ずっとあなたの味方
七月になった。
イギリスは高緯度に属するとはいえ夏到来。グリムハイドは汗ばむ陽気だ。
この日の昼餐についたのはアルだけだった。ベアト様はドライブに出かけ、夜まで戻ってこない。使用人側も雪嗣がいない。彼はきょう午後休をとっているのだ。
代わりに珍しくカーソンが給仕に立つ。
彼がワインを注ぎ、俺が料理を運ぶ。暑さにあわせラフなポロシャツ姿となったアルは、配膳された料理を黙々と口に運ぶ――と思いきや、
「アイルランド情勢が思わしくないね」
平目のソテーを食べながらひとり言のようにいう。話しかけられた相手はカーソンだ。
「先日の戦闘で、共和国軍が正規軍を破ったらしい。おまけにゲリラ戦までしかけられているという。装備も充実しているようだ。どこにそんな資金があったのかな」
アルは反独立派を支援していたはずだ。
それが敗色濃厚となり、すかさず投入された正規軍まで旗色が悪いとは。口調こそ穏やかだがアルの心中は察せられる。ほぼ間違いなく腹に据えかねているはずだ。
こんなとき優秀な使用人ならどういう返事を発するのだろう。
俺なら退屈な相づちしか打てない。しかしカーソンはさすが敏腕を誇る家令だった。
「私はセルビアとオーストリアの対立が気にかかります」
アイルランド問題から、話題を一気に広げた。
カーソンが口にしたのは先月起きたサラエボ事件の行方である。サラエボ事件とは、世界史履修者ならよく知っていると思うが、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された事件のことだ。重要なことは、この事件をきっかけにヨーロッパは世界大戦に突入する。それもこの七月末から八月頭にかけて。
アルは以前、この世界の歴史は元の世界のそれとは別の道を辿っていると言っていた。しかもやり方次第では、歴史の重要な岐路を変えることができると。
だからアルがこんなことを言っても、俺は特に違和感を覚えなかった。
「皇太子を殺されたオーストリアはセルビアに懲罰的な最後通牒を出そうとしているけど、我がイギリスはオーストリア、そして後ろ盾となっているドイツと和平交渉を繰り広げている。それが奏功することをぼくは信じているよ。戦争は欧州に傷跡を残すだけだ」
「さすがアルバート様。複雑な国際情勢をよくご存知で」
「やめてくれ、カーソン。君も知ってのとおり、クラリック公に再就職した下僕はぼくらのスパイなんだ。政府の動きは保守党首脳のラインをとおってぼくのもとに入ってくる」
ベアト様がいないこともあって、アルの口は軽い。
料理を食べ、ワインで喉を潤しながら、自信ありげに語ってみせた。
「そうだ、カーソン」
「なんでしょうか」
「せっかく購入したんだ。アレをかけてくれないか」
「承知いたしました」
アルがカーソンに何事か指示を出した。勿論、俺はそれが何かすぐ理解した。先刻購入したばかりの近代的発明品、ラジオである。
「――――」
カーソンがスイッチを入れると、ラジオはごく簡単なニュースを伝える公共放送を流し始めた。娯楽としては物足りない。いまは珍しさ先行の道具でしかない。
けれど大事なポイントはそこではなく、歴史上初めてのラジオ放送は一九二〇年のアメリカで行なわれるはずだったということだ。その歴史がこの世界では上書きされている。簡単にいえば別のルートを辿っている。
アルが大戦の回避を信じるのも、イギリスが和平交渉に強く肩入れしていることと無縁ではない。現実の歴史において、第一次世界大戦は粘り強い交渉の末ではなく、あまりに軽率な弾みのように始まってしまうことで有名だ。そこにイギリスの本気がかかっているとしたら、歴史は変わるかもしれない。アルが厭戦的な発言をするのも、元の世界との違いを十分に理解しているからだと言っていいだろう。
そしてカーソンはそんな裏事情は知らない。だからアルが深みのある洞察をすることに素直な感嘆を述べたというわけだ。
「いま戦争が起こったらアイルランド問題はこじれる一方だからね。ブリタニアの統治が脅かされているときに別の難題を抱えるのは賢くない」
