小旅行と夢と謎
俺は夢を見ていた。
修学旅行前の教室。窓からは夕日が差していた。
俺は自分を呼び出した相手の顔を見ようとする。しかしこちらを振り向いた顔は、逆光になって視認できない。なぜかその、姿かたちさえも。
「…………」
そいつは何かを口にした。けれど聞こえない。正確には覚えていない。
けれど思いだす。これは告白の場面だ。俺が被った最大の喪失。
胸が高鳴っていた。誰かに告白されるなんて初めてのことだったから。
ついで俺は、周囲をぐるりと見回してしまう。クラスの奴が仕掛けたどっきりではないかと思ったからだ。あいつらならやりかねない。ぼっちいじりはあいつらの娯楽だ。
けれど誰もいない。教室と廊下には夏風のような静寂がおりている。
校庭から部活動の声が遠く響いてくる。それだけが唯一の音となる。
「…………」
そいつは何かを呟き、俺のほうへ歩いてくる。
俺は恥ずかしさのあまり、逃げ出したくなった。これは現実ではない。夢のなかの出来事なのだ。そう自分に言い聞かせ、気づけば後じさりを始めている。
だが、すぐに背中が壁にぶちあたる。逃げられない。
「…………」
そいつもそれ以上、距離をつめない。かろうじて声が届く距離で立ち尽くしている。
俺は告白の事実は覚えている。けれどその相手と、告白のときの言葉は喪失している。
だから聞こえない。見えない。全ては逆光の陰に隠されてしまう。
やがて視界が混濁となる。渦に巻き込まれ、全てが溶けていく。
「…………」
目を覚ましたとき、俺は乗用車の後部座席にいた。
小さいうめき声をあげてしまった気がする。隣を見ると、アルがいた。
「大丈夫かい、玲?」
「申し訳ありません、ご主人様」
視線の前方には、運転席に座ったバークマンがいる。俺はアルと二人きりではないため、丁寧な敬語で話す。そして自分の置かれた状況を思いだす。
俺たちは、アルがクラリック公と共同経営している孤児院に向かっているのだった。
孤児院は、アルの資金提供によって改修が進んでいるという。具体的にいうと、古い建物の改築と、新たな施設の増築。主な資金提供者はアルだけ。クラリック公は孤児院の経営に熱心ではないらしい。先代の事業を仕方なく継いだのだろうとアルはいっていた。
「…………」
それきり俺もアルも黙ってしまうが、重たい沈黙を嫌ったのか、アルが世間話といったふうに雑談を始めた。
「今回の視察は改修が予定どおり進んでいるかチェックするのが目的だ。現場は生き物だからね。誰かが統率しないと費用はすぐに膨らむ。金を惜しむ気はないけれど、無駄が生じることは避けたい。それに院長はその手の専門家ではない。わざわざぼくが出向くのはそうする人間が他に誰もいないからだ」
やや大きな声で話す。運転手のバークマンにも聞かせるつもりだったのだろう。
孤児院までの距離はロンドンに行くより近いが、それでも結構な道のりだ。
アルなりの気遣いなのだろう。そのことは従者に選ばれた俺にも感じ取れた。
「孤児院の院長はどういうお方なのですか?」
俺はその雑談の延長に、疑問を投げかけてみた。
「スペンサー将軍という退役准将だよ。先代の頃から付き合いのある人でね。面倒見がよく、子供好きな性格を見込んで退役後、院長になって貰ったらしい」
なるほど。一種の天下りか。
元の世界もこの世界も、やることは大して変わりないらしい。
ところでこの視察だが、通例ではカーソンが同行していたという。しかし彼はドイツの機械メーカーへの出資が大詰めになっているため、彼の地へビジネス旅行に出かけた。
代わりにお鉢が回ってきたのがこの俺、という案配である。
その道中、俺は日頃の疲れが祟り、主人であるアルの前で居眠りをしてしまったわけだ。
執事らしからぬ粗相に申し訳なさを覚えるも、俺はこんなふうに感じてもいた。
(ひょっとしたら、この夢は記憶が戻ろうとしている証拠なのではないか……?)
