夏色のドレス
ロンドンシーズンというものがある。
貴族たちがロンドンで過ごす社交期のことで、時期的には五月から七月、六月にピークを迎えるようだ。それはこの国の王族がちょうどロンドンで過ごす時期にあたっており、成人を迎え、国王に拝謁をし、社交界デビューを果たす貴族にとって一生で最も重要なイベントだという。
我が屋敷からこのイベントに参加されるのは言うまでもなくベアト様だ。
準備はシンシア様の指示のもと着々と進んでおり、出立前日にはお召し物である華麗なドレスが届いた。さっそく試着する段になったのだが、
「レイ、おまえが手伝え」
従者のときと同じく、そんな命令が俺に降ってきた。
以前はやむなく従ったが、今の俺は自分の判断力を持っている。ベアト様の着替えを手伝うということは、彼女の下着姿を目にすることを意味する。元の世界の基準に従ってもこれは異常なことだ。なのでその命令にイエスもノーも言わないでいると、
「なんてことを命じるの。手伝いならダグラスにやらせなさい」
ドレスのチェックに来ていたシンシア様が顔を赤くして叱りつけた。
「いやだ」
来ましたよ。ベアト様のわがままが。
「レイが手伝わないなら着替えない。最終チェックはロンドンのタウンハウスでやる」
そもそもドレスに興味がないのか、手近な椅子にそれをぼすんと置く。
「もう、わがままばかり言って」
シンシア様は怒り心頭だが、ベアト様はどこ吹く風だ。
今回の社交界デビュー、シンシア様はベトア様の後見人という立場なので、その権威を最大限振るい、彼女を屈服させようとしたが、いかんせん相手が悪かったようだ。
「ただでさえ社交界は面倒なんだ。ドレスの出来など適当でいい」
俺はその夏らしい色合いのドレスはベアト様によくお似合いだと思っていたので、
「ベアト様。そのドレス、あなた様にうってつけかと存じます」
シンシア様の手前、持ち上げるようなことを言うと、
「おまえまでお母様の味方か。見損なったぞ」
顔をぷいと背けて、自室に戻る階段へ向かってしまう。
「ベアト、待ちなさい」
シンシア様があとを追いかけるが、この様子ではベアト様の機嫌が直るのに結構な時間がかかるだろう。俺がやれやれとため息をつくと、書斎からアルが出てきた。
「さっそく手を焼いているようだね」
こちらの話が聞こえていたようで、アルは苦笑しながら歩いてくる。
ちなみに今回のイベント、本来なら屋敷の紳士であるアルが同伴することが望ましいのだが、彼はカーソンとアイルランドに行く予定なので同行はできない。代わりにシンシア様を後見人に立て、社交界デビューを乗り切る算段なのだ。
「できればご主人様もご一緒されればよろしかったのに」
俺はそう口にしたが、わりと本音である。
「ぼくはビジネスのほうを優先する。格式ばった社交界など二の次だ」
ベアト様も変人なら、アルも変人だった。普段は立派な伯爵様を気取っているアルも、常識のポイントがおそらくかなりずれている。使用人である俺には、他家の貴族から笑い者にされないか、それだけが気になってしまう。
俺は自分の懊悩を横に置くべく、話題を変えることにした。
「ところでアイルランドへはどんなご用向きで?」
「反独立派義勇軍の閲兵に行く。支援が実を結んでいるか、その視察にね」
アルのなかでは軍事的支援もビジネスの一環なのだろうか。投資が実を結ぶかどうかを見定めるのと同じ口調で、あっさりと語っていた。
「くれぐれも危険な目に遭われないよう祈っております」
「無論、気をつけるよ」
アルひとりでは心配だが、今回はカーソンがついている。彼に任せておけば安心という意識もあって、俺は心の平静を保とうとした。他の執事はどうか知らないが、ネヴィル家の執事は心臓がいくつあっても足りない。心がタフでないとやってられない。
結局この日は、ベアト様のわがままもあって、社交界デビューの準備も中途半端に終わってしまった。屋敷の貴族が揃って外出するとあって、晩餐にデシャンが手のこんだ料理を作り、それに皆様がたが舌鼓を打ったことがせめてもの救いであった。
◆
翌日。ベアト様ご一行はロンドンへ向かった。
お付きの者はシンシア様、料理人役の紫音、運転手のバークマン、そして俺の四人編成であった。アルとカーソンは見送り。彼らが出立すれば、グリムハイドアビーは仕えるべき貴族を失い、寂しくなることだろう。
テンプル地区のタウンハウスについたのは約四時間後のことだった。
最高級のロールスロイスに乗っていたとはいえ、この時代の車だ。道中の悪路もあってそれなりの疲労がある。特に高齢のシンシア様は非常にお疲れの様子と見受けたが、タウンハウスにつくや否や、元気いっぱいに動き始めたのはなんと彼女であった。
「ベアト、社交界用の服に着替えなさい」
そう命令を発し、階上を指差した。
ベアト様は渋々ドレスを手にしたが、レディの衣装はひとりでは着替えられない。
「レイ、手伝え」
小さく呟いたベアト様だが、そこには逆らいがたい気迫がこもっていた。代わりとなるダグラスさんが不在なため、シンシア様もそこに反駁はしなかった。
「わかりました」
ベアト様はタウンハウスのなかでも一番いい部屋に入り、俺もそれに付き従う。
入室するや、彼女はさっさと服を脱ぎ始めた。男がいるのにこの脱ぎっぷりの良さ。使用人は喋る家具だというが、まさに俺は家具になった気分だった。
「ドレスをよこせ」
「畏まりました」
御意、と答えないのは以前にそれを窘められたから。俺は下着姿がなるべく視界に入らないよう気を使い、ベアト様がドレスを着るのを手伝おうとした。
しかし彼女は鏡の前で静止し、ため息をついた。
「やはりしっくりこないな。お母様の見立てた服では私らしさがない」
夏色のドレスをまとったベアト様はとてもお美しかったが、今はどんなに褒めても耳に入らないだろう。それほど彼女は酷く顔を歪めていた。
「よし、とっておきのものを出そう」
――とっておきのもの?
