社会主義者の激白
その翌日。思い出せばきょうは、俺と月が異世界のイギリスにやってきてから四ヶ月目となる記念日であった。
しかしそのことを祝う相手はどこにもいない。月と二人きりで祝ってもよかったけれど休日が合わない限り、そんな暇はない。基本的に俺たちは仕事で忙しいのだ。
晩餐の準備を進めながら、そんな益体もないことをつらつらと考える。
というのも正直いうと俺は、昨日行なったデュラハンとの会話で結構なダメージを受けていたのだ。
元の世界には戻りたい。俺は家族の顔を思い出していた。
けれどそこに待っているのが死であるとすれば、願いは儚く終わる。
もし生きようとするならば、俺はこの世界を受け容れなければならない。
ただ毎日を誠実に働き、起きたトラブルを解決し、貴族たちに仕える終わらない日々。そんな四ヶ月がこれからもずっと続くかと思うと、複雑な心情に駆られる。
こんなに迷うということは、自分の幸せに自信がない証だ。俺は何を求め、何を喜びとするのか、心が定まっていないのだ。だからデュラハンの言葉に心が左右される。
そうこうするうちに、ベアト様が階上からおりてこられた。背後にはデュラハンを連れている。非常に満足そうな顔だ。乙女のような笑顔がはじけている。
あれほど社交界デビューに向けたレッスンを嫌がっていたベアト様がこの笑顔だ。きっとデュラハンが盛ったスパイスが強烈に効いたのだろう。
「アル、デュラハンも同席するぞ」
「問題ない。屋敷にいるあいだはずっと客人扱いしていいって言ったろ」
そうして食堂には、アル、ベアト様、シンシア様、デュラハンの四人が着席した。
俺と雪嗣はキッチンからオードブルを持って給仕にかかる。
きょうは野菜を使った冷製テリーヌ。涼しげな色のソースが皿に花を添えている。
「まあ、素敵な一品ね」
真っ先に反応したのはシンシア様だった。
デュラハンは得意のお喋りを控え、優雅に背筋を伸ばしている。
ようやく彼も貴族の作法に慣れたのか。順応性の高い奴だ。
「それでは頂くとしよう」
アルの一声が合図となり、晩餐は始まった。
俺は次の皿であるスープを取りに、急いでキッチンへ歩いていく。それでいて小走りにはならない。この四ヶ月で身につけた執事としての動作だ。
「ところでベアト」
「なんだ?」
「デュラハンとのレッスンはうまくいっているかい」
背後ではアルがさりげなく質問を投げていた。
屋敷の主人として、ベアト様が真面目に授業を受けているか気になるのだろう。
「ねえ、玲さん」
キッチンに入ると、ヘルプで駆り出された月が俺に声をかけてきた。
「あのベアト様が従順にレッスンを受けているようですけど何かあったんでしょうか」
心配を装いつつ、好奇心にかられた顔だ。
「おまえ、興味本位で訊いてるだろ」
「いけませんか」
「そんなことはないけど、ここは社交界デビューへ向けた重要な局面なんだ。俺も神経質になっている。あまり冗談で話す気にはならない」
「でもあの家庭教師、私の直感では信用なりません」
前にも黒ルナが同じことを言っていたな。デュラハンのことを胡散くさいと。
もっとも後になってわかったことだが、その指摘は的を射ていた。彼が社会主義思想に染まり、ベアト様にそれを教えるような奴だったという点で。
「とにかく月。レッスンが終わるまで静かにしてくれ」
そうでなくてもデュラハンは、俺たちと同じ転移者という立場にある。話そうと思えばお喋りの種は尽きない。けれど今はそれに興じている場合ではない。
「全てが終わったらおまえたちにも話すよ」
「わかりました。約束です」
そういって月は、食堂へスープを運んでいった。俺と雪嗣もそれに続く。
「お母様。飛行機がなぜ空を飛べるか知ってますか」
スープの給仕を始めると、ベアト様がシンシア様に謎掛けをしていた。
「それもデュラハンに教わったの?」
「ああ、そうだ。私が疑問をぶつけると、きちんと論理立てて教えてくれた」
テーブルの話題を鑑みるに、デュラハンはああ見えてまともなことも教えたようだ。
「飛行機を飛ばすには揚力が必要なんだ。その揚力がどうして得られるかというと、翼の上を流れる空気の速さが下を流れる空気の速さを上回って、上の気圧が下の気圧より低くなるからなんだ」
「ベルヌーイの定理だね」
アルが横からさらっと口を挟んだ。
「そう。その定理だ。上の気圧が低くなると、翼は上に押し上げられる――つまり揚力を得るんだ。これが飛行機が空を飛ぶ理屈だ」
「それもデュラハンが?」
「ああ。私が質問したら、丁寧に答えてくれた。科学技術の話題は紳士も喜ぶだろうと」
「そうね、男性はそういう話が好きだもの」
よくできましたとばかりに、シンシア様は相好を崩す。
空気の流れからして、デュラハンの株がぐっと上がったようだ。
「他にはどんなことを教わったの?」
「蓄音機が鳴る仕組み。ラジオ放送が届く仕組み。私が以前から疑問に思っていたことばかりだ。デュラハンは全部知っていた。中々優秀な家庭教師だ」
「あらそう。それはよかったわね」
シンシア様はそれを自分の手柄のように喜んでいた。
「科学技術は私の関心分野だからな」
スープを飲みながら、ベアト様のお喋りは止まらない。ただ俺ひとりだけは、まったく別のことを考えていた。この様子では、デュラハンは、社会主義思想を吹き込むことなくレッスンをこなしていたのだろうということ。
(あいつになりに気を使ったのか……?)
