血の木曜日
翌朝。俺は朝のお茶を給仕しに、アルの部屋へ向かった。
「失礼します」
ノックの返事を待って入室する。
アルはすでにパジャマから着替えていた。椅子に座り、机に頬杖をついている。
「お茶でございます。アルバート様」
俺は慇懃に言って、机にティーカップを置く。事務的な振る舞いだと思ったが、きのうのことがある。アルの機嫌を確かめるまでは気を許せなかった。
「ありがとう」
アルはそういって俺が淹れたミルクティーに口をつける。
そして沈黙が静かに降りる。抵抗しがたい固い緊張が俺を縛りつけた。
「アルバート様」
その緊張を解くために、俺はあえて自分から口を開くことにした。
「昨晩は申し訳ありませんでした。執事として、注意散漫でした」
「…………」
アルは押し黙っている。
その無言が破られたのは、お茶を三口ほど飲んだ頃合いだった。
「玲君。これは純粋な疑問なのだけど」
「なんでしょうか?」
「ベアトが関心を寄せている社会主義思想、まさか君も感化されているわけじゃないよね」
「それは神に誓ってありません」
俺は即座に答えて、こう言葉を継いだ。
「私はそもそも、社会主義思想をよく理解しておりません。それに、私が忠誠を誓うのはそのような思想ではなく、このネヴィル家です。そこに嘘はありません」
あくまでいち労働者である自分の身を「抑圧された人間」と捉えられないことはないが、嘘がないというのは本当だった。俺はいま、懸命に執事という仕事を務めている。その努力を無にするような思想は受け容れがたいというのが本音であった。
「わかった。ぼくの思い過ごしだね。詮索して悪かった」
アルはため息をつきながら紅茶をひと飲みする。
きのうの一件がよほど堪えたのだろう。そこには心労の色が伺えた。
「玲君。君はこの国の歴史に明るいかい?」
直立不動の俺に、アルが質問を投げかけてきた。
「いえ。世界史で習った程度のことしか知りません」
「それで十分だよ」
アルは俺を見上げ、続きを口にした。
「この国は野蛮な『革命』の過去を持っている。ひとつは清教徒革命。そこではチャールズ一世が死刑になった。もうひとつは名誉革命。そこではジェームズ二世が王の座から追放された。ぼくが心配しているのは三つ目の革命がこの異世界のイギリスで起きることだ。以前にもいったとおり、この世界の歴史はぼくらが知るものとは別の歴史を辿っている。それがどんな未来をもたらすか、ぼくは不安に思っているんだ」
イギリスの革命の歴史。さすがにその程度は俺も教科書で学んでいた。
「ぼくは貴族だ。だから変わるべき時代はゆっくりと穏やかな変化であってほしいんだ。それこそ現実のイギリスが労働党政権によって社会主義思想を取り込んだようにね。なぜなら急進的な改革はこの社会の秩序を壊してしまうから。その影響を最も色濃く受けるのはぼくたち貴族。危険思想は不発のまま終わってほしい爆弾なんだよ」
アルが社会主義思想の破壊力を恐れていることはわかった。
同時にそれが原因で、ベアト様の傾倒ぶりを心配していることも。
俺は、アルがそうであるほどには政治という枠組みを俯瞰できていない。だからアルの語る言葉に中々現実感がわかない。けれどそれは怠慢にも思えてきた。
「玲君。君はぼくと共に歩いてほしい。願わくばベアトもだ。ネヴィル家の名誉は、この国の王室の名誉と結びついている。王室なくして秩序はない。そのことは忘れないで貰いたい」
「承知いたしました、ご主人様」
思えば俺は、アルとふたりきりなのにずっと敬語で話していたが、そのくらい、この場の空気は主従の関係を強調するものだった。俺は自分個人の政治思想というものを持ちえない。第一に優先すべきはアルたち貴族を守ることだと空気は俺に強いていた。
ところで給仕といえば、俺はデュラハンの従者も務めていた。
いくら爆弾発言をやらかしたとはいえ、彼を無視するのは気が引けていた。
そのことをアルに話すと、意外にも彼はこう言った。
「最後のお茶くらい、きちんと出すといい。ネヴィル家はそこまで冷淡じゃない。ただし午前中には屋敷を出て行って貰うように」