嫌な予感がした。
だがベアト様は俺の動揺など目もくれず、トランクケースから一着の服を取り出した。
「実は舞踏会用に自前で仕立てた夏服があるんだ」
夏服というのも嫌な気がした。そして案の定、彼女が仕立てたというのは、水兵が着るようなカラーのついた上着である。元の世界の言葉でいえばセーラー服だった。
「それはどうかと思いますが……」
小さく否定を呟くが、そのセリフは彼女の耳にはまったく入らなかったらしい。
「これなら自分で着替えられるぞ」
ひとりでパパッと上着をかぶった。勿論スカートは例によって丈の短いもの。
「それは普段着ではないですか」
俺はかろうじてその衣装にツッコミを入れる。
「違う。素材がシルクなんだ。普通ならドレスに使うような生地だ」
鏡を見て満足したらしく、こちらをくるりと振り向き、たおやかな笑みを浮かべる。
とてもかわいい。確かにかわいかったが、この世界の貴族としてふさわしいかと言われると断固ノーと言わざるをえない。
「見たところ、レディのお召し物ではないかと存じます」
「レイ、それは浅はかな考えというものだ。流行の最先端、パリでは短いスカートや男性服を着たりするのがトレンドだという。私もその流行に乗ってみたんだ」
ベアト様はあくまで抗弁されるが、社交界のルールは流行とは別物であるはず。
しかし彼女はこの服が社交界向きだと言って譲らなかったのだ。
「お母様に見せてくる」
俺の静止を待つ間もなく、部屋を飛び出していった。
慌てて俺もそのあとに従うが、
「どうだ、お母様。これで文句あるまい」
階下で手ぐすねを引いていたシンシア様にセーラー服を堂々と見せつけていた。
「まあ、なんてはしたない!」
セーラー服を見せつけるように、応接間をくるくると舞うベアト様だが、彼女がひとつ回るたびにシンシア様は床に崩れ落ちていった。
「ああ、ベアト。勘弁して頂戴」
崩れ落ちながら、腰をさすっている。あまりのショックに腰でも痛めたのか。
「……あなた、その服で社交界に出るつもりだったの?」
「勿論だ。最先端のファッションで居並ぶ貴族の度肝を抜いてやろうと思ってる」
「その前に私の度肝が抜かれたわ。あいたた……レイ、助けて頂戴」
「御意」
俺は腰砕けになったシンシア様を側に寄って支えた。
ひとりで立ち上がれないことから、どうやら本当に腰を痛めてしまったらしい。
「お願いだから私が見立てたドレスを着て頂戴」
「いやだ」
「またそうやってわがままを……いい加減にしなさい。これからレディの立ち振る舞いを教える先生が来るのよ。そんな格好で出るつもりなの? あいたたた……」
ベアト様の無作法を窘める前に、シンシア様の救助が先のようだった。
「シンシア様、こちらの長椅子まで」
俺は彼女に肩を貸し、ゆったりと横になれる場所まで連れて行く。
「ふう……」
ようやく人心地ついたのか、シンシア様は深い息をつき、
「あなたのせいでこの有様よ。一体誰が後見人を務めるの?」
「レイでいいだろう」
「馬鹿は休み休み言いなさい。使用人が付き添うなんて聞いたことないわ」
冷静に見て、シンシア様の仰ることのほうが正論に聞こえる。俺は自分の身が弄ばれていることに、さらに動揺を深くした。
「お母様は黙っていて頂こうか。私はこれでも屋敷の主人だぞ」
男勝りもここまで来ると大したものだと思う。屋敷の主人はアルなのに、自分も主人でいるつもりなのだから。権力をひけらかすあたり、下手をすればアルより主人っぽい。
「レイ、あなたからも何とか言ってやって頂戴」
そして宥め役という最も面倒なボールが俺のところにパスされてきた。
「ベアト様。ここは社交界のルールに従いましょう」
俺は当たり障りのないことを言い放つが、
「こんなにあれこれ指図されるなら、社交界など出たくない」
すねたような態度。先行きを考えると実によろしくない傾向だ。
だから俺は考えた。ベアト様が自分の考えを変えるようなひと言を。
