真実
タウンハウスで一悶着あったあと、ベアト様は散歩に出るぞとご命令された。
「暮れ行く町並みを見るのはいいものだ」
「そうですね」
暮れなずむロンドンの街。俺は治安の悪いイーストエンドに行きたいと言われたらどうしようと先走っていたが、テンプル地区を少し離れる程度だった。ゆったりとした歩調で歩くベアト様。その衣装は勿論、いつもの私服である。
俺はパリのことはよく知らないが、ロンドンの街行く人たちの服装を見るに、やはりかなり保守的な印象を持った。派手な色合いもなく、仕立てはもっさりしている。長らくヴィクトリア朝という抑圧的な時を過ごし、そのモードから抜け出せてないのか。
「町並は綺麗だが、テンプル地区は少々固いな。銀行ばかりでつまらない。もう少し遠出をしよう」
ベアト様の仰るとおり、テンプル地区はビジネス街だ。アルとしてはビジネスの拠点としてこの街に家を買ったのだろうが、面白みに欠けるのは否めない。
「そうですね」
俺は相づちを打って、ベアト様の後を歩く。
気ままな散歩。行き先は彼女が決める。
それにしても、色々と先行きが危ぶまれた社交界デビューだが、ようやく既定路線に進むことができた。そのことを言葉にして伝えると、
「色々振り回されたのはこっちのほうだ。デュラハンのレッスンも楽しかったのに、お兄様が台無しにしてくれた。こう見えて私は不満たらたらだぞ」
「ベアト様は政治にご関心があったのですね」
「勿論だ。世界がこのまま退屈に推移するなら、みずから参画する意志がある。女だからといって男に従う時代は終わるんだ。男の下に敷かれた人生などご免被る」
「仰るとおりかと」
俺は女性が社会進出した時代を知っている。ベアト様は単に、あるべき将来を語っているにすぎない。だから間違ったことは言っていない。ただその歩みが他人より速いだけで。
その一方、社交界という前時代的な儀式にかかわる方としては、思想があまりに急進的だと心配にもなった。なにげない会話で地が出てしまったら……。その可能性は大いにありうるため、今回のイベントが終わるまで不安の種は尽きない。
そんな俺の憂慮をよそに、ベアト様は自分の話に熱中していた。
「これはデュラハンとも意見の一致をみたものだが、アイルランド問題は共和国派が正しいと思う。あれはイギリスが強引に併合したんだ。カエサルのものはカエサルに返せ。広汎な自治を認めるだけでなく、すみやかに独立を認めるべきなんだ」
「民族自決の原則ですね」
「よくそんな言葉を知っているな。そのとおりだ。アイルランド人は長らく独自の民族を形成していたし、宗教も異なる。結果は戦争の行方次第だが、ここは我がイギリスが名誉ある撤退をするべきと思う。そうしなければ将来に禍根を残すだろう」
ベアト様の話すことは願望だが、それは後に起こる悲惨なテロリズムを予見していた。デュラハンという劇薬が関わったせいとはいえ、未来を見る確かな目を持っておいでだ。
俺がそのことに感服していると、急にベアト様の足が止まった。
「レイ、引き返すぞ」
くるりと体の向きを変える。一体何事だろうか。
背中のあたりを引っ張られるが、俺の視界にはひとりの淑女が映っていた。
以前会ったことのある人物――
「あら、ベアト。お久しぶり」
その淑女はかつかつと靴音を鳴らし、こちらへ近づいてきた。
「なんだ、エミリー。なんの用だ」
声をかけられては逃げるわけにいかなかったのだろう。
その淑女は、ベアト様の天敵ともいえる、クラリック家のエミリー様だった。
「まだそんな執事を雇っているの。がらくたな家具など捨ててしまえばいいのに」
相変わらず口が悪い。俺は少々カチンときた。
なので、挨拶もせぬまま、ついエミリー様を睨みつけてしまう。
「まあ、目つきの悪い執事だこと」
嫌みを言われたのは久しぶりである。それは少なからぬショックを俺に与えた。ここのところ、執事という役職に順応していると思っていただけに衝撃もひとしおだ。
