主人との対面
俺と月、燕尾服の男の三人は、螺旋状の階段をこつこつと音を立て、降っていく。
その途中、俺は生まれて初めて見る光景に目を奪われてしまう。
「スゲえな、月。この階段の手すり、飴色に光ってやがる」
「念入りに磨き込んだ光沢ですね」
肩を寄せあい、ひそひそ声で会話をかわす。
先ほどの殺風景な部屋に比べ、階下に向かうにつれ、この屋敷は言葉にならないほどの絢爛たる威容を見せ始めていた。
手すりはマホガニー材というやつだったか。階段は大理石だろう。
恐ろしく金のかかっている邸宅だ。もはや城と呼ぶしかない破格の豪華さだ。
そうして一階に着いた。
「こっちだ。着いてこい」
燕尾服の男が左に折れる。俺と月はそのあとを追う。
やがて現れたのは驚くほど天井の高い石造りのホールだ。ぴかぴかに磨きあげられた床に、複雑な模様の描かれたペルシャ絨毯。礼拝堂のようなアーチの下には、幾つもの肖像画が飾られている。
「ひょっとすると、金閣寺より凄いかもしれません」
「ああ。そうだな」
「ここ、アルさんがいっていたイギリスの宮殿に近いのかも」
「イギリス?」
「馬車の御者さんがロンドンからは遠いっていってましたし、ここはイギリスですよ」
それはありうる推測だ。
俺も御者の「ロンドン」発言は、頭の片隅に引っかかっていたのだ。
「でも、いつの時代のイギリスだろう」
「年期が経っている建物みたいですし、現代っぽくはないですよね」
目に入る家具から屋敷の構造体まで、どこも古びた色合いに染まっている。
古色蒼然とはまさにこのことをいうのだろう。
「ということは、俺たち、英語をしゃべっていることになるのかな」
「燕尾服の人の言葉も理解できましたし、そう考えるのが妥当でしょうね」
「学校の授業ではあんなに英語の出来が悪かったのにな」
「ふたりとも、おしゃべりしている場合か。入れ」
内緒話を聞き咎められ、俺たちは黙り込んだ。
指示されたとおりに高さ三メールはあろうかという扉をくぐる。
「連れて参りました、ご主人様」
先に書斎へ入った燕尾服の男が、奥にいる人物に深々と頭を下げた。
「よろしい。ジョーンズ」
机に向かっていたご主人様が、俺たちを手招きした。
状況のわからない俺たちは、そのしぐさにやむを得ず従ってしまう。
なんというか、場の空気がはっきりと告げていたのだ。
このご主人様に逆らってはいけないと。
ピリピリした緊張感の中、屋敷の主であるご主人様が口を開いた。
「ジェレミー・トランザムだ。君らがクラリック公の孤児院から来た新しい使用人か。東洋人だと聞いているが、私は人種で差別しない。しっかり働いてくれたまえ」
口ひげを動かし、かすかに表情を見せた。
低い声で話す中年の男といった風体だが、抗いがたい威厳が伝わってくる。俺は緊張を押し隠すように、ポケットの上からお守りのように入れたスマートフォンを握りしめた。
「なにをぼさっとしている。おまえたちも挨拶をしろ」
燕尾服の男……ジョーンズにひじで小突かれた。
「はい。よろしくお願いします」
慌てて月と俺は、トランザム卿とやらに丁寧なお辞儀をする。
この状況に一番似ているのは面接とかそのたぐいだが、この状況がご主人様のいうとおりなら、俺たちの雇用はもう既成事実であり、逃れることはできなそうだった。
(まさか俺たち、屋敷の使用人に転移したのか……?)
それとも死後の世界がお屋敷を舞台としているのか。
答えを絞りあぐねていると、
「これがおまえたちふたりの衣服と名札だ。大切に扱え」
ジョーンズが俺に燕尾服、月にメイド服を手渡してきた。
きれいに折り畳まれた衣装の上には名札。ネームプレートだ。
月のほうをのぞき込むと、その名札には、
“ルナ・ハートフィールド”
と書いてあった。
中野という日本語の苗字が、英語ふうに改められている。
(なんだよ、ハートフィールドって。めちゃくちゃ格好いいじゃねぇか……)
一方、俺の名札といえば、
“レイ・ニラサワ”
(全然日本語のままじゃねぇか。もうちょっと捻っておけよ……!)
