何をなすべきか?
使用人室に戻ると、昼餐の片付けを終えた使用人たちが休憩をしていた。
「玲さん、どう思います?」
入室するなり、月に話しかけられた。
「どう思うって、何を?」
「デュラハンさんのことですよ。急にやってきてベアト様の家庭教師になって。おまけにあのスコットランド訛り。絶対胡散くさい人ですよ」
訛りを理由に人格を疑われては、デュラハンの立場はないだろう。
「そうかな。俺には熱心な教師に見えたけど」
「玲さん、人を見る目がありません。あの人はシンシア様に大金を貰ったか、この屋敷にべつの目的があって来たに決まってます。私の第六感が囁くんです」
黒ルナの根拠は勘か。それではますますデュラハンの立場はない。
俺は彼の擁護をする気はなかったが、他の連中の意見も聞いてみることにした。
「紫音はどう思う?」
「私は月の意見に賛成だな。へらへらしているのが気に入らないし、あの疫病神のシンシア様が連れてきたというのが怪しさを助長している」
すでにハイテンションを失った紫音。口調こそ荒っぽい不良娘のスタイルだが、普通の会話はできるようになっている。
「雪嗣は?」
俺は静かにトランプ遊びをしている雪嗣に尋ねる。
「俺は人を見る目に自信があるわけじゃないが、仕事を金目当てやってる感じがあるな。あいつのレッスンが本当にベアト様のためになるのか、そこが心配だ」
雪嗣の評価も厳しい。
なんと四人のうち、俺だけがデュラハンを認めていることに驚いた。
「でも、ベアト様の社交界デビューにふさわしい人材だろ。確かに来訪はイレギュラーだったけど、そこは俺たちでカバーしないと」
いつの間にか、俺は執事の立場で説得にかかっていた。これが職業病か。
「いずれにしろ、玲さんがきっちり見張っている必要はあると思いますよ。このところ、お客が来るたびトラブルが起きてますからね。心構えがあれば気持ちも楽になります」
月のやつ、俺が神経質になっているのを見抜いているようだ。心に余裕があれば、他の仲間に話を聞いたりなんかしない。
「みんなの意見はありがたく受け止めるよ。そのうえで必要なことをやろうと思う」
具体的には、デュラハンの行動から注意を逸らさないことだ。
従者として付き従い、家庭教師という枠組みから外れないよう目を光らすのだ。
そうこうしているうちに休み時間はすぎ、俺たちは自分の仕事に戻る。
俺は大量の銀食器磨きに精を出し、やがてレッスンも一段落した時間帯になっていた。
(お茶をお持ちするべきかな……)
命令はないが、普段ならアフタヌーンティーをお出しする頃合いだ。
食堂でとるのか、ベアト様のお部屋で召し上がるのか。それだけがわからなかったので俺は階段を昇り、ベアト様の意見を伺うことにした。
コンコン……
「入れ」
ドアをノックするとベアト様のお返事。俺はゆっくりと扉を開き、入室する。
「そろそろお茶のお時間ですが、どちらでお飲みになりますか?」
丁寧に礼をしながら、頭を上げる。
すると、目の前にベアト様の喜色満面な笑顔があった。
あれほど嫌がっていたレッスンを受けたばかりなのにこの態度はどういうことだ?
