従者vs執事:参
剣道とは一種の論理的な駆け引きだ。面と見せかけて小手を打つ。小手と見せかけて面を打つ。退くと見せかけて前に出る。相手のリアクションを計算し、その裏をかくような動作が勝敗を決める。愚直に一刀両断を狙う流派もあるが、少数派である。
俺という計算機のなかにニコラスは「左目が見えない」という情報をインプットした。そこからアウトプットされる答えは右側面が死角になるということだ。
だから俺は迷わず、右側面の面に狙いを絞ってモップを振り下ろした。
計算どおりなら、そこに痛烈な一撃を浴びせることができる。モップとはいえ、木刀の一種だ。狙いどおり当たれば、脳震盪くらい起こせるかもしれない。
しかしそうはならなかった。
ニコラスはすんでのところで左に避け、俺の面をきれいに外したのだ。
まるで目が見えているような動き。目が見えていないというのは嘘だったのか。
「おらよッ!」
空振りに終わった俺の肩に、ニコラスの振り回した鎖がヒットする。
左肩に激痛が走った。ただの打撲ですめばいいが、俺はあらためて鎖という武器の攻撃力の高さを思い知った。
「どうした坊や。もうおしまいか」
口の端を吊り上げ、ニコラスがにたにたと笑っている。
彼にとっては想定内の結果だったのだろう。俺の面打ちを外し、そこに生じた隙に鎖を打ち込む。同じ動作をとっても、また同じ目に遭う気がした。
(しかし右側はあいつにとって死角のはずだ。なぜあんなにもきれいに外せる……?)
俺のなかで逡巡が生まれた。
剣道をやる上で最もよくない思考の働きだ。
迷いを捨て、精神を統一する。そのセオリーから外れてしまっている。
こんなときにもう一度右側面を打っても打突は弱くなる。体重の乗った打突にならないからだ。瞬時に頭を巡らせ、俺は左側を狙うべく、戦法を変えることにした。
右を打つと見せかけて、左を打つ。
モップでできた木刀をすっと上げるとニコラスが小さく反応する。そこから一気に彼の右小手へと木刀を振り下ろす。
「コテェ!」
気合いをこめて、鎖を握った右手を打った。ニコラスはすばやくスウェーする。しかし俺の剣が追いすがる。体重の乗った打突が右小手を捉える。
俺の攻撃はそこで止まらなかった。再度剣を持ち上げ、死角となっているはずの右側面をもう一度狙う。いかにコテがきれいに決まっても、相手を沈めるまではいかない。文句のつけようのない一撃を浴びせるには面が最も効果的だ。
「メェン!」
しかしニコラスはふたたび俺の面を外した。今度は首だけを動かし、打突は彼の左肩に食い込む。苦痛に顔を歪めるニコラスだが、余力はまだ十分残っているようだった。
「食らいなッ!」
鋭い唸り声を上げ、鎖を振り回す。今度は俺の腕に当たった。激痛。一度きりなら我慢すればいいが、こんな攻撃を何度も食らっては剣が握れなくなる。
俺に与えたダメージを確かめながら、ニコラスがすっと後ろに下がる。
「計算違いって顔してるな、坊や。おいちゃんの死角に当たらない理由、教えてやろうか」
まだ無駄口を叩く余裕があるようだ。
俺は腕のダメージが下がりきるまで、彼のおしゃべりに付き合うことにした。
「あんたら健常者にはわかんねぇだろうが、人間ってのは欠けた部分を補うようにできているんだ。俺の場合は左目が潰れたが、そのぶん勘が働くようになった。見えない部分に何が起ころうとしているか、肌で感じ取れるようになったわけ。だから生半可な攻撃じゃ俺を沈めることはできないぜ。坊やは隙を作ろうと必死だが、左を打とうが右を打とうが、おいちゃんには関係ねぇんだからな」
その無駄口を聞いて、ニコラスが計算づくで闘っていることがわかった。
俺が剣道の要領で隙を作り、そこを狙っていると理解していた。ただ闇雲に鎖を振り回す野獣ではない。彼は狡猾な人間なのだ。俺の攻め手はすっかり読まれていた。
しかも死角こそある種の心眼でもって見ることができる。この時点で俺は、奴から面をとることを諦めるべきだったが、剣道と違いこれは決闘なのだ。きれいな小手を奪っても相手が耐えられれば戦闘は続行する。その意味で、剣道のセオリーは通じない。
(厄介なことになったな……)
ふたたび心の中で逡巡する俺だが、ニコラスはそうした隙を見逃さない。
「攻め手がなくなったようだなァ!」
首に鎖を巻きつけるべく、顔のあたりにもの凄いスピードで放り投げてきた。雪嗣を倒したのと同じ攻め方だ。
(同じ手は食らうか!)
