公とは違って政治家なものでね。ビジネスにかまける暇などないのだよ」


 これはアルへの強烈な嫌みだった。

 案の定アルからは、先ほどまでのフランクさが消え、


「……政治ですか」


 目を細め、少しだけ表情を固くする。それは仮面の微笑だった。


「現在、バルフォア首相が政治生命をかけてドイツとの和平交渉を行なっておる。そんな国家の大事を前にして、我々としても結束を固めねばならんのでな」

「クラリック公を次期首相に就けるためですか」


 ダドリー卿の嫌みに堪え兼ねたのか、アルはことの本質を一撃で突いた。

 勿論、表情は温和だが、目は笑っていない。


「よく知っているな。どこから聞いたのかな」

「素人の予想に過ぎません。競馬と同じです」

「競馬と政治は違う。一緒にされては我々の立場がない」


 強気なアルに、ダドリー卿も一歩も譲らなかった。海千山千の政治家といったところか。しかしアルは、俺には計り知れない信念があったのだろう。


「私は素人ですが、今般の政治状況について私見があります」

「私見ですと?」

「ええ。バルフォア首相の進めている和平交渉ですが、本気が疑われるものです。本気で戦争を食い止めるつもりなら、国王陛下御みずから交渉の矢面に立つべきです」

「へ、陛下が……?」


 ダドリー卿が息をのんだ音が聞こえた。

 それほどアルは突拍子もないことを口にしたのだ。しかもその舌鋒は止まらない。


「そしてもうひとつ。ドイツを翻意させるには中東の利権を妥協しなければなりません。我が大英帝国だけが独占しては、彼の国は永遠に納得しないでしょう。無論、それで得られる利益は削られますが、戦争で被るダメージに比べれば軽微なものでしょう」

「ネヴィル卿、それは本心から仰っていることなのかな」

「ハッタリではありません。おおよそこの国の政治家たちは戦争が巻き起こす悲劇をあまりに低く見積もっています。要するになめておいでです」


 戦争を回避し、イギリスの統合性を維持すること。

 何かの会話でアルが言ってくれたことだ。その自説をここぞとばかりに述べている。


 ひょっとするとアルはこのタイミングを見計らっていたのではないか。

 ヘインズ卿の馬が出ることを事前に把握しており、その場に政治家たちが集うことを。

 彼らを通じて、保守党の総意を変えることを。


 政治嫌いのアルだが、戦争だけは別だった。そこには彼の本気があった。きっと元の世界で大戦がもたらす莫大な損失を学んだからだろう。


「もし陛下を和平交渉につけれることができれば、私は喜んで私財を政治資金に供出いたしましょう。どうです、ダドリー卿。悪い話ではないと思いますが」

「わ、私の一存では決められない」

「以前、返事は成人してから行なうと言いましたよね。これが私の答えです」

「ぐぬぬ……」


 アルは攻める一方。ダドリー卿は守る一方。

 このやり取りから、果たして譲歩を引き出せるのだろうか。


 いくら主張が正論でも、相手がいるゲームに正解はない。特にこの世界の人間は、ドイツとの戦争が泥沼の消耗戦に発展するなどと想像さえしていない。

 だからだろう。ダドリー卿は一方的に名誉を傷つけられたと感じたようだ。


「言わせておけば、このガキ……」


 唇を噛み締めながら、おおよそ貴族らしからぬ呪詛を漏らしていた。しかしアルはそのような感情的なやり取りに足をすくわれることがなかった。


「ガキで結構です。そうとなれば、ダドリー卿。私と勝負いたしませんか」

「勝負だと?」

「ええ。ヴァルゴ号が勝てば、先ほど述べた意見を陛下に進言してください。もしアルデバラン号が勝った場合は、政治資金は無条件で供出いたします」

「だから私の一存では決められないと言っておるではないか」

「だとすれば、政治資金の件はお断りするまでです」


 この発言は、ダドリー卿以外の貴族に強烈なパンチを見舞ったようだ。


「卿、それではリラリック公との約束と違います」

「ここはネヴィル卿の申し出を受けるべきかと」


 声の届かない距離で何やら小声で話し込んでいる。

 弱気を隠さなかったダドリー卿も、徐々に表情を変えていく。アルの怒濤の攻めを食らって紅潮した顔が、次第に落ち着いた色へと戻っていった。


「わかった。その勝負、受けようではないか」


 そのひと言を聞いて、たぶん一番狼狽したのは俺だろう。


 アルの窮地を演出すべく、ヴァルゴ号を劣勢にしようと画策していたが、もし負けたときにアルは本当の窮地に陥る。政治的取引に負け、むざむざ金を払うはめになる。そのようにして発生したピンチを、俺はきっと救えないだろう。


「玲さん、どうするんですか」


 月がひそひそ声で話しかけてきた。

 ファルマスステークスはメインレースなので、まだ考える時間がある。


「騎手の腕前と、ヴァルゴ号の強さ次第だな」


 ヴァルゴ号がぶっちぎりで勝ってしまっては、アルの記憶は戻らない。かといって負けてしまっては元も子もない。


「どうするんです、玲さん」


 もう一度、月が訊いてきた。


「ちょっとだけ考えさせてくれ」


 それはアルには届かない、俺のささやかなる躊躇だった。

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