雪嗣の原点
気を失いながら俺は、夢を見ていた。
修学旅行前の教室。窓からは夕日が差していた。
呼び出しを受けた俺は教室に残っており、窓際には誰かがいた。夕日が逆光となって、その顔はよく見えず、誰かは視認できない。
俺は立ち尽くしたまま動かない。そいつはゆっくりと席を立った。慎重な足取りで俺のほうへと歩いてくる。顔はまだ見えない。空は真っ赤で、夕日は強すぎた。
俺はその薄い闇のような顔に向き合う。一体なんの用だろう。答えはわかっていながら、何もわかっていないように振る舞う。ただ、相手が誰かだけがわからない。
そうしてふいに思った。これは俺の記憶だ。
誰かに告白をされたこと。失ってしまった記憶の断片だ。
そいつの顔は最後まで見えなかった。まるで俺の欠落を強烈に印象づけるかのように。
「…………」
次に目が覚めたとき、辺りは一面の闇だった。わずかにガス灯がぼうと灯っている。
何のことはない。ニコラスとの戦闘で体力を根こそぎ使ってしまい、気を失ってしまっていたようだ。しかしここはどこなのだろう?
「目が覚めたか、玲」
雪嗣の声が耳のすぐ近くで聞こえる。
体がとても楽だ。
放っておくと眠ってしまいそうなほどに。
どうやら俺は、誰かの背中に体を預けている。それらを総合した答えは、
――俺は雪嗣に背負われていた!
「ひょっとして俺、ぶっ倒れちまったのか……すまんな」
自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、口をつくのは謝罪の言葉だった。
「謝る必要はない。感謝しなけりゃならないのは俺のほうだ」
雪嗣は前を向いたまま、淡々と呟く。
「試合はどうなった?」
次の気がかりはそこへ飛ぶ。
「おまえの勝ちだよ。家の名誉は守られたわけだ。スゲぇな、おまえ」
淡々とした口調だが、雪嗣が俺を褒めるなんてどうかしている。
確かに窮地を救った格好ではあったが相手は雪嗣だ。助けて貰った礼もいえず、バツが悪そうに仏頂面なのが彼らしい。なのに違った。あろうことか気絶した俺を背負い、テンプル地区のタウンハウスへと運んでくれていた。
「……おまえらしくねぇな」
「俺もそう思う。だが、玲に助けられたのは事実だ。その事実には報いなきゃならない」
普段の雪嗣に比べれば、饒舌といってもいい。
しかも俺は、彼の微妙な変化に気づいていた。
「そういえば、おまえ、俺のこと名前で呼んでくれたな?」
韮沢ではなく玲。バトルの最中からそうだった。俺はその手の変化に敏感だ。
「あれは勢いで……」
急に弱気になった雪嗣である。初めて見るリアクションだ。
「べつにいいだろう。おまえも俺を名前で呼んでいる。それに合わせたまでだ」
少しむくれたような声をだした。気恥ずかしいのだろうか。
「なるほどな」
俺はここで初めて勝利の余韻に浸ることにした。
気絶して雪嗣に背負われるはめになったが、自分の剣道が強敵に通じた。同じ喜びを探せといわれてもすぐに出てこない。俺は剣道が好きなのだ。その当たり前のことを今さらのように感じ取る。
「もういいよ、この辺りで降ろしてくれ」
そして気を取り戻した俺は、雪嗣に自分で歩けることを告げる。
「無理するな。最後までおぶってやる」
「でも悪いだろ」
もっぱら俺の気持ちがな。男同士で密着しても微妙な気分になるばかりである。
「うるせぇ、俺のいうことを聞け」
そういって雪嗣は俺を背負う腕に力を込めるのが伝わってきた。
こいつ、本当に体力あるな。タウンハウスまでは結構な距離があるけど、全然力が衰えない。俺を軽々と背負っている。
なんてことをひとりで思っているときだった。
雪嗣が前を向いたまま、
「なあ、玲。ちょっとだけ無駄話をさせてくれ」
少し固い声で呼びかけてきた。
「なんだ?」
「大したことじゃない。俺が失っていた記憶の話だ」
その言葉に俺の心臓が跳ね上がる。
「おまえ以前、記憶を失ったりしてないか……? と俺に聞いたな。思い出したよ、なくしてた記憶ってやつを。地下決闘で気絶しているときにな」
俺の反応を待たずに雪嗣は滔々と語り始める。
「ただし、ここで話すことは秘密にしろ。絶対他の奴にはいうな」
「ああ、わかった」
雪嗣には見えないだろうが、俺は頷いた。
「高校に入ってからこれまで誰にもいってこなかったが、俺の親父はやくざなんだ。自分の組を構えている。その筋じゃ有名な奴らしい。もっとも俺は興味なんてないがな」