俺はこちらから見て、左側からヘビのように巻きついてくる鎖をモップで打ち、軌道をそらそうとした。
獲物は重量のある鎖だ。その重さに負けないよう渾身の力をこめて打つ。
(よし……!)
狙いどおり、鎖は外へ弾けとんだ。
だが、休むわけにはいかない。ニコラスが一気に間合いを詰めてきて、
「オラオラァ!」
強烈な前蹴りを俺の腹部に打ち込んだ。左足がみぞおちに食い込み、俺は胃の中にあるものを吐き出してしまう。
「体術を使わねぇとはいってないぜ。というかむしろ、そっちのほうが得意なの」
余裕を漂わせ、ニコラスがけらけらと笑う。
俺はその挑発めいた態度に腹を立てそうになる。だが、こういうときこそ心の揺らぎを抑えなければならない。そう自分に言い聞かせ、モップを握り締めると、そこからは違和感が伝わってきた。
(まさか、さっきの一撃で折れたのか……?)
わずかに感じ取った感触は、その違和感の正体を教えてくれる。モップは先端から三分の二あたりでひびが入っていたのだ。竹刀では起こらないことだが、木刀の扱いを間違えるとしばしば折れることがある。
俺の体から一斉に血の気が引いた。唯一の武器を失い、戦闘力の高い相手と決闘をしている。そのことが俺に恐怖を呼び起こした。
「なんだ。足が止まったな、坊や?」
鎖をぐるぐる回転させ、ニコラスは次の攻撃をしかけようとしている。俺はわずかな時間の中で対応策を考えた。答えは頼りないものだった。鎖の攻撃は腕でしのぐしかない。たとえ骨が折れようとも、気合いで立ち向かうしかない。
「フッ!」
ニコラスが鎖を放ってきた。前もって考えたとおり、腕で防御する。隙あらば、鎖を掴んで劣勢を挽回しようとする。けれど鎖の動きは変幻自在であり、同時にスピードは俺の動作を上回っていた。俺はただサンドバッグにされる一方となる。
「クハハッ! いいざまだなァ!」
ニコラスは容赦なく鎖を振るい、俺の体力を削いでいく。観客のボルテージもいやが上にも高まっていく。ニコラスに賭けた奴にしてみれば、待望のノックアウトシーンが近づいていることに歓喜しない道理がない。
そのときだった。リングサイドから声がかかったのは。
「負けるな、玲っ!」
後ろは振り向かなかったが、声色でわかった。それは雪嗣の叫び声だった。そして気がついた。いま初めてあいつが俺を名前で呼んだことに。
「これを使えっ!」
雪嗣の悲愴な叫び声と同時に、背中に何かがあたった。俺はしゃがみ込み、リング上に投げ込まれた何かに手をまさぐらせた。それは堅い木で作られた一本の杖だった。
「わしゃあ、あんたに賭けたんじゃ。負けるのは許さんぞい!」
腕で鎖をガードをしながらほんの少し背後を見た。そこには雪嗣と、杖の持ち主であろう白髪の老人が寄り添っていた。リングの柵を掴み、大声を張り上げている。
「勝てッ! 勝てェ! 勝つんじゃ、剣術ボーイッ!」
「負けんじゃねぇ!」
老人が叫ぶ。雪嗣も何事か叫んでいる。会場の声にかき消されそうになっていたが、俺の耳にははっきり聞こえた。彼らの力の限りの声援が。感情の振り切れた声が。
だから思った。負けるわけにはいかない。
何としてもニコラスを沈めなければならない。
たとえこの身が朽ち果てようとも、必ず一本取らなければならない。
「このままでは終わらねぇぞ!」
鎖の攻撃を耐えるべくしゃがみ込んでいた俺だが、裂帛の気合いを上げ、外野から貰った杖を握り締めながら、リングの上に立ち上がる。
「タフだねぇ、坊や。だがこれで終わりだ!」
体重を乗せ、ニコラスの鎖が猛スピードで迫ってくる。
けれども俺は感じ取っていた。いま自分が手にしている獲物が、モップとは比べものにならないほど硬質なことに。
「くそがッ!」
渾身の力で跳ね上げた。鎖は軌道を逸れ、俺の体には当たらなかった。
