階上の朝食
西欧諸国において春の訪れは復活祭と重なる。復活祭とはキリストの復活を祝う、クリスチャンにとって最も重要なイベントだ。
週末に復活祭を控えたある日、貴族たち階上の住人は食堂に集い、朝食をとっていた。
「皆様方、今朝の料理はフルブレックファストになります」
給仕をするのはカーソンと雪嗣。玲はきょうお休みを貰っているため不在だ。
ちなみにフルブレックファストとは、トースト、卵料理、ソーセージ、豆料理などをひとつの皿に盛ったイギリスのボリューム満点な朝食のこと。
卵料理は各々の好みで異なる。アルはスクランブルエッグ、ベアトは目玉焼き、そしてきのうから屋敷を訪れていたシンシア様はポーチドエッグ。心得たもので、使用人たちはそれらの好みを把握しており、決して間違えることはない。
「これだけ食べるともう昼食はいらないわね」
トーストにママレードを塗りながら、シンシア様が苦笑を浮かべている。フルブレックファストは分量が多く、これで昼食を抜く人も少なくない。午後にはアフタヌーンティーを召し上がるのだから、食べすぎになることを避ける意味もある。
ところでシンシア様の来訪理由であるが、生活費を貰いに来たという事情の他に、週末の復活祭をともに祝いたいという思いがあったようである。
「ひとりで礼拝に行くのは寂しいわ。それにデシャンの作ったホットクロスバンズはとびきりですものね。あれを食べるだけでも来た甲斐があるというものです」
シンシア様が呟いた謎の料理のことだが、復活祭前の金曜日「グッドフライデー」において食されるパンのことである。この世界には、元の世界になかった風習が少なくない。初めて見聞きするものに出くわすのもしばしばだ。そう感じた雪嗣は頭の中のメモ用紙にホットクロスバンズと書き込むのを忘れないのだった。
「そういえば、カーソン。今月末のドイツ行きだが、準備はできているかい?」
「万全でございます」
アルとカーソンが軽く言葉を交わしたが、雪嗣はその内容を知っていた。確かカーソンが懇意にしているアメリカの銀行家と、ドイツの化学メーカーを結びつけようとしているとか何とか。ネヴィル家も出資する新事業を立ち上げるだけでなく、そのアレンジも行うとは、カーソンの敏腕ぶりに雪嗣はあらためて恐れ入った。
「なあ、カーソン」
そこへ口を挟んだのはベアトである。
「そのドイツ行きだが、私も一緒についていくわけにはいかないのか」
ネヴィル家の事業に裏方としてかかわっているベアトだが、表舞台で何が起きているかその目で確かめたいという思いがあるようだ。その思いをストレートに押し出すあたりがベアトのベアトたるゆえんである。
「申し訳ありませんが……」
斯くしてカーソンは言い淀んだ。これは大人の仕事ですので、というわけにはいかない。
「ベアト様には、来月のガーデンパーティのご準備があるかと。ドイツ行きは長旅になりますし、ここは私ひとりにお任せください」
何とか理由をこじつけた。それを聞いてベアトは、
「ああ、パーティがあったな。でも直前にちゃちゃっとやればよいであろう」
「違います、ベアト様。来月のパーティを成功させるのは屋敷の名誉がかかったこと。他の誰でもなく、ベアト様ご自身が責任をもってされるべきことです」
言外に「手抜きはいけません」という意志を込めて、カーソンがベアトを見る。その優しくも逃げ場のない意見を受け、ベアトも考えを変えざるをえないようだった。
「責任とあらば仕方ないな。ドイツ行きは諦める」
「ベアト様。精進を積めば、いつかきっと外国行きのチャンスは訪れます」
「わかった。肝に銘じておこう」
欲深いベアトだが、その後は押し黙る。半熟の目玉焼きをつぶしながら、そこにトーストを浸す。トロリと溶け出した卵黄にパンをつけるのは彼女の好みだ。デシャンはいい仕事をする。たかが目玉焼きひとつだが、階上の住人たちの趣味嗜好を十分に満たす。