「御意」
俺はアルに最敬礼をして、彼の部屋を退出すべくきびすを返した。
「あと玲君。デュラハンに不穏な動きがあれば、ぼくに報告してくれ」
「畏まりました」
そういって俺はドアを閉めた。
向かう先はキッチン。そこで俺はストレートティーを淹れた。
だが、なんとなく勘が働き、添えものとして砂糖壺を持っていくことにした。
ふたたび階上に昇り、俺は客間の前に立つ。
「デュラハン様、失礼します」
ノックすると返事があった。俺はドアを開き、もの静かに入室をはたす。
「おお、レイ君。厄介払いされる男に給仕とは、ありがたいこっちゃな」
屋敷を追放されるというのに、デュラハンは落ち着き払って笑みまで浮かべている。
「最後まで礼を尽くすのが執事の務めかと」
「なるほどな。自分は執事の鑑のような男や」
俺がティーカップを置き、それに砂糖壺を添える。
「なんやねん、これ?」
「ひょっとすると砂糖をご所望かと思いまして。甘いお茶は心を癒します。昨晩の一件でお疲れかと思い、僭越ながらご用意させて頂きました」
「えろう気が利くのう。ほんじゃ、その厚意、甘んじて受けることにするわ」
笑んだ表情をさらに崩し、デュラハンはティースプーンで砂糖をすくいあげ、カップにどばどばと放り込む。
「どうせ朝飯は出んやろうし、こいつで燃料補給や」
やはり砂糖を付けて正解だった。
俺は自分の判断に少なからず満足を覚え、デュラハンの前で影のように立ち尽くす。
だから目の前に俺がいないかのように、彼は穏やかな口調で語り始めた。
「昨晩の件は失敗やったけど、後悔はしてないで。わしは確かに急進的な社会主義思想に傾倒しとる。そこに嘘はつけん。空気を読んで嘘つくくらいなら、こないに面倒な思想を信じとりはせん」
お茶で口を湿らせながら、淡々と語るデュラハン。
「なぜならわしはな、元の世界に戻る可能性を低く見てるんや。レイ君がやってるっちゅう記憶集め。あれは元の世界に戻る鍵かもしれん。わしもそう思うとった。けれども徒労に終わる可能性のほうが高い。だとすればどうするのが正解やと思う?」
その疑問は独り言のようだった。
「私に訊いてますか?」
「せや。自分に訊いとる。レイ君が思う答えを聞かせてほしいねん」
「私は記憶集めを止める気はありません。それだけ元の世界に戻りたいんです」
従来から定まっている意志だ。俺はきっぱりと言い切った。
そして以前の会話では、デュラハンも同じことを考えていたはず。アルは元の世界に未練がないと言っていたが、デュラハンは違う。銀行家という高い社会的地位を失って未練たらたらだった。
だから彼が次に発したセリフを聞いて、俺は驚きを隠せなかった。
「わしな、この世界のことをなめとった。どうせ陳腐で堅苦しい貴族社会やと思うとった。せやけどこの屋敷に来て考えが変わりつつあんねん。きっかけはあのベアト様や。貴族のくせしてわしの思想に共鳴しとる。貴族にもあないなお嬢がおるんやと思うたし、正直いうて、びっくらこいたわ。わしの考えがあないに人の心を動かすっちゅうことに」
簡単な話、デュラハンは心変わりをしたようだ。
あれほど元の世界に戻りたかった男が、この世界に意味を見いだしていた。
「元の世界では、大事なんは金だけ。毎日朝から晩まで仕事しとる、えろうつまらんやつやったわ。そんなわしは、この世界に来てたぶんアホになったんや。まだ見ぬ何かに賭けとうなった。そないな自分にわくわくするんや。この興奮は元の世界では得られへん」
「…………」
俺は応えなかった。正確には応えられなかった。
「わしの記憶も知ってもうたし、レイ君はレイ君で好きに記憶集めしたらええ。せやけどわしは、もうそないなことに意味を見いださんようになった。この世界で生き抜く覚悟っちゅうんかな。わしはわしの手でこの世界を変えたい思うんや」
急進的な思想に心構えまで加わってしまったようだ。俺はデュラハンのいきいきした顔を見て、小さな嫉妬を覚えた。なぜなら彼には迷いというものが一切なかったから。