そしてエミリー様にはヴィンセントが影のようにつきまとっていた。
――転移者。くわえて俺たちを轢き殺した人物。
緊張が俺の体を走り抜ける。
知らないうちに押し黙っていた。気の利いた切り返しなどまったく覚束なかった。
「やあ、ネヴィル家の執事君」
「レイ・ニラサワです。名前で呼んでください」
「じゃあ、レイ君。君とまた会えるなんてね。運命の導きかな」
道化のような笑みを浮かべるヴィンセントに俺は沈黙しか返せない。
まるで元のぼっちに戻ってしまったようだ。言葉が出てこない。最適な言葉を探しても頭がそれを拒絶する。きっと俺は不機嫌な顔をした間抜けだろう。苦手な相手を前にして、ただ事態が過ぎゆくのを待っているだけ。
「レイ、なんとか言い返してやれ」
ベアト様はエミリー様への苦手意識もあってか、面倒を俺に押しつけてくる。
押しつけではあるが、それは命令でもあった。執事はただ、命令に従うのみ。けれども俺は、その命令を遂行できない。
「どうした、レイ」
「すみません、お嬢様……」
やがて言葉も乱れる。あのベアト様をお嬢様と呼ぶだなんて。ただ突っ立っているだけの木偶の坊になった俺を救ったのは図らずもエミリー様だった。
「ベアト、あなたも社交界に?」
「そうだ。文句があるか」
「大ありよ。そのはしたない格好。きっと物笑いの種になるでしょうね」
「馬鹿をいえ。当日はドレスを着る。それにこの格好はファッションの最先端であるパリではトレンドなんだ。おまえこそカビのはえた古くさい衣装で。恥ずかしいのはどっちだ」
「ここはロンドンよ。流行に溺れるなんてそっちのほうが醜悪だわ。なにかといえば先端、先端と、流行かぶれした社会主義者みたい」
「それは蔑称で言っているのか」
「勿論よ」
ふたりのお嬢様は口論を始めてしまった。互いに一歩も譲る気配がない。
「お嬢様。伯爵家の子女ごときに関わってはなりません」
斯くして注意の声を発したのは俺ではなく、ヴィンセントだった。
「あら、つい本気になってしまったわ」
口許を押さえ、エミリー様はころころと鈴のような笑い声を立てた。
対するベアト様も、実に皮肉げな顔で、
「私は社会主義を支持している。おまえのようなおんぼろ貴族と一緒にするな」
「あなた、それ本心でいっているの?」
「悪いか、メス豚」
ついに貴族らしからぬワードを発してしまわれた。俺はその発言を咎めるべく、
「……このくらいにしておきましょう」
掴み掛かる勢いのベアト様の側により、小声で耳打ちをする。その働きかけで、自分の失言に気づいたのか、さすがのベアト様も口をつぐんだ。
「私も社交界にデビューするのよ。どちらが紳士の注目を集めるか勝負しましょう」
「ふん、つまらない勝負に乗るか」
互いに捨て台詞を吐く。こうなってはレディもくそもない。
「ではまた会おう、レイ君」
エミリー様を抱えながら、ヴィンセントが横を通り過ぎていく。
俺はこいつの顔を見るだけで腹が立ったが、ここは天下の往来である。周囲の目を気にして何もしなかった。正確にいえば何もできなかった。
気分は最悪。けれど俺にはそれを解消するすべが何ひとつ思い浮かばなかった。
◆
タウンハウスに戻ると、ベアト様は部屋にこもり、お茶を所望された。
俺はキッチンで湯を沸かし、お茶の準備をする。
そんな俺に話しかけてきたのは、晩餐の準備をしている紫音だった。
「なんか顔色が悪いぜ」
「……うん。色々あってな」
俺はベアト様の宿敵であるエミリー様と出くわしたことを話した。
ヴィンセントとの邂逅は巧妙に隠した。奴が憎むべき転移者であることは、月以外知らないことだ。
「ベアト様にとって重要なイベントが近いのはわかるけど、おまえ少しプレッシャー感じすぎ。もっと自然体でいたほうがいいぜ。必要以上に頑張ろうと無理するなよ」
「すまんな、心配かけて」
紫音に慰められて、俺は逆に落ち込んでいた。
余計な迷惑をかけてしまった。ぼっちはそういう負担を忌み嫌う。