ラジオニュースを聞きながらワインを静かに飲み干し、アルは俺のほうを見た。
何か気の利いた相づちを打てばよかったのだろうが、あいにく俺はそこまで頭の出来がよろしくない。なので困ったような表情を浮かべて、
「そうですね」
ほとんど内容のないコメントをしてしまった。これにはアルは爆笑した。
「ごめん、うっかりツボに入ってしまった」
げほげほと咳をしながら、目元の涙をハンカチで押さえている。カーソンも優雅に口許を押さえている。ふたりにはよっぽど間抜けな執事に見えたことだろう。俺は苦笑いをするしかできなかったが、
「そうそう。玲、馬は好きかい?」
アルが急に話題を変えてきた。
「馬ですか?」
何の話だろうと思った。
「乗馬なら好きですが」
この世界に来て身につけた唯一の趣味が乗馬である。今では時間を見つけ、バークマンと一緒に馬の世話をすることもあるくらいだ。なので好きか嫌いかと訊かれれば、当然好きと答えるしかなかった。
「勿論、馬自体も好きです」
「なるほど。それなら競馬に連れていってあげよう。いいだろう、カーソン?」
「休日を余計に与えることを了承して頂けるなら、レイも喜んでついていくでしょう」
「なら決まりだな。当日は休みにしてあげる。君は競馬場に行ったことは?」
「ありません」
とんとん拍子に進む話に戸惑ってはいたが、俺は馬券を買える年齢ではなく、両親や親戚が特に馬好きだったこともない。その意味でまったく縁のない場所であった。
「本当にご一緒してよろしいのでしょうか」
アルの真意を確かめるべく、俺は念押しのように尋ねる。
「屋敷のことは気にしなくていい。君はカーソンと共にぼくの付き人として同行するわけだから、仕事の一環ということにしてあげる。うちの競走馬は中々のものだよ。先代から続く事業だけど、今度の馬は本命馬らしい。その勇姿を目に焼き付けるといいだろう」
笑顔を浮かべつつ、子供のようにはしゃぐアル。戦争の行方に頭を悩ます姿とはべつの一面を見せられた気分だが、重苦しい話題に辟易していた俺には喜ばしい変化であった。
「――ついでに、玲」
「なんでしょうか」
「他の使用人も誘うといい。誰を連れて行くかは君が決めていいから」
「本当によろしいのでしょうか」
「うん。ただし一人だけね」
俺を見上げ、アルはウインクした。
そのしぐさが何を意味するか。それを理解できないくらい鈍感な俺ではなかった。
◆
「競馬ですか?」
俺が切り出した話に最初に食いついてきたのは月だ。
「ああ。アルが所有する馬が参戦するらしい」
晩餐後、俺は月、紫音、雪嗣の三人を使用人室に呼び寄せ、事の成り行きを話した。
「休みを貰えるのはありがたいぜ」
「俺はあまり興味はないな」
紫音と雪嗣が順繰りに口を開く。俺とは違い、馬自体に関心はないから、どちらかといえば乗り気でない様子のふたりだった。
「ここは平等にいこう、じゃんけんで決めてくれ」
――誰を連れて行くかは君が決めていい。
アルはそういったが、これは一種の罠なのだ。彼にその気があるかは定かではないが、ひとりだけ選ぶとなれば俺の意志が介在する。いわば依怙贔屓が生じる。俺において最も好感度の高い奴が選ばれる結果となり、それは物笑いの種となる。
だから俺は公平に選ぶことにした。じゃんけんはそのための手段だ。
「最初はグー」
三人が声を合わせ、グーを突き出す。
「じゃんけん、ぽん!」
パー、パー、チョキ。勝ったのは月だった。
「やりました!」
テンションのあがった雀のように小躍りして喜ぶ月。ただ一人競馬に関心を寄せていたのが彼女だったので、妥当な人選となったことに俺は安堵する。
また俺としては、今度の競馬観戦をとある任務を遂行する場所にしようとしていたので選ばれたのが月というのは実に好都合だった。神様に感謝するよりほかない。
唯一不安な点を挙げるとすれば、先月好きな相手を尋ねたことで、月との関係がぎくしゃくしていたことだった。
完全にこちらの意図を誤解され、こっぴどくフラれたものと思っていたから、月の反応がいいことは関係改善のチャンスである。