しかしニコラスは迷わず直進した。彼の攻撃はコンビネーション。鎖で相手の隙を作り、体術でそこを狙い撃つ。さっきの前蹴りは効いた。何度も食らえば俺のほうが沈む。
判断は一瞬だった。俺は両手で杖を木刀のように握り締め、ニコラスの正中線に剣先を向けた。木刀での勝負では禁じられている技がある。だがいまここでくり広げられているのは稽古ではない、死にもの狂いの決闘なのだ。
だから俺は迷いを捨てた。足先に体重を乗せ、視線は一点を見つめる。
ニコラスはハイキックの体勢になった。俺の頭を狙い、一発で沈めるつもりなのだろう。しかしその体勢の崩れが、俺につけいる時間をつくった。
「突きィィィァッ!」
気合いを上げると杖はまっすぐに伸び上がり一点を穿つ。
ニコラスの喉元だ。
木刀で突きを食らえば相手は死ぬことがある。師範にそう教わった俺たち剣士は、普段の木刀稽古で突きを使うことはない。寸止めしようにも、当たる可能性もあるからだ。
その体に染みついた癖を、俺は気合いとともにうち捨てた。それはニコラスを殺すことをみずからに許したともいえる。
「ごがァ……!?」
斯くして俺の杖による突きはニコラスの喉を捉え、体重の乗った打突は彼の体を後方に吹き飛ばした。奴は頭から地面に落ち、リングの鉄柵にぶつかり動かなくなった。
悶絶。そうとしかいいようがない。
俺の突きはニコラスの喉を砕いたばかりか、脳震盪まで起こさせたのだ。
「勝者、剣術使いのボーイ!」
テンカウントの後、レフェリーが俺の側に近寄って、片手を高々と上げさせる。
乱れ飛ぶ賭け券。オッズは俺が不利だったので、客側に波乱が起きたのだろう。
俺はといえばニコラスの鎖攻撃で体はぼろぼろだった。幸い骨は折れていないようだが、鎖で打たれた箇所は腫れ上がっている。体力も使い切り立っているのがやっとだ。
そんな俺に、柵を乗り越え駆け寄る人物があった。俺に杖を貸してくれた老人と、顔を紅潮させた雪嗣だった。
「剣術ボーイ、よくやった! これでわしは大儲けじゃ!」
老人は俺の手を握り、何度も歓喜の声を上げる。
しかし俺は賭けをしていたわけじゃない。だから賭けの行方には興味はない。気になったのはニコラスが無事かということ。あの突きを食らって頭を強打した。ひとつ間違えば死んでしまってもおかしくない。勿論、俺も殺す気でやった。そうしなければ勝てる可能性はなかったと思う。
だから体を支えに来た雪嗣に、俺はふらつきながらこう尋ねる。
「雪嗣、ニコラスの奴は?」
「向こうを見ろ、何とか平気みたいだぞ」
雪嗣の示すほうを見れば、ニコラスはリングにぶっ倒れたまま、薄く目を開けている。気絶していたのが息を吹き返したのだろう。
そのことにわずかでも安堵しなかったいえば嘘になるが、特に深い感慨がなかったというほうが正しい。俺はニコラスとの勝負に没入し、そこまで自分を追い込んでいた。
「……坊や、おいちゃんの負けだ。勝利を誇ってくれ」
俺が側に近寄ると、ニコラスはここぞとばかりに紳士然としたことをいう。さすが貴族に仕える執事というところか。気高い振る舞いが自然に出ていた。
「あなたこそ無事でよかった」
俺は心にもないことを口走る。あれだけ殺意のこもった突きを打っておいて、どの口がいうのかという話だ。そんな自嘲が俺の頭をよぎった。
「玲、肩を貸す」
蓄積したダメージで俺がふらふらとしていると、雪嗣が柄にもないことをいってくる。
決闘という圧倒的な非日常によって、彼の見えない側面が表れたのか。
「気にすんな、俺なら大丈夫だから」
そういって雪嗣の助けを拒むも、体はいうことを聞かなかった。
リングサイドに歩いて行くと急激に眩暈が襲ってきた。文字通り、精も根も尽き果ててしまっていたのだろうと思う。
「どうした、玲」
「すまん。ちょっとヤバいかもしれない……」
その直後、視界が闇に包まれる。スイッチを切ったように、俺の意識は落ちていった。




