もう一人の転移者
翌朝。屋敷に泊まった貴族たちはバラバラに起床してくる。
食堂にまとまって揃わないので、朝食の給仕はいつもの倍近く面倒なことになった。
俺は朝食のサンドイッチを取りに、キッチンへ入る。
そこには同じく給仕役のカーソン、雪嗣のほか、月までかり出されている。
「おまえにまで迷惑かけてすまないな」
俺は執事なので、ねぎらいの言葉をかけるのも仕事のうちだと思っている。
「このくらい平気ですよ、玲さん」
そう頼もしくいって、月は食堂へお茶を運んでいく。
ちなみに俺たちを含めた貴族の使用人連中の朝食はもう済んでいる。その代わり食事は立派なものとはいえない。パンとチーズをかじったきりだ。それがこの世界の常識。
(俺もサンドイッチ食べたかったな……)
なんてことを上の空で考えていると、料理補助の紫音と目が合った。
彼女はサンドイッチをカットしている。その手が止まり、紫音はフリーズした。
でもそれは一瞬のことだった。彼女は手元の包丁に視線を戻す。
あれだけ率直に心情を吐露したのだ。きっと恥ずかしさがまさったのだろう。
紫音を見つめながら、くすりと笑いがこみ上げてきた。
「…………」
俺はふたたび仕事に意識を戻し、磨き上げられた配膳皿を手に歩き出そうとする。
するとキッチンの入り口で月と鉢合う。
彼女はにまにまと微笑を浮かべていた。何がそんなに面白いというのか。
「どうした、月?」
俺のセリフに彼女は一層微笑を深めていく。それは最後に声となった。
「いえいえ、べつにー。玲さんが紫音をじっと見つめてるなんて珍しいなー、なんてことまったく思ってないです」
そのからかうような微笑に、俺は自分の失態を感じとった。
自分のなかでは一瞬でも、相当長いあいだ紫音のことを凝視しちまったのだ。
「きのうも仲良く手を握って踊ってましたし、なにかあったんでしょうかねー?」
配膳皿を手に、月が俺の顔をのぞき込んでくる。完全に楽しんでいる顔だ。
「特になにもねぇよ。紫音の記憶を取り戻しただけだ」
俺は小声で呟く。月は事情を知っているので静かに息を吐いた。
「おら、怠けてんな、ガキども」
そんな俺たちを、配膳を終えたカーソンが後ろからどやしつけた。
「…………」
俺は紫音が切り終えたサンドイッチ皿を持ち、彼女をもう一度見つめてしまう。
「早く持ってけよ」
それはぶっきらぼうな態度。この世界に来てから身につけたハイテンションとは無縁の、まるで不良娘だった頃のような口調。
雪嗣は変化自体が小さかったため、元に戻ったときの変化もわずかだったが、紫音は変化が大きかったので、欠落を埋めたときの反動も大きかったのだろう。
ハイテンションな彼女に未練はあったけど、記憶を取り戻すほうが大事だ。俺はそんなふうに考えながら、ぼっち力を回復させた紫音を受け止めようとしたのだった。
けれどそれは、俺の思い違いだったらしい。
配膳を終えキッチンに戻ってくると、次のサンドイッチを準備した紫音が、
「玲。あんまよそよそしくするなよ」
蚊の鳴くような声で、彼女は俺を見つめてきた。
この距離感の近さは、以前にも、転移後にも、なかったものだ。俺との関係が深まり、元々の自分が上書きされたのだろう。彼女を救ったことに意味はあった。元の世界に戻る鍵集めという意味だけではなく、ぼっちの俺たちが友達といえる関係に近づいていた。
俺たち修学旅行組、五人の、頼りなくも小さな輪。
それがはっきりとした輪郭を持ちつつある。俺はそのことにかすかな喜びを感じた。
残す攻略対象はアルだけ。
けれど彼の場合、屋敷の主人という特別な立場に順応しきってしまっているため、容易に隙は見せないままだ。そもそも記憶を失ったのかどうかさえ、判然としていない。
(もっとストレートに攻めないといけないのかもな……)
そんな感じで仲間の変化に一喜一憂している俺だが、貴族たちが帰る前にやらなければならないことがあった。周りのみんなは気づいていない。たぶん俺だけが気づいたこと。
貴族が客間を出るたび、月は洗濯するシーツの回収に向かっていた。
その月に、俺は声をかけた。
「エミリー様ご一行はもう屋敷を出たか?」
「それなら、今さっき客間を離れられたばかりですけど。何かあるんですか、玲さん」
「月。おまえは気づいていたか?」
「なにをです?」
「エミリー様の執事、ヴィンセントの正体だ」
俺はここで初めて他人に話す。昨晩、俺が手に入れた確信を。
「正体……ですか?」
案の定、月は気づいてないようだった。無理はない。昨晩の指紋採取は一部の人間にしか見えないようになっていたから。彼女は結果しか知らない。過程については無知だ。
「あとで教えてやる。今はヴィンセントをつかまえるほうが先だ」
俺は月と別れ、玄関へと向かった。
そこではエミリー様が配車を待っており、ヴィンセントは荷物持ちをしていた。
俺が近づくと、驚くことに彼のほうから声をかけてきた。
「そろそろお暇させて貰うよ、ネヴィル卿の執事君」
重そうなトランクケースを軽々と持ち、俺の側に歩み寄ってくる。
その表情には軽薄な薄笑いしかなかった。まるで俺が接近するのがあらかじめわかっていたかのような態度。
「ヴィンセントさん、俺はあなたに訊きたいことがあります。ちょっといいですか」
「構わないよ」
視線をキツくしても、まったく動じる気配がない。
「あなた、昨晩の指紋採取で妙な道具を使いましたね。あれはあなたのものですか」
「道具?」