「それじゃ、月。少しこみいった話をするからあすの早朝、使用人室で待ち合わせないか」
「了解です」
個人的な任務のために早朝出勤を頼むのは気が引けたが、月は簡単に承諾してくれた。
ちなみに俺が定めた任務とは、アルの記憶集めのことである。
記憶をなくしたままの俺同様、いっこうに記憶の戻る気配のないアル。これまでは自然に戻るに任せていたが、それはあまりに受け身の姿勢。なのでここらで攻めに転じようというのが俺の密かな腹づもりなのだった。
◆
やがて翌日早朝。お仕着せに着替えて向かった俺を月が使用人室で待っていた。
「朝早くからすまん」
「いえいえ。どうせやることがありましたし」
月は裁縫仕事をしている。なんでもカーソンのシャツを縫っているのだとか。
「それで、玲さんのご用向きは?」
「うん。それなんだけど……」
月は俺の記憶集めを知っている。だから単刀直入に答えを述べた。
「今度の競馬観戦で何としてもアルの記憶を取り戻したい」
「アルさん、まだ戻ってなかったんですね」
「ああ。残すはアルと俺だけだ」
月はデュラハンが転移者だったことを知らない。だからそこをフォローし、先々月彼の記憶を集めたことを教える。
「あの人が転移者?」
「そうだ。俺の読みでは、どうやら転移者は互いに引かれ合っているらしい。おそらくは運命の歯車が噛み合っているんだろう」
「なるほど」
俺の説明に月は納得したようだった。
「だから次はアルを攻略する。ここからは攻めの姿勢で打開したい」
「具体的にはどうするですか?」
「本命馬をぎりぎりで勝たせる。負ける寸前までもっていく。なくした記憶は、そいつが窮地に陥ることから救われることで回復するんだ。だから理不尽な賭けを持ちかけて、あいつを逃げられなくするんだ」
「そんな賭けにアルさんが乗るでしょうか」
「アルはああ見えてかなりの負けず嫌いだろ。絶対乗ってくるさ」
「でもどうやって本命馬を負けさせる寸前まで持っていくんですか?」
「騎手を買収する」
「玲さんの悪党ぶりが炸裂しましたね」
「これは必要悪。アルの記憶が戻るのを指をくわえて見ているのはもうたくさんだ」
「玲さん、焦り過ぎでは?」
「何ヶ月待っていると思ってるんだ。積極的な働きかけが求められる時期だ」
月のいうとおり、俺は焦っているのかもしれない。
けれど同時に、事態の流れに身を任せることを嫌ったのだ。俺の周りにいる連中はアルをはじめ、主体的な奴が多い。自分の力で世界を切り開こうとしている。それを目の当たりにしながら座して待つのはツラいものがある。明らかなる目的のために、何か自分にできることはないのか。自然とそう考えてしまう。
だが月は少し違う考えだったようだ。
「私は玲さんの考えに異論があります」
「異論?」
「だって玲さんは、アルさんの記憶集めに頼って逃げています。自分の記憶を取り戻すことから逃避してます」
これは痛烈な反論だった。さすが黒ルナ。辛辣なことでは右に出る者がいない。
「……俺の記憶は最後でいい」
「それが逃げなんです。本当に記憶を取り戻そうとするなら、まっさきに自分を窮地に追い込み、それを誰かに助けて貰うべきです」
月の舌鋒は鋭い。そこには手加減がなかった。
だから俺も、腹の内を隠さずさらけ出してしまう。
「わかってないな。俺を助けてくれる奴なんてどこにもいない。これまでどおり、窮地に陥っても自分で解決するだけだ。友達のいない俺にその要求は厳しいよ」
口にして哀しくなってきたが、それは俺の本音だった。
逃げるには逃げるなりの理由があるのだ。それはこの俺がぼっちであること。
だが、そうして理論武装を固める俺に月はこう言ってのけた。
「玲さん、何もわかってません」
「そんなことない。わかってるって」
「いいえ。わかってません。味方ならいるじゃないですか」
「誰だよ」
「私こと中野月とか。玲さん、もっと私のこと信用してください」
月の口調には次第に熱っぽさがこもってきた。
彼女の言い分はわかる。俺だって理解していた。元の世界でぼっちだった俺たちの間に儚くも頼りない絆ができていること。その確かさを。
