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涙なき慟哭




 翌日、いじめに耐え抜いた俺に教育係のジョーンズがいったことが傑作だ。


「以前、おまえと同じような境遇の下僕がひとりいた。そいつは俺の教育に耐えきれなくなり、屋上から飛び降りて自分で命を絶った。もっともその事件そのものは事故として扱われたがな」


 耳を疑うような衝撃的事実だったが、ジョーンズはさも平然と語っていた。


「いまはおまえにキツくあたっているが、一週間耐え抜けば終わりにしてやる。だからくれぐれも自殺なんて馬鹿な真似をするなよ」


 ジョーンズは俺に釘を刺したつもりだったのだろう。

 その効果は絶大だった。俺は絶え間なく緊張感に襲われ、仕事に神経を研ぎ澄ました。

 最初はミスの多かった銀食器磨きも、満足にこなせるようになってきた。

 おそらく力の入れ加減、抜き加減を体が覚えたせいだろう。


 銀食器磨きを覚えた俺は、次にいわゆる下っ端仕事を割り当てられた。

 靴磨き、ランプ磨き、暖炉の燃料である石炭運び。

 石炭は重く、性質上、容易く煤がこびりつく。しかしジョーンズは、俺のお仕着せが石炭で汚れることをよしとしなかった。


「上着を汚さず運べるようになれ。そんな格好でご主人様の前に出られるか、馬鹿者」


 説教のあとは必ず腹パンチが待っている。

 顔面と違って目立たないが、俺の腹部は内出血であざだらけだ。


 なんでこんな虐待を受けねばならないのか、俺は仕事の合間に自問自答してしまう。

 徐々にわかってきたこととしては、ジョーンズは始終イライラしており、執事という仕事にフラストレーションを溜め、俺はそのはけ口に使われているようだった。

 

 それにしても命の軽さだ。

「命は無価値だ、平等に価値がない」

 ふたたびそう唱え、俺はこの屋敷で死んだという下僕の悲劇を受けとめる。

 普段なら現実感を覚えない状況だが、自分自身が同じ環境に置かれていると思えば、自然と彼の苦しみがわかってくる。そいつはジョーンズに殺されたも同然だ。


 そうして俺がトランザム家の下僕となってから、一週間が経過した。


「この一週間、よく耐え抜いたな、レイ。褒めてやるよ」


 口ではそういうが、ジョーンズの顔は不機嫌に染まっていた。だから俺は、その次に飛びだした言葉に違和感を覚えず、「ああ、やっぱりな」という納得のもとに受け容れた。


「次はご主人様たちへの配膳を任せる。だがミスしたらこれまで通り、おしおきが待っていると思え」

「…………」

「返事は?」

「御意」


 ジョーンズいわく、トランザム卿、彼の夫人、長男、次男の食事の配膳は、メイドではなく、男性使用人の仕事と決まっているらしい。理由は男のほうが格上だからだ。


 そして屋敷の住人たちは食事をダイニングルームで摂り、使用人室で飯を食う俺たち階下の住人とは明確に一線を画していた。


 仕事はその日の晩餐から始まった。

 給仕する料理はまるでコース料理のようで、最初はオードブル、次にスープ、そしてメインディッシュという具合に数々の皿が絢爛豪華な食堂に並べられる。


 ちなみに俺たち使用人、特にまだ下っ端である俺の食事は、固く湿ったパンが一切れと、マッシュポテト。それのみ。格差社会どころの騒ぎではない。


 だからというわけではないが、厨房にご主人様たちへの料理を取りにいくたび、空腹にかられた俺は、かぐわしい香りを立てる彼らの料理に乞食のごとく惹かれてしまう。


(うう、一切れでいいから食べたい……)


 前菜のサーモンマリネを運びながら、俺は心の中で意地汚いことを考えてしまう。

 黙って一枚くらいくすねても、きっとばれないと思う。

 しかしばれたときの罰を考えれば、そんなリスクを冒すわけにはいかない。


(我慢、我慢だ……)


 ジョーンズを見習い、恭しくお辞儀をした俺は、ご主人様のご子息に配膳する。せめてもの幸いは、彼らが天真爛漫な少年だったことだ。もし生意気なガキどもが相手だったらこの仕事に嫌気が差してならなかっただろうから。


