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スコットランド人の家庭教師

 頼みもしない出前を頼まれて、席を立てなくなるときがある。


 俺の場合、田舎にある祖父の家に遊びに行ったときがそうだった。散々遊び尽くして、帰りの途につこうというとき、祖父はいつも昼飯の出前を頼んだ。


 きっと祖父としては「もう少し一緒にいたかった」のだろうけど、帰りの駅で駅弁を食べようとしていた俺には文字どおり頼みもしない出前だった。


 祖父の気持ちがわかっているからこそ、無碍に断ることはしなかったが、おかげで遊びにいくたび、俺は出発前、何度となく出前の盛りそばを食うはめになった。


 なんでわざわざそんな話をしたかというと、ちょうど同じめに遭おうとしている方がいたからだ。屋敷の令嬢、ベアト様である。


「ベアト、待ちなさい」


 アル、カーソンと共にビジネス案件でロンドンへ同行するつもりだったベアト様を、屋敷についたばかりのシンシア様が引き止めた。ベアト様にすれば意味不明だっただろう。


「お母様。私はロンドンへ向かうのですが」

「ロンドンは逃げません。私の用件が優先します」

「ベアト、ビジネス旅行は社交界デビューが終わってからにしよう。それまで我慢だ」


 アルもそんなことをいう。ベアト様の立場はますますなくなってしまう。


「でも、お母様、お兄様。私は……」

 強気な彼女は最後まで食い下がる。

 しかしアルは、雪嗣を使いながらカーソンと出発の準備を終え、シンシア様を運んできた車と入れ替えに、シルヴァーゴーストを発進させてしまった。


 それはあっという間の出来事だった。見送りに出た俺は、玄関でぼつんと佇むベアト様の寂しげな背中が不憫でならなかった。


 思うにこの事態、アルとシンシア様が共同で仕組んだことなのだろう。そうと理解できれば、巧みな連携プレーの意味が腑に落ちる。

 問題は、シンシア様がベアト様にいかなる用事があったのかということだ。

 ベアト様も当然、そのことが気になったようだ。


「私を屋敷に釘付けにして、お母様の用件とはなんだ?」

「きょうは家庭教師の方をお呼びしてますのよ」

「家庭教師?」

「ええ。来月にも社交界デビューが迫っているでしょう? いまからでも遅くありません、しかるべき教養をきちっと身につけておく必要があると思ったの」


「そんなこと頼んでないぞ」

「相談したら断ったに決まっています」

「付け焼き刃の教養なんて無意味だ」

「それでもいいのよ。あなたが紳士を遇するレディに相応しい話をできるようになりさえすれば」

「むちゃくちゃだな……」

「あなたは社交界デビューを甘く見すぎです」


 予想通り口喧嘩になったが、言葉の迫力ではシンシア様に軍配があがる。


 おそらくベアト様にも自覚があったのだろう。社交界デビューを控え、自分の置かれた立場が相当崖っぷちであることに。


「わかったよ。その家庭教師とやらはいつここに着くんだ」

「さっそくきょうからお呼びしているの。一緒に屋敷まで来ましたからね」


 なんと用意周到なことか。

 シンシア様が車のほうに向かうと、確かにそこには見慣れない男性がひとり、後部座席に座っていた。彼女が手招きすると、身軽な動作で地上に降り立つ。


 そしてつかつかと俺たちのほうへ歩いてきた。

 ベアト様は腕組みし、背中を向けてしまっている。なので一番先に俺がその家庭教師と向き合う形になってしまった。


「わし、ハーリー・デュラハンいいまんねん。よろしゅう」


 流れるような所作で手を差し出される。


「私はこの屋敷の執事で、レイ・ニラサワと申します。どうぞよろしく」


 初対面の家庭教師と握手をしてしまった。


「ほんで、ここのお嬢様はどちらにおられまんねん」

「すぐそこにおります」

「ほんまでっか!」


 俺がベアト様を指差すと、デュラハンがパッと顔を輝かせ、彼女に近寄った。


「ベアトリスお嬢様。詳しいことはシンシア様から伺ってますわ。一週間の特訓コースやけど、淑女に相応しい知識、教養を身につけられるよう精一杯尽くしますさかい」


