薔薇の傷
二日後、誕生日当日となった。
この日は正午過ぎから、賓客が引きも切らずやってくる。どの御方も自慢の乗用車を繰り、馬車でやってくる方はどこにもいない。貴族にとって車はもう必需品なのだろう。
そんな乗用車を特別につくった駐車スペースに案内するのは雪嗣の仕事だった。
広いスペースを用意したはずが、たちまち埋まってしまう。急遽スペースを広げ、対応するはめになる。臨機応変。どのような事態にも使用人は対処せねばならない。
俺はといえば、賓客が訪れるたび、彼ら彼女らの荷物をお預かりし、これまた事前に用意した部屋割りに従って客間へと運ぶのが差し当たりの仕事だった。
そうしていると、自分が執事ではなく、ホテルの従業員にでもなった気分だ。実際のところ、そのふたつの仕事は共通点が多い。執事として鍛えられれば、元の世界に戻ったとき、ホテルに就職するとうまくいくのだろうな、なんてことを考えた。
やがて最高位の賓客が訪れた。クラリック公爵の愛娘、エミリー様である。
彼女を出迎えたのはアルだ。当主がわざわざご挨拶に伺うあたりに、彼女の特別待遇が見てとれる。
「ようこそ、グリムハイド・アビーへ」
軽く頭を下げ、アルは、エミリー様の降車に合わせて手を差し出す。
「よろしくお願いしますわ」
俺はその場面を偶然目にした。エミリー様はアルの導きを上品に受けとめ、さも当たり前のように地上に降りられた。
しゃべり方から、立ち振る舞いから、お召しになっているドレスから、エミリー様は俺たちが想像する典型的なお嬢様だった。金色のロングヘアを後頭部でアップにした髪型はお淑やかなレディの風格を漂わせる。まるで漫画の世界の住人だ。
「マイ・レディ。お荷物をお運びいたします」
「トランクケースなら助手席にあるわ。部屋に案内して頂戴」
「お部屋への案内は私がやらせて頂きます」
ひょっこり顔を出した月が、俺からエミリー様の荷物を受け取る。
そろそろガーデンパーティが始まる。できればこの場に止まりたかったので、月の申し出を俺はありがたく頂戴する。
「頼んだぞ、月」
小声で耳打ちし、俺は彼女とエミリー様を見送る。
「さあ、皆さま。これよりガーデンパーティを始めさせて頂きます」
衆目の耳を集めるかのように、シンシア様がひときわ目立つ場所に現れた。
彼女の登場を合図に、グリムハイド・アビーの庭で園遊会が始められることとなった。俺とバークマンが三日がかりで準備したイベントが開幕したのだ。
紳士淑女の皆さまがたは、各々陳列された花卉をお眺めになったり、屋外に設置したテーブルへでおしゃべりに興じたりなさっている。
きょうはとりわけレディの数が多い。主に男性陣はアルとベアト様の誕生日をお祝いに来た連中で、女性陣はガーデンパーティの出品者といった具合だろうか。
そこへキッチンメイドである紫音がやってきた。昼過ぎという微妙な時間帯に訪れた賓客のために、お茶と軽食を用意したようである。
「紫音、きょうは何を用意したんだ?」
俺はキッチンに戻ろうとした紫音をつかまえ、軽く言葉をかける。
「バターたっぷりのショートブレッドさ。ちなみに私が焼いたんだ」
自分が料理した一品を供するためか、紫音は少しだけ自慢げに微笑む。
紫音がいなくなったあと、ひそかにレディの会話に耳を澄ませていたが、その評判は非常にいいものであった。
「このショートブレッド、美味しいわね」
「グリムハイド伯爵家の使用人ですもの。このくらいの品は出して当然でしょう」
中々辛口と思われる淑女の皆さまにも受けがよい。あとで紫音に伝えてやったら小躍りして喜ぶだろう。
一瞬べつのことに気を奪われたが、きょうの俺はエミリー様のお付きが主任務だ。
俺は玄関に行き、彼女が客間から戻ってくるのを待ち構える。
やがてエミリー様が月を引き連れて戻ってきた。雑談でもしているのかと思いきや、月の存在などないかのごとく、あごをツンと立てて優雅に歩いてこられる。
