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スペンサー将軍の陰謀

 大金を手にした人間の笑みは醜いだろうか? それとも晴れやかだろうか?

 正解はどちらも違う。

 大金を手にするとひとは、胃の縮むような緊張に襲われる。その苦しみを十分に咀嚼したあと、ようやく実感がわく。自分がとんでもない幸福に浸っていることに。


 スペンサー将軍の場合もそうだった。

 アルたちを見送ったあと、彼は院長室に戻り、アルの渡した小切手を手にした。

 そこには、将軍の年収の何百倍もの金額が書き込まれている。


 ――アイルランドの反独立派義勇軍を支援するための金。


 名目はそうだった。しかし将軍は、その金から彼のマージンを抜く算段である。仲介役としての役得を得ないで何のための極秘支援だろうか。軍では金の処理はいちいち主計に届け出る義務があるが、これは私的なやり取り。彼は望むだけの大金を自分の懐に入れることができた。


 金を手にした緊張は、次第に喜びに変わる。

 そして心が落ち着くと、金の使い道が頭をよぎってくる。


(将来は、ロンドンに私邸を購入しようか……)


 院長室のドアがノックされたのは、将軍がまさに幸せに包まれている最中だった。

「入れ」

 将軍の応えを受け、ドアが開かれる。

 入室してきたのは、副院長のロイ・バーンズだった。


「ネヴィル卿とのご会談、首尾よくいったようですね」


 将軍の笑みを見て、彼は高くよく通る声で第一声を発した。

「ああ。パーフェクトだよ」

 将軍は小切手をひらひらさせ、喜色を浮かべながらバーンズに応えた。


「これでおたくの主人も満足だろう」


 バーンズの主人。それはクラリック公のことである。

 孤児院はネヴィル家とクラリック家の共同経営ということになっている。経営に熱心なのはもっぱらネヴィル家のほうだが、クラリック家は自分の従者を副院長として送り込んでいた。金は出さないが、ポストは得ようとする浅ましさが感じられるエピソードだが、無論彼らにそれを恥じる気持ちはない。


