終わらぬ虐待
ジョーンズの指示どおり、さっそく俺は燕尾服に着替え、仕事の準備にとりかかった。
ちなみにジョーンズによれば、男性使用人に支給される燕尾服は、燕尾服ではなく、正確には“お仕着せ”と呼ぶらしい。
ご主人様にお仕着せられるものだからだろうか? 理由はよくわからない。
ともあれ俺は使用人の格好に身を改めたのだ。
ジョーンズに連れられ、向かった先はこじんまりとした部屋だった。
扉をくぐると、部屋を埋めつくす銀色の食器が俺を出迎えた。
「ここにある銀食器を磨いて貰う。使うのはこの布だ。鏡のように顔が映るまで磨きあげろ。そして手早くやれ」
ジョーンズに渡されたのは柔らかく目の細かいシルクの布。
皿を一枚手に取ると、洗ったあとが水あかとなって付着している。
これをきれいに磨きあげろというわけか。
「銀食器磨きは執事の基本だ。下僕のおまえにとってはスタート地点でもある。これができなければ、使用人失格だぞ。よし、はじめ!」
ジョーンズの声を合図に、シルクの布を片手に俺は食器を磨き始めた。
きゅっきゅっと丹念に磨く。丁寧にだ。
順調な滑り出しに、ふいに俺たち転移者のことが頭をよぎる。
この屋敷に来てからの月。空気を読めない彼女の欠落。
そして俺たちがふたりとも、なにかしら記憶を失っていること。
あてずっぽうではあるが、そこには共通のルールがあるような気がしていた。
たとえばこう考えてみよう。
記憶の喪失とともに、自己の一部が欠落しているのではないか、と。
もしかしたら俺も元々の自分らしさを失っているのかもしれない。外から自分自身を見られないからそのことに気づけてないだけで。
そんな思考を巡らしながら銀食器を黙々と磨いていると、
「上の空で作業をするな」
背後に立つジョーンズにどやされてしまった。
「手早くやれといったろ。おまえの仕事はのろすぎる。速度をあげろ」
「御意」
ぼんやりしていたのは確かなので、俺は手を動かすスピードを上げた。
一枚、二枚と磨き込み、1ダースほど片づけていくが、スピーディかつ丁寧に磨き続けていたため、少々右腕が痺れてきた。なので作業の合間に小さく息をついたのだが、
「休むんじゃない、もたもたするな!」
またしてもどやされる。今度は背中に軽いグーパンチを食らう。
動きを止めることさえ許されないらしい。
俺は円を描くようにシルクの布を動かしながら、
「ジョーンズさん、あと何枚磨けばいいんでしょうか?」
最も気がかりなことを尋ねた。部屋には数え切れないほどの食器がある。
まさかこれら全てを磨くはめになるとは思えない。思いたくない。
「銀食器の皿は1ダースが5セット、六十枚。それとナイフ、フォーク、スプーンをそれぞれ2ダースだ」
やや怒鳴り気味にジョーンズが答えた。
(まじか……)
気が遠くなるほどの作業量が残っていることがわかったが、スピードと丁寧さを両立させることは難しく、手早く片づけることに注力していると、今度はミスが出た。
「水あかが拭えてないぞ。手抜きをするな!」
磨き終えた皿を突っ返されてしまう。
手抜きをしたつもりはなかったが、確かにわずかな汚れが残っていた。文字通り鏡のようにぴかぴかに磨きあげねばジョーンズは納得しないらしい。
やむをえず俺は、本気を出すことにした。
(うおおお……!!)
手を動かすスピードはそのままに、皿に押しつける圧力を上げ、水あか汚れの一つひとつに布を走らせていく。
同時に、自分の手垢がつかないよう、気をつける。
作業は未体験ゾーンに突入するが、これならジョーンズも納得の出来となるだろう。
だが、その慢心が更なるミスを生んでしまった。
「しまった!」
動揺して声を上げる俺。
作業スピードを上げたせいで、銀食器に爪で傷を付けてしまったのだ。
「申し訳ありません、ジョーンズさん!」
すぐさま俺は謝ったが、ジョーンズの顔はみるみる赤くなっていった。
「馬鹿野郎! 調子に乗ってるからだ、このグズ!」
振り返った俺の腹部に力のこもったパンチが炸裂した。
みぞおちに食い込むその一撃に、俺は「げぇ……!」と潰れたカエルのような声を上げてしまった。当然頭にきた。怒りのこもった目でジョーンズを見上げる。
「不満そうだな、レイ。だが俺は容赦しないぞ。本当は顔面を殴り飛ばしてやりたいところだが、顔を傷つけることはご主人様の私物を傷つけるのと同義だからな。腹パンチで勘弁しといてやる」
そういって嫌みったらしい顔つきになったジョーンズは、もう一度、俺の腹部にボディブローを見舞った。
「殴られたくなければ、きれいに手早く磨け。それができないうちは、下僕として給料を貰うに値しない」
みぞおちの痛みを抑えながら、俺はその指示に従う。にたにた笑うジョーンズに殺意を覚えたが、いくら頭にきたからといって、俺は下っ端。逆らっていいことは何もない。この場の空気は俺に冷静を強いていた。
(くそぅ、ジョーンズの野郎、いつか見てろよ……吠え面かかせてやる)
