執事拝命
雪嗣と俺がタウンハウスに戻ったのは、日付が変わろうとかという時間帯だった。
パブで気晴らしする予定が、とんだトラブルで長丁場となってしまった。玄関をくぐると屋敷は暗く、使用人はみな寝静まっていることが窺われる。
「俺たち、あす、カーソンに叱られるだろうな」
「ふたりで仲良く怒られればいいさ」
雪嗣と俺は軽口を叩く。勝利の余韻に浸っているせいか、少なくとも俺には門限を破ったという意識はなかった。
「風呂にでも入るか」
「きょうはもう遅い。あすにしよう」
雪嗣はそう答えて階段のほうに向かう。ぼろ雑巾のような体を引きずって俺もそのあとを追った。
俺たちが階段を昇ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「ふたりとも、随分遅かったね」
後ろを振り向くと、ローブ姿のアルが佇んでいた。
手にはローソクを持ち、目鼻が整った童顔が闇のなかに浮かびあがっていた。
「ひょっとして、俺たちのこと待ってたのか?」
他には雪嗣しかいなかったので、俺は敬語を外して問いかける。
「うん。体が興奮していて中々寝つけなくてね」
「そうか」
淡泊に返すが、アルが俺たちを待っている理由がわからなかった。微笑を湛えた表情を見るに、門限破りを咎めるためとは思えないが。
「ふたりとも、書斎に来て。ちょっと話をしよう」
アルはそういって、きびすを返す。俺と雪嗣は顔を見合わせて、困惑を浮かべる。
しかしここはご主人様の命令だ。疲労困憊だからといって断ることはできない。
雪嗣も同じ気持ちだったのだろう。ふたりして頷き合い、俺たちはアルのあとに付いていった。
書斎に入ると、アルは自分の椅子に腰をおろし、何かを口に含んだ。
「ごめんね、夜食を食べている最中だったんだ」
見れば、それはクロワッサンサンドだった。デシャンが焼いたパンを、タウンハウスまで持ってきていたのだろう。作ったのはカーソンか。
アルはパンの端をかじり、紅茶でそれを流し込む。
俺と雪嗣はその前に直立不動で立ち、いまだに戸惑っている。勿体つけてはいるが、やはり門限破りを注意されるのか。相手がアルとはいえ、俺たちはすっかり従者体質が染みついていて、彼の挙動に神経を尖らせてしまう。
クロワッサンサンドを半分ほど食べたところで、アルはそれを皿の上に置いた。
手についたパン屑をはたいて落とす。
そして口を開いた。俺たちふたりを順繰りに見まわして。
「おめでとう。ふたりの闘いぶりを見学させて貰ったよ」
変わらぬ微笑を湛えながら、アルは予想外のことを口にした。
「びっくりさせるな。おまえ、あの場所にいたのか?」
あまりに驚いたので、俺はオウム返しに訊いてしまう。アルは静かに頷き、手をあごのところで組み合わせた。
「実はおしのびでパブに出かけたんだ。労働者の憩いの場がどういうものか知りたくてね。そうしたら地下に決闘場があるという話を小耳に挟んで、それも見てみたくて客のなかに紛れたんだ。すると君たちが闘っているじゃないか。驚いたのはこっちだよ」
客のなかにいたというなら、あの場で起きたことは全部知っているのだろう。ことさらアルに隠しだてする気もなく、訊かれない限りわざわざしゃべるつもりもなかったが、使用人の暴れっぷりを目にしたわけだ。アルならそれを知ってどういう対処するだろう。
勝ったからいいものを、負けるリスクもあったわけだ。そこに落ち度があり、他家の使用人を傷物にしたのは事実だ。
だがそれは、杞憂というやつだった。
俺は考えすぎだったのだろう。同じように微笑んだまま、アルはこういった。
「ヘインズ卿の執事を倒して、家の名誉を守ってくれたね。まずはそのことを感謝させて貰う」
最大級ともいえる褒め言葉を頂戴した。