「食堂でデュラハンと飲む。美味しいお菓子も用意しておけ」
まるで遠足を待ちわびる子供のような笑み。
詳しい理由はわからないが、デュラハンはベアト様のお心を掴んだのだろう。
そのことだけがはっきりとわかった。
「承知いたしました。それでは後ほど食堂で」
俺がそそくさと退出を告げると、ベアト様はそこに待ったをかけてきた。
「レイ、デュラハンは面白い奴だぞ。堅苦しいマナーや、退屈なイギリス史の話を聞かされると思っていたが、とんでもない。あいつは雑談ではあるけど、最先端の社会主義思想について、いろいろ語ってくれたぞ。特に面白かったのがレーニンの思想だ」
だしぬけに熱弁を振るうベアト様だが、俺は彼女が社会主義思想にかぶれていることを思いだした。どうやらデュラハンはそのツボを完全に捉えたらしい。
しかしレーニンはまずいのではないか。
なんといっても後にロシアの歴史を変える筋金入りの革命家だ。
ただの趣味で終わるならまだしも、こうした思想に本気になってはネヴィル家の行く末が案じられる。俺は許容範囲の広い男だと思っていたが、ものには限度があるのだ。
ゆえにただちにデュラハンを注意しておくべきだと思った。
「ベアト様。それでは後ほど食堂で」
まだ話足りなそうな彼女を置いて、俺は部屋を出た。向かう先はデュラハンの客間だ。
慌てて出たので小走りになる。
ほどなく客間の前に立ち、俺はドアをノックした。室内からは返事があった。
「失礼いたします」
いくら変人とはいえ、客人をないがしろにすることは許されない。
俺は十分な敬意を払いながら、デュラハンの部屋へ滑り込んだ。
「デュラハン様、そろそろお茶のお時間です」
「ああ、執事はん。おおきに」
椅子にゆったりと腰掛け、何かの本を読んでいたデュラハンが俺と目を合わせる。
俺はベアト様に危うい思想を吹き込んだことを注意しようとしたが、先に口を開いたのは彼のほうだった。
「なあ、執事はん。この本読みはりました?」
「どのようなご本でしょう」
「ウラジーミル・レーニンの『何をなすべきか?』ですわ。社会主義運動のあるべき姿を論じた、彼の主著のひとつやねん。ものごっつおもろいで」
俺はレーニンの名前は知っていても、彼の書いた本は読んでいない。
「そんなにメジャーな本なのでしょうか」
デュラハンの語気は鋭い。窘めるはずが、つい相づちを打ってしまった。
「いや、めっさマイナーや。お嬢様に教えるテクストともちゃう。わしが個人的に愛読しているだけや。社会主義思想の傑作としてな」
やはり彼は、自分の傾向を隠そうともしない。
社会主義思想に傾倒しているベアト様、そこへ現れたのは社会主義思想を愛読している家庭教師。乱暴に結びつけると、そこにはある種のケミストリーが生じそうだ。勿論それは、貴族のご令嬢としてマイナスの変化に違いはないが。
「…………」
逡巡した挙句、俺は当初の予定どおり、彼に注意することにした。
なぜならそのようなケミストリーはアルが望むものではないと思えたからだ。
俺はベアト様に仕える以前に、ネヴィル家の執事である。ベアト様という眠れる獅子は、眠ったままにしておくことがベストなのだ。この屋敷の秩序のためにも。
「デュラハン様。社会主義思想は、貴族のお嬢様にふさわしいものではありません。そこは雑談程度にとどめ、偏った思想はできるだけ避けるようにお願いいたします」
そこまで言い、俺はデュラハンに一礼した。暇乞いの合図だ。
けれどもきびすを返そうとする俺に、彼はよく通る声で呼びかけてきた。
「なあ、執事はん……自分、レイはんやったな」
「はい。なんでしょうか」
「自分、転移者なんでっしゃろ?」
それは本当に唐突な問いかけだった。
――転移者。
なぜここでその単語が出る。それは悲劇を知る者にしか理解できないはず。
「…………」
俺は姿勢を崩したまま固まってしまった。
疑問が心を渦巻くが、表面的にはしらばっくれた。
「……どういうことでしょうか」
「とぼけることあらへん。わし、知っとんねん。自分が転移者やってこと」