――やくざ。
それが父親の職業。
ひょっとすると雪嗣はそれを否定したかったのか。だから記憶から抜け落ちていたのか。類推にすぎないが俺はそんなことを考えた。そして話の続きを促した。
「でもなんでそれを否定する必要がある?」
世間体が悪いから。そんな答えが返ってくると思っていた。
「否定したいんじゃない」
「でも秘密にしろっていったろ」
「知られたくないんだ。知ればみんな逃げていく。俺のもとから」
俺を背負う雪嗣の腕から、明らかな緊張が伝わってくる。
「中学の頃だ。俺がやくざの息子だということがバレちまって以来、誰も俺に近寄ろうとしなくなった。誰ひとり俺に手を差し伸べてくれなかった。俺が人間を信用しなくなって、連中を近づけさせなくなったのはそれがきっかけだ」
吐き捨てるようにいう雪嗣。俺は返す言葉がない。
「やくざの息子だって理由で、町の不良に喧嘩も売られるようになった。うざったい連中を殴り続けていったら、俺はひとりぼっちになっていた。気分は清々したが、埋められない穴がぽっかり空いた気分にもなった。その穴はまだ埋められてない」
おまえ、寂しかったんだな。
俺は心の中でそんなことを思った。思ったが口には出せなかった。
もしそんな陳腐な言葉で片づけたら、雪嗣の存在に傷をつけてしまうと思ったから。
「つまらねぇ話だろ? 笑うなら笑ってくれ」
「笑えるかよ」
俺は背負われながら、雪嗣の体に回した腕をぎゅっと締める。こいつも俺と同じ、ぼっちだった。けれどその過去は俺と同じく壮絶だった。
けれどくだらない学校政治に傷つけられ、孤独を選んだ俺と、望まずして孤独な道を歩くはめになってしまった雪嗣。そのふたりを同じ尺度では測れない。
だから俺は、ただ黙って雪嗣の体を抱きしめた。
雪嗣もそれを嫌がらなかった。ガス灯の朧な光が俺たちを照らす。
「そんな俺がどういうわけか使用人になっちまって。この生活を始めてから、ひとりぼっちになった頃の五年ぶんの会話をした気がする。それはたぶん、俺が自分の過去を忘れ、人と付き合うのを避けなくなったから。でもその記憶も戻っちまった」
「おまえ、そのことが怖いのか」
「怖いね。自分が人間を信用しなくなった理由を思い出しちまったんだ。これからどういう顔をして屋敷の連中と顔を合わせればいいかわからない」
またしても弱気だ。素の雪嗣は傷つきやすい奴なのかもしれない。
しかし俺は彼との距離を縮めた自信があった。
失った記憶は元の世界に戻る鍵だが、そんな目的とはべつに、俺は雪嗣の心を受けとめてやりたくなった。何様かもしれないが、彼をふたたび孤独にはさせたくなかった。
「おなじ屋敷の仲間じゃねぇか。水くさいこと言うな。おまえの秘密を知ったって、俺は変わらない。何よりもいまの自分を信じろ、雪嗣」
選んだ言葉は月並みなものだった。でも雪嗣の体を抱きしめ、俺は心を込めた。
それがどこまで伝わったのかわからない。
俺たちは押し黙り、静寂の時間が続く。
そんな厚い膜を張ったような沈黙を、雪嗣が静かに押し返してきた。
「おまえのいうとおりだな。俺はこの世界に来て少しは変われた。おまえらとつるむのも、少しだけ悪くないと思うようになった。その気持ちは嘘じゃねぇしな」
ああ、それはきっと本物だよ。心の中でそう思うが口には出さない。
「…………」
耳をすませば、夜の喧噪はもう聞こえてこない。
雪嗣が街路を踏みしめる音が、小さくリズムを奏でる。
背中の上着越しに彼の匂いがする。
「もういい。ここからは歩ける」
「……わかった」
俺は雪嗣の背中から降り、彼と正面から向き合う。
視線は無口なまま交わる。先に照れくさそうに目をそらしたのは雪嗣だった。
「ちくしょう、何だか妙な気分だ」
記憶が戻ったことで、雪嗣は元の近づくなオーラを放つ根暗に戻ってしまうのだろう。人間はそう簡単に変わらない。この世界へきたことで生じた変化はたかが知れている。
でも、そんなわずかな変化でも、雪嗣にとっては大きな変化だ。
一を十にはできないが、一つずつ積みあげていくことはできる。それに俺は、もう雪嗣という人間を苦手にしない。近づくなオーラが張られても、そいつを破って手を差し伸べることができる。それがきょう、俺たちのあいだで芽生えた友情の証だ。
どこまでも奇妙な友情だと思ったが、それが何とも俺たちらしい。
俺は雪嗣と軽くハイタッチを交わし、夜闇のロンドンをふたたび歩きだした。