アルは立ち上がり、俺たちふたりを交互にハグした。従者が主人の持ち物であるならば、まるで大切な家具を慈しむように。
「君たちは本当に強いんだね。普段の仕事以外でこんなに素晴らしい能力を発揮してくれて、主人として、友人として、誇りに思う。ぼくはそれがいいたかったんだ」
気持ちが昂ぶった様子のアルは心を全開にしてそういった。
――友人として。
屋敷の秩序に縛られた俺たちだが、これはきわめて異例の対応だった。
それだけアルは感動したのだろう。
俺は気持ちのこもったハグをされ、こそばゆい感覚を抱いた。ぼっちの俺は、あけっぴろげに心を開くこともなければ、人とこんなふうに触れあうこともない。
先ほどまでの困惑とはべつの感情がわきあがってきた。
あえてそれを名指すなら、心の震えるような喜びであった。
「君たちは決して負けてはならない闘いに勝った。勝利は八難隠すというからね。どんなに無謀な振る舞いであってもそれを上書きする力がある。ぼくは君たちを責めるつもりはない。ただ純粋に誇らしく思う」
「勿体ないお言葉です」
不器用な雪嗣にはアルに接するスイッチの切り替えができなかったと見える。彼は従者然として頭を下げた。
俺はといえば、喜びに浸る一方、冷静な自分が首をもたげていた。だから感動に包まれたこの場に相応しくないことを口にしてしまう。
「とはいえあれは、危険な闘いだった。今後慎むように気をつける」
「それはそうだね。下手をすれば相手を殺すところだった。少なくともぼくにはそう見えた。玲君の剣術はよほどのことがない限り、封印するのが賢明だろう」
アルは相手の執事を心配して、俺を窘めた。
しかしいまの会話には噛み合わない点がある。俺は自分が傷物になるリスクを負わないと宣言したまでで、相手のことを慮ってみずからを律するつもりではなかった。
「ひとつだけいわせて貰うが、アル。俺はあの執事――ニコラスを殺してもいいと思っていた。なぜならそう思わないと奴は倒せなかったからだ。むやみに剣術を使うことは抑えるが、それは自分の身を守るためであって、もし同じような場面に出くわしたら容赦なく剣を使うぞ」
剣は人を殺すこともある。その可能性を封じて闘う剣は必然、脆弱となる。
「君は型破りな考えを持っているんだね」
アルは肩をすくめて話を続けた。
「あまり深入りしたくはないけれど、君には相手の命を大事にしようという考えはないのかい? ぼくたちがいた世界ではそれが常識だろう?」
「いや、俺はそう考えていない」
俺の断固たる態度に、隣の雪嗣も怪訝な顔で見てきた。
以前にもいったが、俺は人の命にかんして他人とは異なる考えを持っている。
「命は無価値だ、平等に価値がない」
その思想はこの世界に来ても変化がなかった。だからきっぱりと口にした。他人に伝えたのは初めてだったかもしれない。
「アルこそ、なんで命をそんなに大事にする。俺にとって、命に価値があるという命題は真ではない。どんなに説得されてもこの考えを変える気はない」
自分でも驚くほどの率直さで、俺は持論を語っていた。ニコラスの喧嘩を買ったことしかり、この世界に来てから俺は血の気が多くなってきている。自分を見つめるもうひとりの自分が異常を知らせた。
雪嗣は何もリアクションを起こさない。だんまりを決め込んでいた。
考え込んでいたアルが、俺を見上げてぽつりといった。
「玲君、君は平等主義者なんだね」
「平等?」
「命は平等に価値がない。だからあらゆる命には全て同じ重さがある。一見、ひと殺しを許容するように見せかけて、本当は慈愛に満ちている。ぼくはそう受け取った」
俺はアルの切り返しを受けとめ、理解しようとした。確かに論理的に考えればそうなるのだろう。しかし俺は、大事なものを守るという目的のためには、全ての命の炎を吹き消す覚悟がある。アルの解釈はそうした意志にはほど遠い。