「つきましては、将軍。その金はどのように処理されるおつもりでしょうか」


 バーンズは金の出入りを管理している。当然、将軍がいくらか金を抜くことも承知済みのことだ。彼が訊いているのは残りの金の使い道だ。


「フン、義勇軍に渡すと思ったか?」


 ふたりは金の使い道を理解している。だからこれは問答ではなく、結果のわかっている事柄の再確認なのだった。


「金は共和国軍に突っ込む。これで軍から横流しした武器弾薬を購入できるだろう。アイルランドでは派手にやって貰わんと困る。簡単に鎮圧されては意味がないからな」


 もしもアルがこの場にいたら卒倒しただろう。

 自分の提供した資金を、よりにもよって敵側に渡すというのだから。しかしそこまで肩入れする理由がわからない。答えを口にしたのはバーンズだった。


「これでクラリック公の要望に応えられますね。しかも満額回答で」


 バーンズはアイルランド人だった。ゆえに共和国軍を支援すると聞いて、道理に反していると思う逡巡など皆無だった。

 そんなバーンズを見やり、将軍はひげを動かし口の端をつり上げた。


「ネヴィル家の小僧は、公を始めとする我々の本気を理解していないようだったからな。真に味方とわからない限り、金を渡してはならんということだ」


 自分たちが悪事を働いておいてなんたる傲慢さか。将軍の言いぶりは盗人猛々しいものだった。


「これで全ては彼の描いた絵のとおりになった。彼は本当にすぐれた策略家だよ」

「彼とは、ヴィンセントのことですか」

「そうだ。もし軍にいたら立派な参謀になったことだろう。クラリック公もいい拾い物をしたもんだ」

 そういって将軍は、くつくつと低い声で笑いを堪えるのだった。


「公はよほどあの執事を信頼していようですね」

 バーンズの相づちに、将軍は大きく頷き返す。

「私が公でもそうするさ。壮大なビジョン、綿密な戦略。どれをとっても我々では及びもつかないものだ。今、このブリタニアは彼の手のひらの上で踊っている」


 将軍にここまで言わせるヴィンセントとはどういう人物なのだろう。

 バーンズは二回ほどしか会ったことがない。ゆえに人となりをよく知らない。

 彼がそのことを尋ねると、将軍はあごに手をやり、こう答えた。


「策士ではあるが、忠誠心に溢れた男だよ。公の野心は木彫りの狼のようなものだった。そこに魂を吹き込んだのがヴィンセントだ」


 よほどすぐれた人物なのだろう。

 バーンズが心のうちでそう考えると、将軍は話に言葉を継いだ。


「彼は、みずからのビジョンを『歴史の糸を解きほぐす』といっていた。一本の糸に見えた歴史を、無数の束の集りに変えること。王室の権威を始め、一見盤石に見えるイギリス社会を混沌の渦に落とすのが変化の合図となるだろう。それもこれもヴィンセントが絵を描き、クラリック公がそれを支え、私が武器を用意し、必要な金はネヴィル卿から出させた。いまこの瞬間、一枚の絵がいききと動きだそうとしているのだ」

「アイルランドは暴動になるでしょうか」

「暴動だけで留まらぬ。内戦になるだろう。私の提供する武器でな」


 自信を笑みに変え、将軍のおしゃべりは止まらない。


「ヴィンセントの弁によれば、遠からずイギリスは戦争に巻き込まれるという。確かにドイツとの交渉は暗礁に乗り上げており、その可能性は高いだろう。しかしその戦火は、外国との戦争に留まらぬ影響を我々に与える。ヴィンセントが描いた絵とは、風の強い日を選び、枯れ草に火を放つようなものだ。火は燎原を灼き尽くす炎となり、王室の権威を揺さぶるだろう。彼がめざすもの――それはいわば革命だ」

「……革命ですか?」


 バーンズは耳慣れない言葉におうむ返しになってしまう。


「そうだ。革命には二種類ある。ブルジョワ革命と、プロレタリア革命。マルクスは労働者による後者を説いたが、いまのイギリスに必要なのは前者の革命を完遂することだ」


 将軍はきな臭い話題だと思ったのか、さすがに声のトーンを抑える。


「ドイツとの戦争が始まれば、国民は反戦ムードに染まるだろう。勿論、表向きは戦争遂行のため、一致団結せよと考える。しかし本音では、戦争のもたらす悲劇に厭戦感が広がるはずだ。ヴィンセントの目論みでは、そこに火を放ってやればいい。実行するのは公爵だ。反戦を訴え、大衆の支持を得る。そして私財を投じて革命運動を支援する。勿論そのとき必要な金の何割かはネヴィル卿に負担して貰うがな」


 バーンズの理解では、クラリック公は首相になりたいのだと思っていた。けれども将軍の話を聞けば聞くほど、その考えは覆される。彼の本当の狙いとは――。


「ひょっとして公は王になろうとしているのですか?」

「違うよ、バーンズ。公は大衆の支持のもと、民主的に指導者の座に就くつもりだ。その手続きこそ選挙でないだけで、フランス革命もそうやって権力と権威を王から奪ったし、クロムウェルも革命後に護国卿に就いた」


 将軍の発言を聞き、バーンズは興奮していた。

 彼にはアイルランド人として以上の政治的信条はない。ただクラリック公に仕え、彼が望むことを忠実にこなすことが自分の使命だと思っていた。そのことをよく理解しているから、将軍も内密な話を、彼に語ってみせたのだ。

 自分の主人がこの国に君臨する日は近い。そのことがもたらす感慨はいかほどか。バーンズは顔を赤くして将軍の話にいちいち頷き返す。


「素晴らしい、素晴らしいです。将軍」

「バーンズ。おまえの理解を得られて私も嬉しいよ」


 そこまでいって、将軍はバーンズにこんな指示を出した。


「孤児院の副院長は、近いうち男手を別途雇用する。おまえはアイルランドの共和国軍に潜り込み、武装蜂起を支援しろ。アイルランド人のおまえには望むところだろう」

「そこまで慮って頂けるとは、感謝以外に言葉がありません」


 将軍の言葉は公の言葉。それほどスペンサーとクラリック、ヴィンセントの三人は固く揺るぎがたい絆で結ばれていた。バーンズもそのことをよく理解しているからこそ、頭を深く垂れ、恭しくお辞儀をしたのだった。


「それにしてもネヴィル卿だな。我々の動きを知らず、金だけ供出させられる惨めさよ。そして自分の屋敷にスパイを送り込まれていることを毛の先ほども疑っておらん。彼のような貴族こそ、まっさきに打倒されるのだ」

「――御意」


 バーンズはもう一度、頭を下げる。それは忠誠の証だった。そんな彼の胸のうちには、一方的に弄ばれるネヴィル卿を憐れむ気持ちなど暖炉の灰ほどにもなかった。

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