 背中を向けたベアト様に深々とお辞儀しをした。

 礼を受けてレディがそれを無視するんは行儀に反する。けれども彼女は我らがベアト様である。細かい行儀作法など無関係とばかりに明後日の方向を向き、

「ベアトリスでもお嬢様でもない。私のことはベアトと呼べ」

「さいでっか。ほんじゃ、そのようにさして貰いますわ、ベアト様」


 もう一度、丁寧に頭を下げるデュラハン。貴族に対する態度としては満点だ。

 唯一気になったのが彼の言葉遣いである。


 俺がそのことを尋ねると、デュラハンは照れくさそうに笑って、

「実はスコットランド出身やねん。現地の訛りが中々抜けんよってな。せやけどわし、語学の教師やないねん。あくまで一般教養を淑女に教えるのが本分ですさかい」

「デュラハンはね、私がそれこそロンドン中を探して見つけたの。評判のいい家庭教師をリサーチ、面接して、ようやく見つけ出した逸材よ。我が家にふさわしい家庭教師です。ベアトもさっそく授業の用意をなさい。この一週間で社交界デビューにかなう教養を是が非でも身につけて頂きます」


 頼まれもしない出前とは、まさしくこのことだろう。

 ベアト様は仏頂面で了承し、昼食までのあいだにまずファーストレッスンを受けることをシンシア様に約束させられていた。

 彼女の望むことでないとはいえ、執事としては是非をいう立場にない。


「お荷物をお運びいたします」

「すまんな、執事はん」


 俺はデュラハンのトランクケースを持ち、客間のひとつに彼を案内した。


「まだベッドメイキングができていませんが、昼までには終えるようにいたしますので、今しばらくお待ちくだされば幸いです」

「べつにええよ、そない気にせんといて」


 スコットランド訛りを全開にさせて、デュラハンは椅子に座り込んだ。


「この椅子、ええ椅子やね。さすが貴族のお屋敷や。調度品も金かかっとる」

「ご授業が始まるまで、お茶でもお淹れいたしましょうか」

「ほんなら貰うわ。ストレートティがええ」

「畏まりました。少々お待ちください」


 俺は客間を抜け、使用人室に戻る。

 そこにはアルとカーソンを送り出した直後の月と雪嗣が休んでいた。

 俺は事情を説明し、月に仕事を頼んだ。


「ベッドメイクですね、わかりました」


 月は二つ返事でオーケーしてくれた。

 そして俺は、この屋敷に起こった緊急事態について告げる。ベアト様の社交界デビューを成功させるべく、家庭教師が来たこと。つまりは唐突な来客があったこと。


「食事はどうするんだ」

 三白眼をつり上げ、尋ねてきたのは雪嗣だ。

「俺たち使用人と一緒というわけにはいかないだろう。貴族と食べることになる」

「一週間もか?」

「ああ」

「まったくのイレギュラーだな。ともあれシンシア様のごり押しでは仕方ない」


 デュラハンの背後にはシンシア様がいる。

 彼をそれなりの扱いで遇しないとならない理由はそこにあった。


「デシャンさんに知らせてくる。昼食をひとり分多く作ってくれとな」


 雪嗣は使用人室を出た。

 最初の頃とは比べものにならないくらい、俺たちの関係はよくなっていた。以前はあの雪嗣とチームプレーができるようになるとは想像さえしていなかったが、いまではごく自然に補い合い、助け合っている。

 急な来客があったが、このぶんでは十分な対処ができそうだ。


 ◆


 デュラハンがお茶を飲み、喫煙室でたばこを一服した後、昼餐が始まった。


「で、ベアト様の社交界デビューはいつなんや?」

「来月――六月です。もう残された時間はないのよ」

「そら、急ごしらえでも何でも、間に合わせなあかんようですな」

 シンシア様とデュラハンが話し込むのをよそに、

「…………」

 ベアト様はしかめっ面。配膳されたパンケーキをナイフでカットし、カリカリに焼けたベーコンエッグと一緒に頬張っている。


 デシャンが入手した、とびきり新鮮な野菜を使ったサラダには目もくれず、同時にシンシア様たちの会話に加わろうともしない。無理やり屋敷に残らされたが、馴れ合うつもりはないとばかりに徹底抗戦の構えだ。