その一方で主人のアルだが、カーソンとベアトが話している間、彼は皿に盛られたハッシュブラウンにかじりついていた。
ハッシュブラウンとは細切りのじゃがいもをフラパンで焼いた料理で、かりかりの食感とこうばしい香りがくせになる。このハッシュブラウンがアルの大好物だった。
ひとくちかじったところに紅茶を飲む。
香ばしさと渋味の相性がなんともいえない。主人としての威厳を保つように平静を装っているアルだが、心の中では絶妙な焼き加減にしみじみと感じ入っていた。
「ところでカーソン」
紅茶をひと飲みし、ベアトが話題を変える。
「なんでしょうか?」
鷹揚に構えたカーソン。居ずまいを正すのは使用人である彼のはずなのに、なぜかベアトは窮屈そうに体を縮め、上目遣いで彼を見上げながらこんなことをいった。
「これは使用人の噂話なのだが……先々週ロンドンに行ったとき、レイとユキがひと暴れしたという話は本当なのか?」
レイとユキ。彼らのひと暴れ。
――地下決闘の話か。
騒動の後、事情聴取したカーソンは直ちに思い当たる。そして箝口令を敷いたにもかかわらず、使用人の誰かから情報が漏れたということにも。
「ひと暴れといっても大したことではございません。パブで絡まれた相手と小競り合いになった程度です」
事情を知っているアルはともかく、シンシア様は耳をそばだてた。カーソンとしては、シンシア様のようなうるさ型の外野にことが漏れるのを避けたかったし、ゆえに実際起きた出来事を矮小化して伝えることにしたのだが、
「小競り合い? 私が聞いた噂話では、レイはケンドーとかいう武術で大立ち回りを演じたという話だ。カーソン、本当のことを教えろ」
熱っぽく懇願するベアトだが、カーソンは情報を漏らした人間にあたりをつけていた。おそらくレイがシオンに話し、シオンがルナに伝え、その場所にベアト様が行き当たったという流れだろう。やれやれとカーソンは肩をすくめる。
「んまあ、そんな乱暴な出来事があったの?」
そら見たことか。シンシア様が関心を持たれてしまった。
ここは隠しだてしても不利になるばかりだ。無難な情報を開示し、出来事の本質は巧妙に封じておこう。カーソンはそのように考え、対応の仕方を変えることにした。
「本当に小競り合いですよ。実際、誰ひとり怪我を負っていません。その場にいた雪嗣もほら、まったくの無傷でしょう?」
急に話を振られた雪嗣は戸惑った顔になるが、状況をのみ込めたのか首を縦に振る。
「だが、レイがケンドーをできるのは本当なんだろう?」
ベアトが食い下がってくる。
「それは本当です」
ぽつりといったのは雪嗣。剣道ができる程度の話なら、決闘とは無関係。そう判断したうえでの発言だった。
「なるほど」
ベアトは納得したような顔で頷く。
けれども彼女の興味は、パブで起こった出来事自体にはなかった。そのことをすぐさまカーソンは知ることになる。
「私はそのケンドーとやらをやってみたいな。レイに学ぶことはできないだろうか」
どうやら彼女の関心はケンドーにあるようだ。
おてんば娘も大概にしておけよ。カーソンは新たな面倒事の発生に心の中でツッコむ。
「ダメよ、ベアト! 武術なんてレディのやることじゃないわ!」
面倒事を助長するように、シンシア様が肝を冷やしたといわんばりの声を張り上げた。
穏やかな春の日差しのような食卓がどんどん騒がしくなっていく。屋敷を統治する家令としては望ましからざる事態だった。
「社交界デビューも近いというのにこの娘は!」
「それとこれとは関係ない」
「大ありです! しかも相手はあの東洋人の執事だなんて、野蛮だわ!」
「レイはただの乱暴者ではない。彼には我が英国に脈々と流れる騎士道精神がある。わかってないのはお母様のほうだ」