「とぼけないでください。セロハンテープですよ」
それはこの世界には存在しない、未来にしかない道具だ。
なぜヴィンセントが持っていたのか。答えは同じ手法をとった俺には明白に思えた。
「あなた、転移者ですね?」
硬い表情を崩すこともなく、真っ正面から問いただした。
「転移者ってなに?」
「べつの世界からここへやってきた人間のことです。あなたは本来この世界にはない道具を使って捜査をしました。言い逃れはできませんよ」
まさか俺たち以外にも転移者がいるとは。そんなこと予想さえしていなかった。
けれど証拠は十分だ。俺はじっと息を殺し、ヴィンセントの答えを待った。
「あはァ、気づいちゃった?」
返ってきた答えは、道化のように戯けたセリフだった。
「やはりあなたは……」
ヴィンセントを睨みつけながら、俺は考えていた。京都での修学旅行。帰り道で起きた悲惨な事故。あの状況でこの世界に転移した人間が俺たち以外にいるなら、そいつは俺たちとは別の被害者か、あるいは……。
じりじりと答えを待つ俺に、ヴィンセントはあっけらかんと言ってのけた。
「君たちを轢いた運転手はボク。見てのとおり外人だ。あの日は徹夜仕事だったものでね、うっかり居眠り運転をしてしまった。本当にすまなかったと思っているよ」
口ぶりは平静だが、態度は相変わらず道化師のようだった。
「現代人だったんですね、あなた」
「うん。今から一年以上前になるかな。車ごとこの世界に送られて本当にびっくりしたよ。事後処理がいろいろと大変だった。でも死んだはずのボクがもう一度生を受けた。それはラッキーだったというほかないね」
なにがラッキーなものか。俺は最悪の答えを手にして爆発寸前だった。
「おまえのせいで……」
「うん?」
「おまえのせいで、俺たちはこんなめに遭ったんだ。ひと言謝ったらどうだ」
「さっき言ったじゃない。本当にすまなかったって」
「その程度で許されると思うなよ」
俺はエミリー様の目につかないところへヴィンセントを連れ込み、
「一発殴らせろ。そうでなきゃ気が済まない」
地下決闘の件といい、この世界に来てから、俺はどうにも血の気が多い。
だがそのことに自嘲する暇はなかった。感情の赴くまま、拳をぎゅっと握り締める。
「殴って気が済むなら殴ればいい」
こいつ、へらへらしやがって。
俺たちに死をもたらした張本人を前にして、俺は執事というリミッターを外した。
「ッ…………!!」
ヴィンセントの腹部に一撃お見舞いした。顔を傷ものにすれば騒ぎになるが、見えない箇所ならその心配はない。ジョーンズに学んだことだ。
「……確か、レイ君といったね。クールに振る舞っていて、中々野蛮な執事じゃないか」
「うるせぇ。殺しても殺したりねぇよ」
怒りはまだ収まることを知らないけれど、俺は一発だけといった。
その約束どおり、すぐさまヴィンセントを解放し、通常の執事モードに切り替えた。
なぜなら俺はこいつに訊きたいことがあったのだ。
他の仲間たちと同じ、記憶に関する疑問。
「ヴィンセントさん、あなた記憶をなくしたりしてないか」
「記憶?」
「ああ……記憶をなくして、以前の自分が欠落する。転移者にはそういう傾向が見られるんだ。俺はその記憶を集めている。なにか思い当たる節はないか」
口調は穏やかだが、今度は胸ぐらを掴み上げる。
「記憶はよくわからないけど、自分をなくしてしまったね」
「自分?」
「そう。この世界に来る前の自分を全部」
全部。ヴィンセントは肩をすくめ、外人らしいジェスチャーをとった。
「ボクは何もかも変わってしまった。すでに人間ですらないのかもしれない」
そう言って悪魔のように白い歯を見せるヴィンセントだが、こいつもアルと同じなのか。なくした記憶はおぼろげで変化だけが如実に表れるという意味で。
しかし全てをなくしてしまったとは大袈裟な話だ。こいつは自分が犯した罪に相応しく、とんでもない罰を神様から受けたのかもしれない。
「まあいいでしょう。今度会うときまでに記憶を取り戻しておいてください」
俺は記憶集めの対象が広がったことに落胆していたが、こいつとはもう一度会えるかもしれないと感じ取ってもいた。
「なるほど。こうして相見えたように次がないとは限らない。異世界転移した者同士、自然と引かれ合うのかもしれないしね……」
そういってヴィンセントは、胸ぐらを掴み上げた腕をゆっくり振りほどき、
「遠くないうちにまた会おうか、執事君?」
眇めた目で不気味な笑みを浮かべたが、俺はヴィンセントの腕力のほうに衝撃を受けた。痩せた体に似つかわしくない膂力。こちらが全力で追い込んでいたのに、こうもあっさり腕を外されてしまうとは。
「あんた……何者なんだ」
「クラリック家の執事だよ。君と同じくね」
そういってヴィンセントはエミリー様のところへ歩いていく。
玄関ではちょうど車が来たようだった。
俺はその様子をずっと眺めていた。ヴィンセントは後ろ向きで手を振っている。
なんという余裕だろう。
俺は怒りにかられて彼を一発殴ったが、結局はヴィンセントの手のひらの上で踊らされていただけのように感じられてしまう。
「どうしたんですか、玲さん?」
声がするほうを振り向くと、大量のシーツを抱えた月がいた。
俺は彼女になら言ってもいいと判断し、忸怩たる口調で事実を告げた。
「もう一人転移者がいたよ。そいつが俺たちを轢き殺した」
こうして俺はまた、絶対遵守の誓いを生きるのだった。