しばし時間がかかった。そのあいだに、キッチンに引っ込んでいたメイド服の紫音も、一体何事かと応接間に現れてしまった。
「ベアト様」
一計を案じた俺は、物静かな調子で口を開く。これは一種の演技だった。
「世の中には、やらずに後悔するより、やって後悔したほうが納得が得られるという言葉がございます。社交界をないがしろにすることは、あとできっと後悔なさるでしょう。ならばやるだけのことはやって、その上で後悔なさってはいかがでしょう」
「む……」
俺の静かな語気に押されて、ベアト様が口をつぐんだ。
浅はかにも地雷に突っ込み、やって後悔するよりやらずに後悔したほうがましであると俺個人は密かに思っているが、確率的には一般常識のほうが助言にふさわしい。
反応は悪くない。俺の見立ては間違ってなかったことになる。
というのもベアト様を観察する限り、ただ自分のわがままを押し通そうといているだけには見えなかったからだ。おそらくわがままを突きつけることで、ぎりぎりまで迫った社交界デビューを反故にしようとしているのだろう。その裏にある心情は、自分が異端なため、恥をかくことを厭う恐怖ではなかろうか。それは臆病なぼっちの心情に通じるものがある。だから俺は彼女の行動を自分に引きつけ、そのように理解したのだ。
「それにシンシア様が仕立てられた夏色のドレス、本当によくお似合いでした。あの服を着られれば、どんな貴族もベアト様にひれ伏すことでしょう。立派なレディとして、そして名誉を体現する貴族として、向かうところ敵なしかと」
俺は男性を褒めるような言葉で、彼女を励ましそうとした。
ベアト様に足りないのはほんのちょっとの勇気。そう思ったからだ。
「ふむ……そこまで言われると考えは変わるな」
腕組みをしていたベアト様だが、それを解き、思案顔をお作りになる。
もう少し、あと一息だ。
「それにベアト様がお召しになっている水兵服では、少々子供っぽく見られる恐れがあります。憶測ではありますが、他の貴族たちになめられる可能性があるかと」
「なめられたくはないな。私は見下されるのが嫌いだ」
「だとすれば、ドレスをお召しになるべきです。そのほうが、ベアト様のお美しさとあいまって貴族の方々を圧倒されること間違いなしでしょう」
「なるほど。社交界をそういう場として捉え直すのか。中々賢いな、レイは」
「勿体ないお言葉です」
俺の口説き文句(若干演技あり)が効いたのか、ベアト様は考えを変えたようだ。
その証拠に、すぐさまシンシア様に向き直る。
「お母様、私の心得違いだった。ドレスは着る。社交界にもデビューする。それでいいだろう。望ましい選択ではないが、ここは黙って従ってやる」
渋々ではあるが、あのベアト様が前言を翻した。そのことを一番喜んだのはシンシア様だった。
「ようやくわかってくれたのね……嬉しいわ、ベアトリス」
腰をさすりながらの発言なので威厳もくそもない。
外野の俺はその光景を微笑ましく見つめていた。側にはぽかんとした様子の紫音。
「なにがどうなったんだ?」
こちらへ体を傾け、小声で話しかけてくる。
「ベアト様が社交界に出る気になってくれた」
「そうか。それならよかったけど……」
「気になる点でもあるのか」
「ああ。おまえが随分疲れた顔をしているから」
俺が疲れた顔? その意識はなかったので紫音の発言に心が揺れた。
「なんか最近のおまえ、仕事に打ち込むことで何かを隠しているような気がして。あまり無理すんなよ。一応友人として忠告しておくぜ」
「悪い。心にとめておく」
言われてみれば、俺は少々疲れているのかもしれない。
思い当たるふしはある。先月屋敷を訪れたデュラハンのことだ。
あいつと核心に迫った話すことで、俺には迷いが生じていた。その迷いが、目に見えないかたちで俺を追い込んでいるのかもしれない。
そんな状態で、ベアト様の社交界デビューを無事支えきれるのだろうか。
彼女の鮮やかな心変わりを前に、自分自身への不安が俺を小さく苛んでいた。