「エミリー様。私が本日お付きを賜ったレイ・ニラサワと申します」
「あなたが付き人? 私は自分の執事がいるから不要ですのに」
さっそく軽いジャブがきた。俺という付き人をいらないと仰せになる。見れば彼女の背後には月以外にも男性がひとりいて、エミリー様にぴったりと寄り添っている。
「それにあなた、東洋人でしょう? ネヴィル卿も物好きね」
自分の執事と見比べて、口元には冷笑を浮かべておられる。確かにエミリー様の執事は銀髪をなびかせた見事な西欧人といった風貌で、以前屋敷に訪れたイケメン貴族、ウェルベック卿とはまた違った魅力を放ち、柔らかい微笑を湛えている。
とはいえ俺は、主人から直々に付き人を仰せつかった立場だ。いくらエミリー様に拒まれようとも、簡単に引き下がるわけにはいかない。
「エミリー様、この場はどうか、執事がふたりに増えたとお考えください。足りないことがございましたら迅速に対応いたします」
恭しく礼をすると、エミリー様は押し黙った。
「そういうことでしたら、庭の花卉を紹介してくださらない。確かきょうのガーデンパーティは、最後に一等賞を決められるとか。あなたとともに品定めがしたいわ」
付き人を承諾なさったと思いきや、次の難題を押しつけられた。品定めというが、貴族のお歴々が出品なさった花卉を使用人ごときがけなすわけにはいかない。
しかし彼女の出した条件を飲まずしては、先に進むことができないと思った。
「承知いたしました、マイ・レディ。さっそく庭をご案内いたします」
俺は庭の準備に携わった人間だ。花卉には詳しくないが、どの花がどの貴族が出品されたものか、だいたい把握している。
なのでその知識を披露しよう。俺はハート型に並べた花卉の付け根の部分から順繰りにご紹介し、エミリー様の期待に応えるようにした。
「こちらがオリバー卿のご夫人が出品された蘭になります。様々な種類の蘭をあしらいまして、たいへん豪勢な仕上がりとなっておるかと」
「派手なだけね。センスが感じられないわ」
「こちらはウィリアム卿の母君が出された薔薇でございます。山吹色の薔薇とあって、非常に珍しい一品かと存じ上げます」
「珍しいだけでしょう? こけおどしだわ」
エミリー様はものを評価するすぐれた眼力がおありのようだったが、同じくらい口のほうも辛辣きわまる御方であるようだった。俺の感覚としては立派な花卉たちを、紹介するごとめちゃめちゃにこきおろした。
「見なさい、ヴィンセント。このヤマユリの醜いこと。どうしたらこれほどまでに下衆な仕上がりにできるのかしら」
後ろに付き従う執事にまで毒舌を飛ばす。
ヴィンセントと呼ばれた執事はにやついた微笑を湛えながら、
「まあ、作った人間の心根が表れているんでしょうね」
なんて適当な相づちを打っている。こいつ、お嬢様には絶対服従というタイプか。
こんな感じでハート型の外周を順繰りに巡っていくと、やがて頂点に位置する、クラリック公爵家が出品した薔薇に辿り着く。
勿論、エミリー様はそれが自分たちが出品した花卉だと知っている。
だからだろう。エミリー様はパッと顔を輝かせ、論評を始めた。
「ご覧なさい。これこそ貴族にふさわしい青薔薇ですわ。栽培が難しい品種であるにもかかわらず、この大ぶりの花、それに負けない枝振りの良さ。これまでの品々とは一線を画しているわ。レイといったかしら。あなたもそう思うでしょう?」
「素晴らしい出来と存じますが、論評は控えさせて頂きます」
俺が控えめにいうと、エミリー様は急に自信満々になった。
「これは我がクラリック家の出品作よ、ネヴィル卿の執事。素晴らしいのは当然ですわ」
思うに高位の貴族としてライバル意識でもおありなのか。自画自賛を省みることなく、クラリック家の薔薇をうっとりした目で眺められた。
そこで終われば、ことは平穏に過ぎたことだろう。しかしその会話を偶然、耳にしてしまった御方がおられた。ちょうど反対側から歩いてきたベアト様である。