コミュニケーションは対等にやりたいのだ。上から目線になるのも避けるし、執事対使用人を越えた関係性にも敏感になる。心に十分な余裕があればまだしも、このときの俺はそれさえ失っていた。
俺はお茶を淹れ終わると、そそくさとキッチンを出た。紫音にもっと丁寧に礼を言っておくべきだったか、なんて益体もないことを考えてしまう。完全に悪い兆候だ。俺は階段を昇りながら、首を小刻みに振ってネガティブな思考を追い払おうとした。
「失礼いたします」
「入れ」
主人の間へ入室を果たすと、そこにはドレスに着替えている途中のベアト様がいた。
「これは失礼いたしました」
下着の見える姿を真っ正面から見てしまった。体を動揺が走り抜ける。
「入れといったんだ。失礼など犯してない」
「いえ、ですが……」
俺は明らかにまごつき、目のやり場に困ってしまう。
言動もきょどってしまい、本当に以前のぼっちに戻ってしまったようだ。
「レイ、ドレスの後ろをとめるのを手伝え」
「……承知いたしました」
お茶をテーブルに置き、俺は指示どおりに動く。
髪をかきあげ、うなじを露出させるベアト様。俺はその艶やかな様をなるべく見ないようにしながらドレスの着服を補助する。心臓はばくばく鳴っていたが、深呼吸をすることでなんとか押さえ込む。
「なんだか生暖かい風があたるな」
「申し訳ありません」
原因は深呼吸だ。俺は慌てて息を止める。
「ふむ。こうしてみるとドレスも意外に悪くないな」
鏡を見つめながらベアト様はご自分の言葉に頷く。
俺は息を止めているため、その発言に相づちを打てない。
ようやく解放されたのは、ベアト様が鏡台の前から立ち上がり、テーブルのほうへ移動されてからだった。
ドレスに着替えた優雅な所作でお茶をひと口お飲みになる。
「…………」
俺が直立不動のまま、その様子を見つめていると、
「レイ、おまえ口数が減ったな。何かあったのか?」
鋭い目線をこちらによこした。
「さっきエミリーと会ったときも挙動不審だったし、おまえらしくない。いつもの堂々とした執事ぶりはどこへいった。言いたくはないが、最近様子が変だぞ」
「いえ、ベアト様のドレス姿がお美しく、それを眺めるのに少々照れがありまして」
「違う。もっと前からだ」
ベアト様は俺を指差し、核心をズバッと指摘する。
「あのデュラハンが来てからだ。おまえの態度から自信が欠けるようになったのは。それにあのヴィンセントだ。おまえはあいつらが苦手なのか?」
「それはベアト様の思い過ごしでしょう」
「私の目はごまかせないぞ」
話を逸らそうと全力を出す俺だが、ベアト様は簡単に逃がさないとばかりに、
「なにか悩み事があるなら私に話してみろ。これは命令だ」
――命令。
しかしそれは、ベアト様の益になることではなく、どうやら純粋に俺のことを慮ってくださった上でのことのようだ。さすがにその程度の理解はいまの俺でもできる。
ここは悩ましい選択を突きつけられた。
執事としての俺は、自分の悩みを打ち明けるわけにはいかない。けれどいち人間としての俺は、確かに迷いや悩みを抱えている。自分を轢いた相手に抱く恨みと、元の世界に戻っても待っているのは死である可能性が高まったこと。それらを回避するためには、この世界で生き抜く覚悟をしなければならないこと。
ヴィンセントとデュラハンの登場は、俺に決定的な打撃を与えていた。
しかも忘れようとした頃に最も会いたくない奴と出会う。転移者は引かれ合うというが、ただの偶然ではなく、本当にそういう働きがあるかのようだった。
一瞬、なにもかもベアト様に打ち明けたくなった。
無謀なことだとわかっている。けれど真実を伝えても、彼女なら受け止めてくれる。そんな気がしたのだ。彼女の度量の広さと、俺が積み上げた信頼は、真実を告げたところで脆く壊れるものではないはず。そう信じたかったのだ。
「ベアト様、これからするのは内密な話です。ドアに鍵をかけてもよろしいでしょうか」
「お前が望むならそうしろ」
「畏まりました」