 俺はそのあまりに頑な態度が気になったので、

「ベアト様。私も家庭教師の方をつけるのは賛成です。古い格言にもあるではないですか、備えあれば憂いなしと。本番に備えて模擬を試すのは全てにおいて鉄則かと」

「ふん。レイまでお母様の味方とはな」


 鼻息を鳴らし、そっぽを向かれてしまった。

 その代わり、忠告に回った俺を見て、シンシア様が相好を崩す。


「レイも一人前の執事になったわね。最初の頃はあんなに頼りなかったのに」

 私が育てましたアピールか。面倒なので黙っておく。


「デュラハンはね、こう見えてオックスフォードの出身なのよ。確か専門は……」

「数論やねん。そこから派生して金融工学も修めてまんねん」

「そう……金融なんとか。巡り合わせが悪かっただけで、優秀な研究者なのよ。なにしろこの私が見つけた逸材ですもの。大船に乗った気持ちで全てを委ねなさい」

「……はい」

 シンシア様の熱弁にベアト様は凍り付いた態度をとられる。


(やはり一緒に食事をとった程度では打ち解けないか……)


 打ち解けるもなにも、ベアト様はデュラハンとひと言も会話を交わさないでいる。

 これはよくないと思った俺は、そこで一計を案じることにした。


「デュラハン様。ワインはお好きでしょうか」

「嫌いやない」

「では今すぐ人数分、お持ちいたしましょう」

「いいわね、レイ。とっておきのワインを出しなさい」


 とっておきのワインといえば、ボルドーの当たり年のやつがあったはずだ。

 執事になって以来、カーソンの指導でワインの扱いを学び始めていたので、俺はその瓶がどこにあるか察しがついていた。


「それでは一旦、失礼いたします。雪嗣、ワイングラスを頼む」

「ああ。わかった」


 給仕役の雪嗣に目配せして、俺は食堂を出て、ワインセラーへ向かう。


 そうこうしている間にベアト様とデュラハンが少しでも打ち解ければいいのだが、あの様子を見る限りだと、期待は裏切られることになりそうだ。ならば、変な期待はしないでおくことにする。