「自分の家の出品作を大絶賛とは。相変わらず性格の悪い女だな、エミリー」
ベアト様は高慢な笑みを浮かべ、エミリー様を挑発するようなことを仰せになった。
俺としては想定外の展開である。せっかくエミリー様の機嫌を損なわぬよう、影のように付き従っていたというのに、ベアト様が全部ぶち壊してくれた。
「失礼ね。私は元々、物を見る目に自信があるわ。あなたこそ、そんな淑女にふさわしくない格好をなさって。頭がおかしいのかしら」
始まったのは毒舌の応酬である。お互い気が強い御方なのだろうが、まわりの迷惑を考えてほしい。俺は表面的には平静を保っていたが、心の中ではおろおろしていた。
「私は馬鹿ではないぞ。おまえこそ着飾ることしかできないノータリンだろ。ネヴィル家の薔薇も見てきたが、わずかにうちのほうが出来は上だな。あいにくだが一等賞は頂かせて貰う」
「ふん、レディの良し悪しはよい結婚相手に恵まれるかで決まるのよ。その点、あなたは可哀相ね。男か女かわからないような格好をされて、紳士の心は冷める一方だわ」
「そこは価値観の相違だ。おまえは古い慣習に縛られている。憐れなほどにな」
お互い一歩も退かないという構えだが、お付きの執事としては適切な仲裁をしなければならない場面に思えた。
「ベアト様、お戯れもそこまでに。エミリー様、他の花も見て回りましょう」
「そうね。ベアトの相手をするほど私は暇じゃないの」
エミリー様は顔をぷいとそむけて、ふたたび外周を歩きだす。ベアト様は明らかに言い足りない表情を浮かべていたが、ここは納得して頂かねば。
「ごゆるりとお楽しみください」
俺はそういってベアト様の横を通り過ぎ、エミリー様のあとを追いかける。
しかし散々な口喧嘩のあとにエミリー様の機嫌がよいはずがなかった。
「まったく、ベアトのお高く止まった態度はなんなの? 出来損ないの令嬢のくせに」
「…………」
俺が言葉をなくしていると、
「何か言いなさいな。ほんと冴えない執事ね」
とばっちりが俺に飛んできた。
「出品した花だって、我が家のものが一等賞に決まっているわ。それに使用人の出来も。ネヴィル家の執事、あなたはもう用済みよ。私はヴィンセントがいれば十分」
出た。クビ宣言。俺にとっては最悪の流れだ。
「そうは参りません、エミリー様」
「あなたにエミリー様などと呼ばれたくないわ。あっちへ行きなさい」
しかめっ面を浮かべたエミリー様に手で追っ払われる。
「では必要があればすぐお呼びください。それと、お茶をご所望のときはひと声かけてくださればすぐにお持ちいたしましす」
「そうね。あとで呼ぶわ。ヴィンセント、こっちへ来なさい」
「御意、お嬢様」
俺と入れ替わりに、彼女の執事であるヴィンセントが側に侍る。
「それでは一旦、失礼いたします」
俺はあくまで一時離脱であることを強調し、エミリー様から離れた。
そのままご休憩用のテーブル席へ歩いて行くと、そこにシンシア様がおられた。
「レイ、こっちへいらっしゃい」
にこにこ顔で手招きをされる。勿論、無視するわけにはいかない。
「きょうは晴天にも恵まれ、素晴らしいパーティになりますでしょう」
彼女のことは警戒している。できるだけ自然な笑みを浮かべ、その場で平身した。
「そうね。出品された花卉もよく出来たものばかり。一等賞を選ぶ立場としては目移りして困っちゃうわ」
そういって口元をハンカチで押さえるが、重責をどれだけ意識されていることか。
どちらかといえば、無邪気にはしゃいでいる感じ。その緊張感のなさに、シンシア様の天然ぶりが感じ取れた。俺は心配になるが、言葉にするのは難しい。
「どれも甲乙つけがたい出来映えに感じられました。シンシア様の責任は重大かと」
「最後は直感で選ぶわ。勿論、えこひいきはなしで」
そんなシンシア様に礼をして、俺はテーブル席をあとにする。