記憶がどういう仕組みか専門的なことはわからない。けれどそれは、湖の底深く眠っているようなものではなく、絶えずダイナミックに流動しているもののように思えた。
そのうねりがああいう夢になる。失った記憶の断片として。
静かに想像力を働かせる俺だが、やがてその思考は小さな壁に行き当たる。
(そういやアルの奴。どうして無くした記憶が戻ってこないんだろう……?)
俺はこれまで月、雪嗣、紫音の記憶を取り戻してきた。そのきっかけは、あいつらの窮地を救ってきたからだ。
その道理でいうなら、俺はネヴィル家の窮地を何度か救ってきたように思う。
タバコ入れの一件しかり、ダイヤが盗まれた件しかり。けれどアルは記憶を取り戻したそぶりさえ見せない。家の窮地を救った程度では不完全だとでもいうように。
仲間のなかで残した記憶の欠片は自分とアルだけ。そしてこの手の話は、まだ月以外の奴とはしたことがない。だが俺はおのれの思考を持て余し、彼に小声で囁きかけた。
「なあ、アル。なくした記憶の話を覚えているか?」
以前に尋ねたときは、記憶をなくしたこと自体が曖昧だった。今回はどうだろうか。
「…………」
俺の疑問にしばし考え込んだ様子のアルだが、バークマンが運転に集中しているのを確かめ、運転席との間に遮蔽シートをおろした。これで声が漏れる心配はない。実質的に、俺とアルはふたりきりとなった。
そんな状態となってようやく、アルは俺のほうに体を傾けながら、耳許でこう呟いた。
「前にもいったよね。ぼくはどの記憶を失ったか、自分でもよくわからないんだ」
「でも、アル。俺たちがこの世界に来たこと――つまり転移だが、転移した奴らはおまえ以外、全員記憶を失っていて、それを取り戻したんだぞ」
ルールが共通なら、アルも同じ状態に陥っているはず。
「それにおまえはこの世界に来て何かを失っている。そのせいで、元の世界のおまえとは別人になっている」
「なるほど」
俺の問いかけに小さく答えるアル。
「でもそんなふうに誰かに見て貰わないと、ぼくは自分を客観視できないんだ。ちなみにぼくはどんなふうに変わったというんだい?」
「筋金入りの貴族になった。勝手な決めつけかもしれないけど、元の世界のおまえはもうちょっと生っちろい奴だった」
「あはは、外からはそう見えるんだ」
アルは小鳥のような笑い声をたてる。
けれども記憶の回復は元の世界に戻る鍵だ。その見立てを知っておいてほしくて、俺はアルにこれまでの自分の行動について話した。
「おまえ以外の奴、月、雪嗣、紫音の三人は、全員記憶を取り戻した。きっかけは俺がみんなの窮地を救ったからだ。そしてその記憶の回復は、俺たちが元の世界に戻る鍵じゃないかと思っている。なぜなら記憶の喪失は、この世界に来た証として起こるものだからだ」
仲間たちの起こった変化を逆向きにすれば、世界が変わるかもしれない。
この奇妙に現実的な転移世界の歯車を、逆ベクトルに動かせるかもしれない。
主張は複雑だが、俺は噛んで含めるように話した。
それに対するアルの反応は淡白なものだった。
「元の世界に戻る鍵か。でもね、玲君。ぼくはそれを望んではいないよ」
「望んでない?」
「そういうこと。ぼくはこの世界に満足している。貴族という責任ある立場に順応して、屋敷を統治している。元の世界に戻っても、ぼくらはただの高校生だ」
ただの高校生に戻るつもりはない。
それは俺が一瞬たりとも考えたことのない発想だった。
俺はなぜか原状回復を是とし、アルは自然に否を突きつけてきた。
「だいいち、ぼくらはあの事故で死んでしまったんだ。その記憶はいまでも生々しいものだよ。自分が死にゆく世界に戻って何が嬉しいんだい? ひょっとすると玲君は違うのかもしれないけど、ぼくは元の世界に未練はない」