「一体どうして……」
心のなかの自問自答が、思わず口を突いてしまう。
その反応を見たデュラハンは、髪をかきあげ、満足そうに頷いた。
「ひょっとして、あなたも同じ転移者だというのですか」
「せや。前にこの屋敷に来たヴィンセントって奴、おったろ? あいつから聞いたんや」
ということは目の前の男は、この屋敷に転移者がいるとわかっていたのか。
俺がそう尋ねると、デュラハンは小さく頷き返す。
「ちょうどネヴィル家の人材募集っちゅうもんが新聞に載ってな。ヴィンセントのいったとおりやったわ。転移者は引かれ合う。運命の導きで、わしは臨時雇用されたねん」
(マジかよ……)
クラリック公の執事、ヴィンセントともう一度会うことになるだろうとは思っていたが、その前に彼の仲間と出会うはめになるとは。月の予想は斜め上で当たってしまった。
しかし彼らふたりにいかなる結びつきがあるというのだろう。
「デュラハンさん、あなたとヴィンセントの関係は……」
「わしらか? まあ友達やねん」
「友達?」
「表向きはビジネスパートナーっちゅうやつや。あいつが秘書兼運転手。わし、こう見えて元の世界では銀行家やねん。それが京都の真ん中でど派手な交通事故かましよってな。もうあかん、ガキンチョ轢いてもうたわー、思うたとき、気づいたらこの世界におってん。いまから一年くらい前のことや。それからあいつは屋敷の使用人になり、わしは家庭教師。ほんま落ちぶれたもんやけど、元の世界にいて悲劇を見届ける目に遭うよりか、なんぼかましやった思うわ」
「あなたもあそこで大怪我を?」
「どやろ。わしは後部座席に座っとったさかい。軽傷や思うねんけど」
デュラハンは何気なく言ったが、俺にとっては貴重な情報だった。死んだ人間以外でもこの世界に転移する。俺たちが生きている可能性がわずかに出たからだ。
静かに興奮する俺だが、デュラハンは話題を変えてきた。
「転移したガキんちょがこの屋敷にぎょうさんおるんやろ? なかでもあんたは出世株やヴィンセントがいうとった。なあ、わしと取引せんか」
「取引?」
俺は訝しみながら答えを返す。
「それがあなたの目的ですか?」
「せや。べつに大袈裟な話やない。あんたら轢いたのはわしの運転手や。いわば監督者責任いうもんがわしにはあんねん。元の世界で殺し、こないな世界に転移させたことの最終的な咎はわしが受けなあかん。とはいえ元の世界と違うて、わしはこの世界では一文無しのスコットランド人や。せやから代わりになんぼでも力になったる。ひとり一個だけ、どないな頼みでもわしが聞いたる。どやろ? 悪い話ちゃうと思うねんけど」
会話をかわしてわかってきたことだが、ヴィンセントと違い、デュラハンは自責の念を持っているようだった。言葉の端々に、銀行家という地位に胡座をかかない実直さが感じられる。
俺は考えた。彼に望むとしたら何があるだろうと。
けれど慰謝料なんていらなかった。ほしいのは情報だった。
「デュラハンさん、俺の願いはたったひとつです」
「なんや。なんぼでもいうてみい」
「俺は元の世界に戻る方法を探しています。そしてこの世界にきた人間はみんな元の世界では死んでいるものと理解していました。でもあなたは軽傷で転移した。そうなると事情は変わります。元の世界に戻っても、死とは違う現実が待っているかもしれない」
俺は一気呵成に語っていた。
「そないなふうに思っとったんか。まあ、自然な感情ではあるわな」
両手で髪をかきあげ、デュラハンは静かにいった。
「まあええで。その願いに沿うて努力したるわ。あすのレッスンが終わったあと、自分は休憩時間とかあるやろ」
「はい。あしたはちょうど午後休です」
「ばっちりやんか。そんときもう一度詳しい話聞いたる」
そう言ってデュラハンは立ち上がる。
思えばけっこうな長話になってしまっていた。時間的に、食堂でベアト様がしびれを切らしている頃だ。
「ありがとうございます。では食堂までお越しください」
俺は執事の自分に戻って、部屋を出るデュラハンに丁重な礼をいった。