ガーデンパーティの最中、俺の仕事はエミリー様の付き人をすることだった。けれどもそのお役を解任されたため、手持ち無沙汰になってしまった。
(いつでもお茶の給仕ができるよう、準備しておくか……)
そう考え、俺は屋敷に戻ろうとしたが、
「玲、ちょっと待って」
後ろから声がかかる。振り向くと、背後のテーブル席にアルがいた。
俺が小走りに近づくと、
「君にダドリー卿を紹介しておきたい。卿、こちらが我が家の執事を務めている、レイ・ニラサワです」
ダドリー卿といえば、エミリー様と双璧をなす最高位の賓客だ。
俺は深々とお辞儀をし、最敬礼の姿勢をとった。
「卿は大臣を務めていらっしゃると聞き及んでおります。そのような御方にご挨拶できて光栄に存じます」
「そんなに畏まらんでいいよ。若いのによく務め上げているらしいな」
「勿体なきお言葉」
高位の賓客が俺に興味を持たれるとは思えない。形ばかりの挨拶を終え、すぐさまその場を離れようと思っていた俺だが、アルがそれを許さなかった。
「ダドリー卿はぼくを政治家にしたいらしいんだ。ビジネスに注力し、屋敷の運営に忙殺されているから無理だといっているのにね。君からもよくいってくれないか。いまの屋敷にはぼくが不可欠だと」
眉をひそめ、困ったような顔になったアルだが、これこそ無茶ぶりだった。
ただの執事ふぜいがダドリー卿と対等な口を利けるわけがなく、俺は急速冷凍された魚のようにかちこちに固まってしまった。
なので次の瞬間、先に口を開いたのはダドリー卿のほうだった。
「こらこら、ネヴィル卿。執事が弱ってるではないか」
苦笑を浮かべながら、アルの言動を窘める。
「私はヘインズ卿と違い、あなたを政治家にしたいのではない。その溢れるほどの資金力で我が保守党を支援して頂きたいのだ。ビジネスは好きなだけ続ければよい。卿がどの政党を支持なさるか、ロンドンの連中は固唾を飲んで見守っているのだ」
「支持政党でいえば、当然保守党です」
「だとすれば異論はないではないか。最近は社会主義者の台頭が著しい。連中をがつんと叩きつぶすためにも金がいるのだ。選挙資金という名の金がな」
他の淑女たちと席が離れていることもあって、聞きようによっては放言ともとれることをダドリー卿はすらすらと述べたてていった。
ようはアルの金がほしい。それをここまで素直に口にされるとは。石橋を叩いて渡るようなやり方を好まない方なのだろう。さすが高位の貴族、そして現役の大臣というだけのことはある。
「政治献金の件は、きちんと検討させて頂きますよ」
アルはそういってダドリー卿に微笑みかける。例によって仮面の微笑だ。
そのとき、ダドリー卿の背後にひとりの男性が近寄ってきた。
「おお、エドウィン。花卉の見物は終わったのか」
「イエス・マイロード。どの花卉も見事なものばかりでした。一等賞を決めるのは非常に難しいかと存じますが、ネヴィル家とクラリック家の出品作が頭一つ抜けておりました」
「なるほど。さすがネヴィル卿ですな。ホストであるにもかかわらず、一等賞をかっさらうおつもりとは、卿の負けず嫌いを感じさせますな」
エドウィンという使用人の耳打ちを聞き、ダドリー卿は表情を崩した。
「紹介が遅れたが、これが我が家の執事、エドウィン。エドと呼んでくだされ」
「アルバート・ネヴィルだ。よろしく」
「お目にかかれて光栄に存じます」
「それと、彼が我が屋敷の執事。レイ・ニラサワだ」
アルの紹介を受け、俺はエドに頭を下げる。明らかに年上だったのと、ダドリー卿の爵位を考慮して、格上の方に対する態度をとる。
自己紹介は済んだので、俺はアルに暇乞いを告げた。
「それではアルバート様。私はそろそろ持ち場に戻ってよろしいでしょうか」
「引き留めてしまって悪かったね。もう行っていいよ」
「畏まりました。失礼いたします」
俺はダドリー卿とその執事に一礼し、テーブル席を離れた。
向かう先はエミリー様の居場所だ。さっそく探索を開始するが、客の数が多くて思った以上に難航する。