なるほど。未練の差か。
どうやら俺は勝手に思い込んでいたようだ。元の世界に戻ることはよいことだと。
そして未練を持っていたのだ。孤独を愛したぼっち生活と、唯一の絆であった家族とのつながりに。たとえ自分が死ぬとしても、せめて家族にさよならは言いたかった。
けれどもアルは逆だ。彼は元の世界に一切の未練がないという。
「アル。なぜおまえは元の世界に未練がないんだ?」
疑問を口にした。アルはしばし黙りこくったあと、
「具体的な何かがあるわけじゃないんだ。ただ、抵抗と確信があるんだ。元の世界に戻っても、ぼくは幸せにはなれないという抵抗が。記憶が戻っても、いまの自分でいられなくなるという確信が。でも幸せなら、いまここにあるんだよ」
そういってアルは自分の胸のあたりをぎゅっと掴む。
道理の問題でいえば、アルの理屈はかなり完結している。他人の俺が、どうこう言える立場にない。
「わかった。無理強いはしない。ただ、記憶が戻ったら教えてくれないか」
「うん。それは約束しよう」
俺とアルの会話は平行線を辿ったが、収穫はあったといえよう。
とはいえもっぱら、感化されたのは俺のほうだ。元の世界に戻ることが、自分たちの幸せを意味するわけではない。ひょっとすれば逆かもしれない。だとすれば、この世界で生きるほうが遙かにましである。その言葉は俺の見立てをぐらぐらと揺さぶった。
それから二時間ほど経った。
俺たちはふたたび黙り込み、シルヴァーゴーストは悪路をひた走った。
到着した孤児院は、広い敷地をもった屋敷のミニチュアみたいだった。土地だけはあり余っていたのだろうと察せられる。
改修工事は進んでいるようで、専門の技師と労働者が何人も働いていた。
俺たちが敷地に降りると、そこには三人の職員が待ち構えていた。
「ネヴィル卿、ようこそ」
握手で出迎えたのはひげの大男。
「スペンサー将軍こそ、お元気そうで何よりです」
ついで挨拶をしてきたのはひょろりとした眼鏡の男性と若い女性だった。
「ネヴィル卿、遠路はるばるお疲れ様でした」
握手の後、アルは三人に俺を紹介した。
「彼は我が家の執事を務めているレイ・ニラサワ。こちらの職員は、院長のスペンサー将軍、副院長のバーンズ、保育士兼メイドのエレン」
「よろしくお願いします、皆さん」
俺は三人を前に、深々とお辞儀をした。
特にスペンサー将軍は社会的地位が高い方のように感じられたので、貴族を相手にするような慎重さをこめて頭を下げた。
「見たところ若そうなのに、執事とは大した出世ですな」
三人を代表して、スペンサー将軍は相好を崩した。子供好きといっていたし、見た目も動物の熊のよう。きっと想像以上に好人物なのだろう。軍人出身とは思えないほど、彼の当たりはソフトだった。
「アルバート様、私は一旦お屋敷に戻ります。本日はお泊りになられますか」
「日帰りの予定だ。夜に迎えにきてくれ」
「御意」
影のように付き従っていたバークマンが、シルヴァーゴーストを発進させる。
それを見送ったあと、スペンサー将軍がアルのほうを振り向いた。
「さあ、ネヴィル卿。きょうは子供たちが歓迎会を準備しております。改修工事の視察のあとは彼ら彼女らの発表を楽しみにしてくだされ」
「それは予想していなかった。嬉しい誤算だね」
淡白にいったアルだが、きっと頭は改修工事のほうに傾いているのだろう。
「将軍。早速ですが責任者の技師を連れてきてください」
口をついたのは仕事の話だった。
「うむ、承知した」
巨体を揺らしてスペンサー将軍が駆けていった。
「行こうか、玲君」
「御意」
もっとも執事である俺も、オマケでついてきたわけではない。
「ご主人様、こちらを」
携帯したカバンから工程表を取り出し、工事責任者がいるほうへアルと共に歩きだしていった。