タウンハウス詰めの人間は少ないが、シンシア様あたりがきまぐれに入ってくる恐れがあったため、俺は慎重を期して部屋の鍵を内側から閉めた。
「実は――」
俺はベアト様に振り向き、言葉少なに語り始める。
自分たちがこの世界の人間ではないこと。事故に遭って転移したこと。ヴィンセントが俺たちを過酷な運命に落とした張本人であること。転移者であるデュラハンがこの世界で生き抜こうとしていること。元の世界かこの世界か、どちらを選ぶべきか俺が迷っていること。俺自身はそれでも、元の世界に戻ることにこだわっていること。
「…………」
ベアト様はその話を瞑目して聞いていた。ショックはあるだろう。なんといっても兄だと思っていたアルが別世界の住人だと知って、無反応ではいられないはずだ。
それに、もし俺が十分な信頼を彼女から得てなかった場合、早々にクビになる恐れさえあった。素性の怪しい人間を使用人として雇っていられないからである。
俺が押し黙っていると、ようやくベアト様が口を開いた。
「今の話は、得意の夢物語か? 面白いは面白いが若干ファンタジーすぎるな」
「いえ、夢物語ではありません、事実です」
証拠として俺はスマートフォンを手渡す。電波が通じないとはいえ、それは体に馴染んでいた。なのでお守りのようにポケットに忍ばせていたのだ。
ベアト様はそれをまじまじと見つめ、外部ボタンをいじっている。
「動かないぞ」
「電気が切れておりますので」
「ふむ、なるほど」
「これは以前お話しした、一台で何でもできる未来の道具です。そして俺たちは元の世界で死ぬような目に遭いました」
「死んだ結果、この世界へ?」
「どうでしょう。いずれにせよ、私の命など忖度する価値はありません。なぜなら、命に価値などないのですから」
「価値はないだと? 馬鹿なことをいうな」
俺が語れば語るほど、ベアト様が事実を受け容れ、同情しているのが伝わってきた。
だから俺はその同情を断ち切るように語気を強めた。
「申し訳ございません。それは私の唯一の思想信条です」
元の世界で死んでいようと、この世界を生き抜く決断をしようと、ともに無価値な命の上に成り立っている。どんな選択をしようとも、その考えは変わらない。
「おまえ、随分偏った主張を持っているんだな」
「ベアト様から見れば、そう映るのかもしれません」
少し自分のことを語りすぎた気がした。特に最後の思想に関する部分はまったく余計な話題だった。俺は勢い余って地雷を踏んだのかもしれない。一度解き放つと、自分語りが止まらなくなる。ぼっちの悪い癖だった。
「証拠まで見せられたら、受け止めるしかないな。おまえの語った夢物語を」
内心どう思っているかは知らないが、ベアト様は心の揺れをまったく感じさせず、お茶をぐいっと飲み干した。その挙動に普段とのブレはない。
「だが、驚いたのは確かだ。少し考える時間をくれ。今はまだ何ともいえない」
「受け止めて頂けただけでも幸甚であります」
「レイ、私が懐の広い女でよかったな」
口調はおだやかだが、にこりともせずベアト様はティーカップを差し出した。
「下げるがいい」
「イエス・マイレディ」
俺は内側から閉めた鍵を開けたあと、ティーカップを手に外へ出た。
その足でまっすぐキッチンへ向かうと、紫音が晩餐の調理に追われていた。
「そろそろ晩餐の時間だぜ……って、おまえ、顔色ますます悪くなってるぜ?」
フライパンで魚をソテーしながら、彼女は頓狂な声を上げる。
「ちょっと心労が祟ってな」
紫音にいわれるまでもなく、俺は自分の異常を察知していた。
秘密を他人に話すのがどんなにつらいことか。俺はクラスのぼっちだった頃から、つまり中学の頃から、他人に自分の秘密を話したことがない。だからこの経験は人生における初めての出来事だった。
「すぐに食堂を整えておく。料理ができたら呼んでくれ。ベアト様に声をかける」
紫音に指示を出しながら俺は眉間に指を押し当てた。次第に強まってくる自分の動揺を無理やり押さえ込もうとして。