 代わりに酒が、二人の舌を滑らかにしてくれるだろう。

 俺はそんな願いを抱きつつ、ボルドーのヴィンテージワインを取り出したのだった。


「シンシア様。ワインをお持ちいたしました」


 食堂に戻った俺は、デキャンタに移したワインを手に持ち、三つのワイングラスに注いでいった。

 アルやカーソンの許可は得ていないが、ここは執事の権限でやったことにしておくこととしよう。あとから怒られても、そう言って逃れよう。


「素晴らしいワインね、高貴な香りだわ」

「これめっさ美味いやん。さすがネヴィル家、ええ酒揃えてまんな」

「……そうか? 大した違いは感じないぞ」

「ベアト様が味わうには、少々大人向けな味わいだったかと」

「レイ、子供扱いするな」


 ベアト様はへそを曲げるが、子供を扱いするなと言われても難しい話だ。こんな上等なワインの真価を味わえないのであれば、酒嫌いか子供かどちらかである。


 結局、ベアト様はワインを残してしまった。代わりにパンケーキは何度もおかわりし、やけ食いの様相を見せていた。やはり子供ではないかと俺は心のなかで思った。


「お粗末さまでした」

 昼餐を食べ終えたデュラハンはこのときばかりは綺麗な発音で礼儀を尽くした。

 そして腕時計をちらりと見て、

「三十分後に最初のレッスンをやりましょうか。わしがベアト様のお部屋にお邪魔するさかい。それでええやろ?」

「……わかった」

 苦りきった顔で答えるベアト様。俺はそれを横目で見ながら、

「お茶の配膳はいかがいたしましょう」

「授業のあとでええ」

「畏まりました」


 デュラハンの要望を聞き終え、食器を下げに食堂を出ようとしたが、そんな俺のお仕着せを掴む誰かの手。振り返ると席を立ち上がったベアト様がいた。


「レイ。ちょっと部屋までこい」

「しかし私には食器を下げる仕事が……」

「それはユキにやらせればいいだろう。これは主人としての命令だ」


 主人はアルだけなのに、という野暮なことはやめておこう。

 俺は仕方なく雪嗣に仕事を頼み、ベアト様の言うまま彼女の自室までついていった。


「あの家庭教師を追い出すようにしろ」


 部屋に入るなり、ベアト様が不条理なことを言い始めた。


「え、追い出すとは?」

「言葉どおりの意味だ。あんな奴と一週間も一緒にいると考えただけで虫唾が走る。きょうのところは甘んじて受けるがそれにも限度がある。できるだけ早いうちに屋敷からご退散願うように計らえ」

「しかしそれでは社交界デビューのレッスンが……」

「そんなものこちらから願い下げだ。レッスンが足りなくなれば、お母様やお兄様も諦めがつくというものだろう。私は社交界など興味がないのだ」


 さてと、困ったことになった。

 ベアト様のなかで社交界デビューの重要性はストップ安らしく、あわよくばぶっちぎる勢いなのはひしひしと伝わってくる。俺はどう対処すべきなのだろう。


「わがままないけません、ベアト様」

 考える間もなかった。俺は即答した。


「おまえもお母様たちの味方なのか?」

 椅子に座ったベアト様が身を乗り出して抗議してくる。


「味方でございます。無論、ベアト様の」

「では問題なかろう。私の命令を忠実にこなせばよい」

「いいえ。私はベアト様の味方であればこそ、社交界デビューは成功して頂きたいと考えております」


 社交界デビューの重要性は何度となく耳にしてきた。でも俺はその型にはまった生き方を強いるつもりはない。むしろその逆だ。


「ベアト様、こう考えてみてはいかがでしょう。社交界デビューという厄介ごとさえ乗り切ってしまえば、そのあとに自由が待ち構えていると。シンシア様、アルバート様の意向を無視してそれを反故にするほうが、後々の自由度を狭める可能性は高まると」

「ふむ……」


 ここでようやくベアト様に言葉が届いたようだった。


「恐れながらベアト様は、貴族という名の牢屋に閉じ込められた囚人のような立場かと。しかしそこで美しい舞を踊れば牢を出られるのです。踊りを拒否すれば、これまでどおり牢に囚われたままです。どちらが賢明な選択でしょう?」

「むむむ……」


 例え話がよかったようだ。ベアト様は必死に考え込んでいた。


 俺とて彼女の生き方をないがしろにしたいとは思っていない。どちらかといえば、応援したいと思っている。だからこそ一時の不愉快をのみ込むべきだ。俺はその一心で彼女の心変わりを願ったのだった。


「わかった、レイ。おまえのいうとおりだ」


 鍵穴に差し込んだキーが綺麗に回った音がした。


「臨時の家庭教師などうざったい限りだが、どうせ拒んでも社交界デビューまで無数のプレッシャーを受けるのだろう。ならこの一週間だけ辛抱してやる。これは自分で決めたのではないぞ、おまえに唆されて決めたことだからな。途中でひどいめにあったらおまえの責任だぞ」

「勿論、それで結構でございます」


 俺はベアト様の勇気ある発言に打たれて、平伏しきった態度をとった。


「つきましてはデュラハン様をこちらへお連れいたします。二人きりになりますが、何かご要望があればいつでもベルをお鳴らしください。すぐにでも飛んでまいります」

「飛んでこい、飛行機でな」


 最後は冗談をいう余裕さえあった。

 これでこそ我がお嬢様。散々わがままは言ったが、一度覚悟を決めれば、迷いを完全に断ち切った顔をなされる。俺はそのことが自分のことのように嬉しく思えた。

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