俺は闇雲に探すのをやめ、ハート型に配置した花卉の、ネヴィル家の出品があった場所へと向かう。観賞ルートを順当に辿れば、そのあたりにおられると思ったからだ。
斯くしてエミリー様の姿をほどなく見つけることができた。数々の薔薇が配列されている場所に陣取り、執事のヴィンセントを連れている。その隣には紫音の姿があった。どうやらお茶とお菓子を給仕しているようだ。
俺はまず真っ先に紫音に近寄り、ねぎらいの言葉をかけた。
「エミリー様のお世話、ご苦労様」
「あ、玲。ちょうど通りかかったときにお茶を所望されてさ。それっきり動けなくなっちまったんだ」
たはは、と笑って肩をすくめる紫音。
おそらく各テーブルにお茶を配膳していたであろう彼女を、自分の側に釘付けにさせたのだろう。エミリー様のわがままな性格は容易に想像がついた。
「あら、戻ってきたのね、ネヴィル卿の執事」
「レイ・ニラサワです。レイとお呼びください」
俺は呼称を訂正して頂くよう、慇懃な態度をとった。
「どっちでもいいわ。ところでこの薔薇、とてもいい出来ね。素敵だわ」
エミリー様は隣のヴィンセントに話しかける。彼もその発言に静かに頷く。
「そちらの薔薇は、我がネヴィル家の出品作となります」
俺が事実をストレートに伝えると、エミリー様の顔が急に曇りだした。
「べ、べつに褒めたわけじゃないわ。ちょっといいなと思っただけよ。ネヴィル家の庭師も中々やるじゃない。勿論、我が家の薔薇には劣るけど」
事実を知って、エミリー様の態度が一変した。ツンと澄ました顔になり、明後日の方向を向いてしまう。俺はその顔をまじまじと見る。めったに見れないツンデレ顔だと思ったからだ。
かたや執事のヴィンセントといえば、ネヴィル家の薔薇をじっくりと眺め、何やら気になったのか、薔薇の茎に手を触れていた。そしておもむろに俺たちのほうを振り返る。
「あなた、レイさんといいましたか?」
「はい。なんでしょう」
「この薔薇は出来損ないですよ」
一体何事かと思った。最初は頭が追いつかなかった。
バークマンが手塩にかけて育てた薔薇が出来損ない? しかもいまさっき、エミリー様が絶賛なさった薔薇である。悪評を受ける理由がわからない。
するとヴィンセントは「何もわかってないね」という顔になり、
「この茎のところ、傷がついています。あと何日かすれば花は枯れるでしょう。ひょっとして配置する際に担当者が傷つけたのではないかな?」
「見せてください」
花卉を配置したのは俺とバークマンである。何かミスがあれば、その責任は執事である俺のもの。慌てて目を走らせたが、彼のいうとおり薔薇の茎には斜めにざっくりと大きな傷が入っていた。
「…………」
俺の背中を悪寒が駆け抜ける。こんなミスをした覚えはまったくない。しかし実際に薔薇は傷ついている。目の前の出来事が嘘であってほしく、俺は薔薇を何度も調べた。けれど客観的に見れば、これでは品評会どころではないだろう。
頭を抱えそうになったが、それをぐっと堪えた。横に目をやると、給仕係の紫音がハラハラした様子で立ち尽くしている。
「ふん、やっぱりネヴィル家の薔薇ね。これで一等賞は私たちのものよ」
さっきまでのツンデレ顔はどこへやら。エミリー様は鼻を高くして紫音と俺を見下した。
ショックに襲われ、俺はその場で瞑目した。
執事になって初めてのイベントでこんな致命的なミスをやらかすとは。花を育てたバークマンをはじめ、一等賞を期待するネヴィル家の面々に申し訳ない。
その思いは俺を存分に打ちのめした。
「玲……」
紫音が心配そうにのぞき込んでくる。
見れば彼女も、配膳皿のティーカップをかたかた震わせていた。
「すまん、俺のミスだ……」
紫音にだけ聞こえるように呟き、俺はもう一度ネヴィル家の薔薇を調べる。そして現実が変わらないことを知って、その場で脱力し跪いてしまった。