 次はスープの配膳だ。

 厨房に戻った俺は、もう一人の下僕がコックに指示されている場面に出くわす。


「レイ、手が足りないんだ。メイドの誰かを配膳役に回してくれ」


 もうひとりの下僕がそういって、メインデッシュの皿の準備に追われる。

 厨房を出た俺は迷いなく、使用人室に行って月を呼んだ。


「すまん、月。手伝ってくれないか」

「いいですけど」


 月は家政婦長であるフレミングさんのほうを見る。自分が行ってもいいのか、アイコンタクトで確認をとったのだ。


「いいよ、行っておいで」


 許可を出してくれたフレミングさん。

 ここで俺は学んだ。基本、男性使用人の仕事である料理の給仕も、もし手が足りないときはメイドを使ってもいいということを。


「助かるよ、月」

「運ぶのはこのスープ皿でいいんですか?」

「ああ、重たくないか」

「だいじょうぶだと思います」


 厨房から、ジョーンズ、俺、月の順番でスープ皿を持って食堂へ向かう。

 ジョーンズは「なんでメイドが」という訝しい顔をしてみせたが、事情を知っているのか、特に文句も説教もしなかった。ただひとつ、


「気をつけて運べ」


 とだけいって、食堂に入る。ご主人様の相手は緊張するので、俺の手は震え、配膳用の大皿がカタカタと音を立てる。月は落ち着き、涼しい顔である。

 しかし、そこで致命的なミスを犯したのは、なんと月のほうであった。


「あっ……!」


 オタク文化の世界では、メイドはドジと相場が決まっている。そんなお決まりのミスを、あの月がやってのけたのだから、この世は何が起こるかわからない。


 自分のスカートを踏み、絨毯に躓いた月は、スープの到着を待ち構えていたご主人様に料理をひっくり返してしまったのだ。


「このうすのろメイドが!」


 熱々のスープを頭からかぶり、トランザム卿は部屋中に響き渡る怒声を上げた。


「ジョーンズ、おまえの教育がなってないからだぞ!」

「しかしご主人様。メイドの教育はフレミングさんの仕事かと」

「口答えをするな! きっちり罰を受けさせろ! おまえの責任だぞ!」


 配膳皿を胸元に抱え、恐怖におののく月と、なぜ自分が怒られるのかわからないといった顔つきのジョーンズ。トランザム卿はふたりを見比べ、顔をナプキンで拭った。


 その夜更け。ご主人様の命令どおり、罰が決行されることとなった。

 使用人室でジョーンズがムチを持ち、月が床に跪いている。


「ルナ、これは暴力ではない。ご主人様からの愛のムチだと思え」


 両腕を抱きしめながら、月はガタガタと震えていた。

 その悲愴な顔つきが居たたまれなくて、俺は横合いから声をかけてしまう。


「月に仕事を振ったのは俺です。罰なら俺が受けるべきかと」

「ハッ! 格好つけやがって。レイ、おまえはルナと仲が良すぎるんだよ」


 ジョーンズの振るったムチが俺の横っ面をひっぱたく。


「ッ………!?」


 声にならない声が出た。革のムチの一撃がこんなに痛いものだったとは。


「おまえらふたりはこの屋敷の水準に満たないぼんくらだ! こんなに使えない奴らだとは思ってもみなかったぞ、反省しろ! おらっ! おらっ!」


 月と俺にムチが思いっきり振るわれる。何度も、何度も、くり返しだ。

 やがて月が苦痛に耐えかね、床にべったりと手をついてしまった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「謝って失敗が取り消せるか。二度と同じミスをするな。今度やったらムチ打ち程度では済まないぞ。覚悟しておけ!」


 その後、使用人たちの夕食となった。

 しかし俺と月だけ食事抜き。空腹も手伝って月は大粒の涙をこぼしていた。

 そこに反省の色を見てとったのか、ジョーンズがパンを一切れよこす。


「これでも食ってろ」


 涙をこぼしながら、月はその固いパンにかじりつく。

 可哀想な月。とばっちりを受けたことはもう忘れていた。


「ジョーンズさん、私も反省しました」


 次は俺の番だろうと思ってそう言い、待望のパンを待ち構えていると、


「おまえのぶんはなしだ。小賢しい顔しやがって、反省の色が見えない奴に出す食事はない。そこに座ってろ」


 俺だって心では反省し、涙に暮れているのにひどい言いぐさだ。

 その悲しみを顔に出さないせいで、ジョーンズは俺への罰を重くしたのだ。


 ぼっち生活の頃、散々思い知ったことだ。自分の心が、感情が、顔を通して他人に伝わらないという自分の性格がどんなにマイナスに働くかということを。


(小賢しい顔か……心では泣いているんだけどな)


 もう一度内心で呟くも、それがジョーンズに届くことはなかった。

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