その事実は俺に安堵をもたらす。
同じ転移者と会って、その腹の内を探るのは決して気持ちのいいものではない。なのでメインデッシュを取りにキッチンへ赴く足取りはとても軽かった。
こうして晩餐は恙なく終わり、貴族たちは応接間でお茶を召し上がることになる。
普段なら疲労を訴えて部屋に戻ってしまうシンシア様も、デュラハンの話に興味を持ったのか、あるいは彼にさらなるアピールの時間を与えたかったのか、四人全員分のお茶を俺たちに指示し、柔らかいソファの上に座り込む。
「デュラハンさん、抜かりなく株を上げてますね」
お茶を淹れる俺に話しかけてきたのは月だ。
「今にして思えば、あのスコットランド訛りも味があるよ」
お菓子の用意をしながら、紫音も話に混ざってくる。
「俺の目が曇っていたのかもしれないな」
デュラハンに辛口だった雪嗣も、評価をあらためてくる。
それもこれも、あのベアト様にきちんとしたレッスンを受けさせるだけの人物だという事実が明らかになったから。彼女の我がままは筋金入りだ。並大抵の家庭教師では、そのプレッシャーに負けて役目を放り出す。しかし彼はそうはならなかった。
「金目当てってわりには仕事熱心だしな。俺はいい教師を見つけたと思う」
「シンシア様も、鼻高々ってわけですね」
雪嗣と月が雑談を始めるが、俺はお茶の給仕という仕事が残っており、彼らには晩餐の片付けが残っている。現に紫音は食器洗いを始めている。
「あんまり無駄話をしているなよ」
「あら。玲さんに注意されてしまいました」
「そりゃするだろ。俺は執事だぞ」
カーソンならもう少しぴしゃりと叱りつける場面だ。
「仕事に戻りましょう、雪さん」
「ああ」
俺はふたりが片付けに取りかかったのを確かめたあと、応接間へ給仕に向かった。
「デュラハン、あなたは本当に博識だわ。さすがオックスフォード出ね」
応接間ではシンシア様の賛美がまだ続いている。
「学歴がええからといって、他がええとは限りまへん」
「でも人格的にもご立派。貴族に混じってもあなたなら恥じないわ」
「そら、勿体ないお言葉です」
俺はアルとベアト様にはミルクティー、シンシア様にはロシアンティー、デュラハンにはストレートティーを配膳した。無論、全員の好みを把握した上での所作だ。
「ありがとう、レイ。あなたが淹れてくれたお茶はとても美味しいわ」
「身に余るお言葉です、シンシア様」
上機嫌で口が軽くなったのか、あのシンシア様が俺を褒めてきた。なんとなくであるが悪い予感がする。こういうときの嗅覚は当てになることが多い。
だから、ということはなかったと思う。
シンシア様が好奇心含みでデュラハンにこう尋ねたのだった。
「訊きにくいことですけど、あなたは支持している政党はあるの?」
「政党でっか?」
「そう。この頃、保守党、自由党以外にも色々な政党があるでしょう? 若くて博識なあなたのような人がどんな政党を支持するか気になったの」
「さいでっか。強いていえば社会党ですねん。不満たっぷりやねんけど」
「社会党? 労働党ではなくて?」
「労働党の政策は体制擁護的や思うてまんねん。それが理由で支持できまへん」
「あらそう……」
シンシア様は想定外の答えに戸惑っているようだった。そういう俺も、イギリスの政治に明るくない。社会党と労働党の違いはわからない。精々、労働党がのちに保守党と政権を分かち合うようになる歴史を知っている程度だ。
俺はふたりの会話にきな臭いものを感じ、この場を離れるか、それとももう少し話に耳を傾けるか迷っていた。しかしその迷いはすぐに封じられてしまう。
「わしな、政治的には急進的な社会主義者やねん。親父が銀行家で、労働者を食いつぶす資本家そのものやってんけど、なぜか思想は左寄りやってん。その矛盾をわしも背負ってもうたんや。自分を否定する思想になぜ惹かれてまうんや」