始まっちまった。親娘喧嘩が。
こうなったらどちらかが引くまで止まらない。カーソンは統治のさじを投げ、なりゆきに任せることにした。雪嗣を小突いて、キッチンに引き下がる。
ぽつんと残されてしまったのはアルだ。
カーソンもいなくなって困ったことになったぞ、という顔になり、とりあえずハッシュブラウンを食べ終えるが、親娘喧嘩は中々収まらない。
せめて話題を逸らす努力をしてみるか。
そう腹をくくったアルは、ふたりの会話が止まった瞬間を見計らってこういった。
「玲は東洋人だから、ぼくらの知らないことを色々知っているんだ。ケンドーもそのひとつだろう。お義母様、彼の一風変わったところを責めてはいけません」
「違うのよ。私が怒っているのはベアトのこと。どうしてこの娘は……」
「その件ならベアトが悪いよ。玲だってベアトにケンドーを教えるとなれば、どこかで仕事がおろそかになる。彼は執事になってまだ日が浅いんだ。新しい職責を全うできるよう、いまは見守ってあげるのが先じゃないかな」
「まあ、それをいわれると否定できない……」
アルの忠告にふたりのレディは黙りこくってしまった。さすがは屋敷の主人というべきだろう。カーソンにはできないことを易々とやってのける。
「ケンドーはべつの機会にして、いまは違う話をしよう」
「わかった」
しゅんとなったベアトが朝食の皿に向き直る。
もぐもぐとソーセージを食べ、トーストをかじり、紅茶をひと飲みする。
ふたたび静けさを取り戻した食堂。アルはそれに満足を覚えたが、静寂が破られるのは意外と早かった。ベアトが何か閃いたような顔になったのだ。
「なあ、アル」
「どうした?」
「ケンドーのことじゃないが、レイのことでひとつ相談がある」
「なんだい?」
「あいつは空想屋で、色んなビジョンを持っている。これが中々面白いんだ。この世界にはないことだが、未来には実現しそうなことを色々考えている。それを実現する手助けをしたいんだが、了承して貰えるだろうか」
そこまで聞いてアルは、だいたいの事情を理解した。未来の世界から来た玲が、この世界ではまだ実現していないファンタジーのようなことを語ったのだろう。
好奇心旺盛なベアトのことだ。それに感化されないはずがない。
「それは興味深いね。いいよ、使用人を使ってもいい」
「本当か?」
「嘘なんていわないよ。ただしお金のかかることはやめてね」
アルは即断をくだし、ベアトは艶やかな笑みを浮かべた。
まさしく令嬢の笑みといった笑顔だが、それをもっとべつのところで発揮してほしいと思うのがアルの立場だった。カーソンが放棄した後始末はアルの仕事。結局、この屋敷の最終的な責任は使用人ではなく、ネヴィル家当主である彼自身にあるのだ。
アルはその重さを感じながら、大好きなハッシュブラウンをもう一枚食べたくなった。
「お義母様、食事が進んでないようですが」
「何か疲れちゃってね。フルブレックファストは私にはちょっと重すぎだわ」
「なら、少しお手伝いをしましょう」
「そうしてくれると助かるわ」
シンシア様の皿からハッシュブラウンを取り、アルは自分の皿に載せた。
ちょっぴり行儀が悪いとは思っていたが、気にしない。というのもアルが本当に関心があることは他にあったからだ。
新たに屋敷の執事となった玲。彼にその職が務まるのかどうか。
ケンドーなんか教えている場合ではない。玲には一刻も早く、下僕でも従者でもなく、一人前の執事になって貰いたかった。アルの願いはそこに集約される。
(貴族という立場に転移して、ぼくは一杯いっぱいなんだ。そんな頼りないぼくを支えてくれ、玲君……)
眉間にしわを寄せ、何事か考え込むアル。
その苦悩に満ちた横顔に気づいた者は、この場には誰もいなかった。