(それにしても平等主義者か……)
俺は自分をそのようにカテゴライズしたことがなかったので、腹の内で消化しようと、しばし黙りこくってしまったが、気づけばアルが俺の目をまっすぐに見ている。いかにも何かいいたげな顔だった。案の定、彼は厳かにこういったのだった。
「でもね、玲君。ぼくの考えは違うんだ。命には価値はあるよ。ただし、平等ではない。より高い価値を持つ命もあれば、そうでない命もある。ぼくはこの世界で貴族になって、いろいろ考えたんだ。その結果、ぼくは貴族という存在をそのように理解した。なぜ貴族が労働者よりも高貴か。それは命――あるいは魂が高貴だからなんだ、とね」
落ち着いた口調だが、俺は当然のように違和感を持った。それは俺自身の考えと異なっているからではなく、アルの主張は元の世界の常識にも反していたからだ。
元の世界では、命には平等に価値があることになっている。俺はそれをひっくり返しただけで、平等という点で相違はない。けれどもアルは違う。彼は命の平等さを否定した。この世界で貴族になると、そこまで考えが飛躍してしまうものなのだろうか。俺はあらためて転移という現象の業の深さを感じ取っていた。
「まあ、ここで議論しても始まらない。ぼくも玲君の考えを否定するのが目的ではないのだしね。ぼくの目的はふたりにいっておきたいことがあったからだ。地下決闘での勝利を祝福することの他にね」
アルはそういって紅茶をひと飲みする。
会話に一拍おいたあと、もう一度俺たちをみまわし、慎重に口を開いた。
「ぼくは君たちふたりを従者として、ここしばらく品定めをさせて貰った。その結論を、きょう出させて貰おうと思う。玲君」
「なんだ」
「ぼくは君に執事になって貰いたい。家、ひいていは主人の名誉を守るという騎士道精神において、君たちは甲乙つけがたい働きを示してくれたけれど、それをより高いレベルで発揮してくれたのは玲君だ。雪君、君には申し訳ないけれど」
「相違ございません。ご主人様の命に従うまでです」
落選したと告げられた雪嗣だが、不満な顔ひとつ見せず、恭しくお辞儀をした。
「きょうの出来事は、私にとっては失態でした。そこを玲がカバーしてくれた。どちらに軍配を上げるかは自明でしょう。ご主人様の裁定は妥当なものかと」
「うん。素直に聞き入れてくれて助かるよ」
アルは雪嗣にねぎらいの視線を送り、ついで俺に目線を戻した。
「これで決定だね。玲、あすから君がネヴィル家の執事だ。カーソンの下について一刻も早く執事の何たるかを学んでほしい」
「承知いたしました、マイ・ロード」
執事の着任を告げられて、俺は思わず敬語になってしまった。それだけ重みのある任務だと思ったのが少し、あとの大半はアルの態度に圧力があったからだ。口調こそ穏やかだが、主人としての重みが感じられた。
――執事という職。
それがどれだけ大きなものなのか。従者とは何が違うのか。
カーソンの敏腕この上ない働きぶりを知っているだけに、競争して手にした職責であるにもかかわらず、実際に拝命すれば俺は気圧されてしまった。
この世界に来て、俺はどれほど変われたというのか。いまだ心の中では、他人が苦手なぼっちのままだ。同時にいくつもの事象を把握できないばかりか、たくさんの人間の心の機微を掌握するのも覚束ない。
執事なんて重責、本当に俺に担えるのか?
煎じ詰めてしまえば、疑問はそれ。誠心誠意尽くすつもりだったが、俺はいまから失敗を恐れていた。しかしそんな心の働きを、いまは乗り越えねばならない。
こうして俺はまた、絶対遵守の誓いを生きるのだった。
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