視線を落としながら語るデュラハンだが、語気には熱がこもりつつあった。
そもそも今のひと言は、デュラハン自身の告白に近かった。元の世界では銀行家だったというが、思想的には社会主義に溺れている。自己矛盾を抱えた男。その事実を、否定も肯定もできていないこと。
「貴族の皆さんばかりやない、そこのレイ君。君も聞いてや」
配膳皿を抱えた俺にデュラハンが語りかけてくる。そのおかげで俺は身動きがとれなくなった。
「君みたいな労働者にも、貴族と同じく自由と人権があるんや。今はそれを抑圧されているだけで、ほんまは一緒の人間なんや。それを分け隔てる階級社会は間違っとる。わしはどんな政党を支持するかの前に、階級社会を否定する……ちゃうな、階級社会を打ち壊す組織を応援したいんや。それがわしの使命や思うとる」
デュラハンの奴、ついに口にしてしまった、と俺は思った。ベアト様の家庭教師を穏当にこなしていた彼とは別の顔。その素顔を貴族の前にさらしやがった。
「…………」
予想外の事態にシンシア様は絶句している。
ベアト様は固い表情だが、不満も賛意もないという顔。そして静かに瞑目する。
問題はアルだった。この屋敷の主人は、今の発言をどう聞いたろう。
「…………」
ちらりと見ると、アルは思い切り眉をひそめていた。怒りの感情がその内側に溜まっているのをひしひしと感じる。その迸りは、まず俺に向けられた。
「玲。君はこのことを知っていたのか」
「知っているといいますと?」
「あまりショックを受けていないようだから、最初から知っていたのかと思ってね。どうなんだい、君は我が家の家庭教師が共産主義者だと知っていたのかい」
アルは見上げる視線になった。その目は容赦なく俺を睨んでいる。
「知っておりましたが、穏便を説きました」
「前から知っているならなぜ教えてくれなかった。ぼくはそんなふうに君を調教したつもりはないよ」
俺の発言を一顧だにせず、アルは鋭い声を俺に浴びせた。温厚なアルが感情的になるのを見るのは初めてかもしれない。俺は気迫に押され、押し黙ってしまう。
「お義母様、この男は我々貴族の敵だと名乗りあげた。到底許せることではありません」
「……待ちなさい、アル。あなた、何を仰りたいの」
「そうです、お兄様。デュラハンはただ、自分の思想信条を語っただけだ」
「行動に移してないから見逃せと? あいにくぼくは、そこまでボンクラじゃない」
形成は二対一で不利だったが、アルはこの屋敷の最高権力者だ。本気になれば、どんなことだって通せる。それはたとえ母親が探してきた家庭教師をクビにすることでも。
「デュラハン、悪いけど君はお払い箱だ。あすにも屋敷を立ってくれ」
さすがにアルも怒りをぐっと堪えたようで、解雇通知は平静におこなわれた。
「お兄様は自分勝手だ」
デュラハンに感化されていたベアト様はその宣言に食らいついてくる。
「自分勝手だよ。この屋敷を統治するのはこのぼくだ。文句があるかい?」
「当然だ。デュラハンはよく勤めてくれた。私は最後までレッスンを受けたい」
「ベアト、それは無理な相談だよ。我々貴族を否定する者を受け容れるほど、ぼくの度量は大きくない。恨むならぼくの狭量さを恨め」
ここまで言われれば、ベアト様といえど反駁は無理だった。
打ちひしがれた彼女の視線は、クビにされたデュラハンに向けられる。
「わしが口滑らしたのがあかんねん。堪忍したってや」
「力になれなくてすまない」
「ええねん。それよかベアト様、社交界デビュー頑張ってや。それを成功さすがのわしの唯一の心残りやねん。せやけど人生は自分のものや。信じる道をひたすら進んだらええ」
「本当にすまない……」
自分の無力さを思い知ったのか、ベアト様は小さな歯を噛み締める。それは落胆というひと言で片付けられないほど悔しげな顔だった。