そんな、がっかりした顔でジョーンズを見上げると、
「ニラサワ……。フン、東洋人らしく奇っ怪な苗字だな」
見下し顔で冷笑されていた。
すでにいったと思うが、俺は自分の苗字が嫌いだ。その原因は、中学生の頃、苗字をネタに笑いものにされたから。
俺の苗字を馬鹿にした奴はこいつで五人目。ニラ臭い韮沢マジ臭いと言われ、からかわれていた最低の日々を思い出しちゃうじゃねぇか。というか、ニラを馬鹿にすんじゃねぇよ。ニラがないと美味しい餃子はできないんだぞ。
「ルナはハウスメイド。レイは第二下僕として働いて貰う。よいな?」
声に反応して前を見ると、トランザム卿がじれた顔でそういっていた。
何かの作業中だったのだろう。早く済ませたいと口調に滲んでいた。
「わかりました」
俺と月は、もう一度丁寧に頭を下げる。
しかしそこに見えない粗相があったのだ。俺はジョーズにまたしても小突かれる。
「ご主人様や上役である俺への返事は“御意”だ。それ以外は許されない」
「わかりました、御意」
「わかりましたはいらん。御意だけでいい」
「御意」
圧倒的な命令口調。イギリスの使用人社会って体育会的なのか?
上下関係に不得手な俺にとって苦手な場所であることは容易に察せられる。
それは月にとっても同じだろう。
彼女は空気が読めない子なのだ。ナチュラルに失言をする恐れがある。
しかしそれは俺の勘違いだった。
ジョーンズの圧迫的な指示に抗うこともなく、彼女は静かに礼をしていた。
「御意。トランザム様、ジョーンズさん」
「よろしい。女の子のほうが覚えがよさそうだ。レイ、おまえも見習え」
「御意」
「フム、まあいいだろう」
ジョーンズの説教が終わり、トランザム卿は机に視線を戻した。
「失礼いたします」
巨大な扉を閉め、ジョーンズは俺たちを書斎の外に連れ出した。
「ご主人様との謁見はこれでおしまいだ。あとは具体的な仕事の指示をする。俺はこの屋敷で執事を務めるトム・ジョーンズ。おまえたちの教育係を仰せつかった。東洋人だからといって手抜きはしない、厳しく叩き込むのでそのつもりでいろ」
嫌みったらしい顔になり、ジョーンズは俺たちを見比べた。
ひとつ疑問があったので俺は挙手する。
聞けば怒られるかもしれないが、やはり尋ねずにはいられなかったのだ。
「ジョーンズさん」
「なんだ」
「唐突な質問なんですけど、ここは現実の世界なのでしょうか?」
「ほほう、おまえはここが夢の世界だとでも? 舞い上がりすぎだぞ、レイ」
冷笑を声に変え、ジョーンズはあごをひと撫でした。
「このトランザム家に務めることは栄誉だろう。未来の希望さえなかった孤児院出身のおまえたちにとっては、夢のごとき幸せだろう。しかしだ」
そこで言葉を切って、ジョーンズは月、俺と順繰りに眺める。
「ここでおまえたちは労働のなんたるかを学ぶだろう。そこに夢なんてない。日々仕事に打ち込む終わりなき現実があるだけだ。そのことがいずれわかるだろう」
「――御意」
言葉じりにきな臭さを感じたが、俺は空気を読んで頭を下げた。
そして月も同じような所作。
そこに平気で空気を乱すような、正直すぎる彼女らしさはない。普段のチャーミングな彼女を白ルナとするなら、相手を逆なでする彼女は黒ルナ。この世界に転移してきてから、その黒いほうの月がいなくなっている。
一足先に、この奇妙な現実になじんでしまったのだろうか。
いずれにしろ、俺はどこの時代ともしれないイギリスとおぼしき場所に転移し、そこで下級使用人である下僕となった。
ジョーンズのいうとおりなら、夢ではなく現実の世界において。
「ルナ。おまえは配膳室へ行き、家政婦長のフレミングさんに仕事を学べ。レイ、おまえは俺がじきじきに仕事を教えてやる。さあ、使用人生活のはじまりだぞ」
ここで月とは離ればなれになった。
そのことを寂しがっている暇はない。俺はこの世界に順応しなければならない。
「御意。ジョーンズさん」
俺は自分の上役にこびるかのごとく、丁寧にお辞儀をした。
しかしそれは、理不尽な暴力の荒れ狂う嵐の日々の始まりでもあったのだ。