デュラハンもそれを見抜いたのか、ふたたび頬杖をつき、こんなことを言った。
「勿論、その生き方にレイ君が引っ張られることはあらへん。自分は自分の道を行ったらええ。あのお嬢もせや。結局、自分の行く道は自分で選び取るしかないんや」
それを聞いて、俺は恥ずかしくなった。
俺はネヴィル家を守る執事であることに不満はない。けれど自由に生きている人間には憧れもあるのだ。人が階級に縛られず、自分で自分の人生を決められる元の世界。
「おっと、喋りすぎてレイ君を惑わしてもうたようやな」
ぽりぽりと頭をかくデュラハン。
もうお茶は飲み終わっていた。それを下げる前に、俺は彼に荷造りをするように言い、午前中に家を出るようアルの命令を伝えた。
「ほな、さっさと退散するわ」
俺は彼の部屋を退室して、使用人室に赴き、バークマンにデュラハンの送迎を頼んだ。
「それなら、すぐに準備しないとね」
屋敷の運転手はそういって外へ出る。
勿論、車の整備等はつねに行なっている。あとはデュラハンの準備を待つばかりだ。
「結局、デュラハンさんは出ていってしまうんですね」
椅子に腰をおろした俺に、月が話しかけてきた。
「そうだな」
「まあ、あれだけの粗相をやらかしては当然の報いです」
黒ルナが残酷なことをいう。屋敷の使用人として思うところがあったのだろうか。
一度そう思えば、いろんなことが気になってしまう。デュラハンがまき散らそうとした社会主義思想。それは使用人室では格好の噂話として広まっている。他の使用人はそれをどう受け止めたのだろう。
いちいち問いただすことはできないため、いまの俺には皆目見当がつかない。
そうこうしているうちに、デュラハンが階上から降りてきた。
「レイ君、こっちは準備できたで」
「車を手配してます。トランクケースを持ちましょう」
俺は客人を遇する態度で、最後まで彼に敬意をもって接することにした。
「えろう世話になったな。ご主人様には挨拶せんでええんやろか」
「そうですね、ひと声かけてみます」
俺がそう答えたのと、アルがホールに現れたのはほぼ同時だった。
「…………」
アルは唇を固く引き結び、デュラハンのほうへ歩いていく。一体なにを言い出すのか、固唾をのんで見守っていると、
「短い時間だけどよく勤めてくれた」
表情こそ不機嫌そうだが、アルはねぎらいの言葉をかけた。
「こちらこそ、失礼を働きましたわ」
ぺこりと頭を下げるデュラハン。それは後腐れない別れ方だった。
俺はあらためてアルの度量の広さを感じた。
「ほな、行きますわ」
そういってデュラハンが玄関へ歩き始めたとき、
「ご主人様!」
大声をあげた紫音が駆け足でやってきた。
「どうした?」
「今しがた電報が届きました」
手には紙切れを持っている。それが電報なのだろう。
紫音からその紙切れを受け取ったアルが、真剣な表情でそれに目を通す。
俺たち使用人はおろか、出立寸前だったデュラハン、応接間にいたベアト様まで騒ぎを聞きつけホールに集っていた。
「どんな知らせでしょう?」
俺はみんなを代表して、押し黙ったアルに呼びかける。
「…………」
しかし紙切れに目を落としたまま、アルは微動だにせず固まっていた。
やがて小さく目を上げ、俺に向かってぽつりと呟いた。
「……アイルランドで戦争が始まった。共和国派の私兵が義勇軍に発砲したらしい。ほどなく政府軍が投入されるとのことだ」
そのひと言は、広々としたホールにさざ波を起こさずにいなかった。
真っ先に月が、口許にハッと手を当て、息をのんでいる。
雪嗣とベアト様はその場に釘付けになっている。それはデュラハンも同じだった。
――戦争。
その二文字はアルが提供した資金で血が流されたことを意味した。
「なんてことだ……」
アルはそこまで言って、完全に言葉を失った。
のちに「血の木曜日事件」と呼ばれるこの出来事は、イギリスとアイルランドの関係を決定的に悪化させ、元の世界の歴史からは五年も早く独立戦争が始まる引き金となったのだった。
こうして俺はまた、絶対遵守の誓いを生きるのだった。