仲間たちの記憶を取り戻すたび、それが徐々に強さを帯びてきたことを。
けれど俺は臆病なのだ。それに頼ろうとは思えない。
「月、おまえは知っているか。梯子を外されたときの絶望感を。そのツラさをもう二度と味わいたくないんだ、俺は」
他人にここまで自分をさらけ出すのは生まれて初めてのことだ。俺は過呼吸ぎみになり、ぜえぜえ息をつきながら何とか言葉を継いでいく。
「俺さ、中学の頃自殺しようと思ったことがあるんだ。クラスの中心にいた奴らにいじめられてさ、完全に狙い撃ちにされていた。でも当時、俺には味方がいたんだ。小学校の頃から仲の良かった友達が。でもいじめがエスカレートすると、最後はそいつまでいじめる側に回りやがった。それ以来俺は、他人に期待するのをやめたんだ。そんな俺に仲間たちを頼れと? 悪いが無理な相談だ」
月の手前、涙こそ流さないが、俺は心の中で泣いていた。自分が味わった絶望、それを恐れるあまりぼっちになったこと。孤独を選べば、自己完結した世界に浸っていれば、少なくとも波風は立たないから。
ここまで言えば、月は引き下がってくれるだろう。辛辣きわまる黒ルナも、俺が手の施しようがないぼっちだと気づき、俺の逃避を必然的なものだと受け止めるだろう。
「だから月、俺は自分の記憶は自分で取り戻す。余計な配慮は無用だ」
彼女は口でこそキツいことを言うが、根っこの部分では優しさに満ちている。その証拠に自分が味方だと言ってくれた。俺はそれをやんわりと押し返した気でいた。
けれど俺の考えは、所詮自己中心的な思い込みだった。
それがわかったのは、俺を見上げる月と目があったときだった。
「玲さん、もう一度言います。この中野月を信用してください。あなたは私の窮地を救ってくれた恩人です。そして何よりあなたは私の友達です」
徐々に語気を強め、俺のお仕着せを掴んでくる。
「ねぇ、玲さん。そんなふうに思ってはいけないですか? ノーと答えるなら、私、あなたのことグーで肩ぱんちしますよ」
月の目は潤んでいた。そんな気持ちのこもった瞳に俺はなんと返せるだろう。
「友達……」
答えは出ず、呟きは独り言になった。
「そうです、大事な大事な友達です。あなたが記憶を取り戻すために窮地に陥っても、私はあなたに手を差し伸べます。この思いは絶対です」
――絶対。
以前の皮肉屋の俺なら冷笑に付したワードだ。何が絶対だ、この世に絶対なんて存在しねぇんだよ。
でもいまは違った形で受け止めていた。どんなに脆弱でも信じたくなった。それは中学のいじめ以来、ずっとなくしたままだった感情だ。
本当に頼っていいのか?
俺は目の前の月に心の中で問いかける。
本当におまえを味方だと思っていいのか?
思いはやがて声になった。
「本当におまえを信じていいのか?」
「信じてください。私はずっとあなたの味方です。どんなことがあっても」
俺がこの異世界のイギリスに来てから約半年。それだけの日々の積み重ねが俺たちの関係を変えたのだろうか。いや違う。きっと俺自身を少しずつ変えたのだ。氷河の塊が太陽の光でゆっくりと溶けていくように。
でなければこんなふうに月と口論にならない。涼しく笑って終わりのはずだ。
「あなたの記憶が戻るまで、この私にあなたを支えさせてください」
こんなことを言われ、きっぱり拒絶をするなんて人間のやることじゃない。
でもむかしの俺はそうだった。ある意味で人間をやめていたのだろう。
でもいまの俺は違う。俺の中に眠る人間の部分が月の手を取れと叫び声をあげていた。
「わかった、俺はもう逃げないよ」
自分の記憶が戻ることから。それを助ける人の不在から。
「俺の友達でいてくれてありがとう」
そう言って、俺は月の手をとった。その動作は固い握手となった。
ついでおもむろなハグとなった。俺はメイド服の上から彼女を抱きしめていた。
「ちょ、玲さん。く、苦しいです」
抱きしめた途端に泡を食った声が返ってくるが、俺はそんな月ごと抱きしめた。
そしてみずからに誓った。アルと俺の記憶を取り戻すと。取り戻して元の世界に帰る鍵を手に入れると。俺だけのためじゃない。俺を支えてくれる、月や仲間たちのためにも。