心の中で呪詛を呟くが、この一件は地獄の幕開けにすぎなかった。
◆
翌日、銀食器磨きという自分の仕事を終えた後、ジョーンズに休憩を与えられ、使用人室へ向かうべく、小ホール前の廊下を通りかかった。
そこで、玄関へ向かう月が目に入った。挨拶とばかりに声をかけてみる。
「よう、おまえは何をやってんだ?」
「あ、玲さん」
水の入ったバケツを持ち、月がとことこ歩いてくる。
「玄関の床石磨きです。これがなかなか終わらなくて」
「手伝ってやろうか?」
「そんな、悪いですよ」
「気にすんなって。俺はこれから休憩だから暇なんだ」
突然過酷な労働に落とし込まれた月に同情したのだろう。
俺は自分としてはイレギュラーなことに、彼女の手伝いを申し出た。
「はい、これ玲さんのです」
俺のぶんのブラシを取りにいった月が戻ってきた。
広い玄関に出ると、御影石の床石の三分の一ほどが水に濡れているおり、見たところあと半分以上、磨く箇所が残っていた。それにしても豪奢な屋敷だけあって、玄関のスペースもだだっ広く、女の子の月がこれを全部磨くのは体力的に重労働だろう。
「本当によかったんですか、玲さん」
「気にするな。こう見えて体力には自信があるんだ」
ブラシに磨き粉をつけ、銀食器同様、円を描くように磨く。
ジョーンズのスパルタ式教育の甲斐あって、床石を磨く俺の動作はなかなかのものだったと思う。
「玲さん、磨くの上手ですね」
「きのう、散々殴られたからな。そのおかげだよ」
ともあれ、作業効率が二倍になった効果は大きかった。
「あっという間に終わりそうですね、助かりました」
「べつに礼をいわれるようなことじゃない」
俺も月も、訳もわからずこの境遇に身を置かれた者同士。
ぼっちの俺にしては珍しく他人の領域に介入するような真似をしたのも、協力しあえることなら、ためらいなく力を貸してやりたいと思ったからだ。
そうして無事、作業を終え、道具を片づけに小ホールの前を通ったときだった。
「待て、レイ。どうしておまえがメイドの手伝いをしている?」
前方から歩いてきたジョーンズが、俺たちのほうへ駆け寄ってくる。
「月が大変そうなので手伝ってやりました」
「余計な真似しやがって。各々の領分を犯しちゃならないんだよ。このグズが!」
昨日同様、腹部に体重の乗った一撃をくらった。膝から崩れ落ちる俺。
「玲さん!」
それを見た月が大声を上げ、俺の肩に手をかけてきた。
「ルナ! 貴様もレイに手伝わせて、どういう神経をしている。自分ひとりの力でやり抜かなくて何のためのメイドだ。そういうのを給料泥棒というんだぞ」
さすがに月には手をあげなかったが、ジョーンズは、月の上司であるフレミングさんにきつく言い含めておくと宣言した。きっと彼女も罰を受けるのだろう。
「すみません、ジョーンズさん。でも悪いのは俺だけです。月のほうから頼んできたわけではないので。彼女は勘弁してやってください」
「何かといえばルナルナとずいぶん親しいんだな、おまえたち?」
目を細めたジョーンズは、嗜虐的な顔つきになって俺たちふたりを見比べた。
「では望みどおり、レイにだけ罰をくだそう。それで文句はあるまい」
この野郎、明らかに俺を苦しめるのを愉しんでいる表情だ。
「やめてください、罰は私も受けます」
「これは俺が言いだしたことだ。月が罰を受ける理由はない」
「ごちゃごちゃ揉めるな。レイ、おまえにはとっておきの罰をやるよ」
その晩、俺はとっておきの罰とやらをくらった。
玄関の前に立ち、バケツを両手に持って立哨をさせられたのだ。
なんでもこの辺りに野犬がうろついているらしく、それを追い払うために寝ずの番をしろというのがジョーンズがくだした命令だった。
感想はひとつきり。とにかく寒い。
寒空に体が凍りつく。一度きりならまだしも、こんなことを何度もくり返されては本当に死んでしまうかもしれない。
俺はこの世界を転移した場所か、あるいは夢の世界かと思い悩んでいたが、たとえ同じ夢だとしてもこれは悪夢。早く醒めてくれと心の中で泣き言をいいそうになる。
しかしきのう、きょうのやり取りでわかったことがあった。
どうやら俺はジョーンズに嫌われているのだろう。間違いない。
失敗するたびに暴力を振るわれ。これはいわゆる虐待というやつではないか。
「ジョーンズの野郎、上役だからって、なめやがって……はっくしょん!」
寒さをはねのけるべく、とにかく怒りの熱で体を温めた。
自分がこんなにも感情的な人間だったとは、学校生活における全てのことを超適当にやりすごしていたぼっち生活からは想像もつかない。それがいい傾向なのかもわからない。
「とにかく耐えてやる。そうすれば奴も俺のことを認めざるをえなくなるはずだ」
思えば中学の頃のいじめのほうが、ジョーンズのしごきより精神的にはきつかった。
大丈夫。そのぶん、まだ心の余裕がある。
思考をポジティブに切り替え、俺はポケットに入れたスマートフォンをお仕着せの上から握りしめ、凍てつく夜空を仰ぎ見たのだった。