従者vs執事:弐
地階は人でごった返していた。一体全体どこから湧いて出てきたのかというくらいの人数である。しかも凄い熱気だ。人いきれがもの凄い。
彼らは客なのである。パブではなく、この地下決闘の賭け客。
ちょうど前の試合が終わったばかりのとき、客たちは次のファイターの登場に焦れながら雄叫びを上げ、荒ぶった野獣のような様子を見せる。
「レディース、アンド、ジェントルマン!」
パブの店主に耳打ちされたレフェリーがそんな客に静止を呼びかけた。告げたのは次のファイターの登場だ。
まずリングに入ったのはニコラス。奴は気合いを昂ぶらせ、肩で息をしている。
俺も大きく息を吸って、吐く。そして同時に、獲物のありかを探す。ふと見ればフロアの隅に道具入れがある。客をかき分けながら扉を開くと、手頃なサイズのモップがあった。これなら剣術に耐えうる。俺はモップの雑巾部分をへし折り、自分の武器とすることに決めた。
だがリングサイドに戻ると、予期せぬことが起きていた。
俺が道具の品定めをしているあいだに、雪嗣がリングに入ろうとしていたのだ。
「待て、雪嗣。闘うのは俺だぞ」
「そんなチャンス、おまえにやるか」
後ろから肩を掴む俺を押しのけて、雪嗣は鉄の柵を越え、リングに立ってしまった。
闘いたいなら闘いたいで、ひと言相談してくれればいいのに。これだからぼっちは。何においても自己完結しているので、他人から見れば独断専行に映る。
「喧嘩なら俺が上だ。おまえは隅っこで見ていろ」
そんな捨てゼリフを吐き、雪嗣はリング中央に歩いて行く。
「おや? お相手はあの坊やじゃなかったの。まあいいけど。どっちが相手だって、結局同じことだしな」
雪嗣を見下すようにニコラスがいった。リングに上がってみれば、彼は雪嗣よりだいぶ背が高い。おそらくリーチも長いのだろう。それは一見、ニコラスの有利を物語る。
しかし雪嗣は学校内外の喧嘩で無敵を誇った奴だ。その程度のハンデ、あっという間に乗り越えてしまうに違いない。ただし、相手が素手で来るならば。
「おい、誰か武器を貸してくれ!」
この地下決闘のルールは刃物と銃以外なら使い放題。そのメリットをニコラスが見逃すはずがなかった。
「こいつでどうだ!」
リング外から椅子が投げ込まれる。
「もっといいやつくれよ。重たくて攻撃力のあるやつをよォ!」
「兄ちゃん、これ使え!」
次に放り込まれたのはチェーン、鉄の鎖である。
「ほう、いいじゃん。これに決めた」
ニコラスは鎖を手に、満足そうに口の端を吊り上げた。
「坊や、おまえは武器を使わねぇのか?」
「素手で十分だ」
「生意気ぬかしやがって。後悔するぜ」
ニコラスと雪嗣が睨み合う。
「さあどっちに賭ける? どっちに賭ける?」
場外では賭け屋がチケットを売っていた。おそらくニコラスと雪嗣の姿を見て取って、賭け率が決まったのだろう。客はこぞって賭け屋に群がっていく。
「1:3で背が高いのだよ。さあ買った買った!」
耳に入る声から雪嗣は三倍のオッズをつけられたのがわかった。背も低く、徒手空拳で闘うことが影響しているのだろう。だが俺は知っている、雪嗣の比類なき強さを。
もし俺が賭け券を買うなら、迷わず雪嗣に賭けたかもしれない。ただし、ニコラスが武器を手にした今、本当にそうするだろうか。俺はわずかに不安がまさった。
「レディ、ファイト!」
レフェリーの合図で試合が始まった。
「後腐れなくやろうぜ、坊や」
ニコラスが背広をガバッと脱いで、リングの外に放り投げる。
「口数ばかり多い奴だな」
それに応えるように、雪嗣も上着を投げ捨てた。これでふたりとも、上半身が裸になる。死闘を尽くす勝負に相応しいお膳立てが整ったように見えた。
「フッ!」
試合が始まって早々、ニコラスは雪嗣からバックステップで距離を取った。鎖という獲物を持っているのだから、当然かもしれない。鎖は一種の飛び道具だ。
「すぐに沈めてやるよ……フン!」
ニコラスが腕を振ると、一直線に伸びた鎖が雪嗣の上半身にヒットする。重いムチを振り下ろしたような固い音がした。
ダメージは多少あったようだが、雪嗣は怯まず前に進む。素早く相手の懐に飛びこむ作戦だろう。鎖をくり返し使うには、必ずタイムラグが生じる。そこを突いて、雪嗣は近接戦闘に引きずり込もうとしているわけだ。
「フッ!」
左右のコンビネーションをくり出す。ダッキングしたニコラスはすんでのところでこの二発のパンチをかわす。だが背後には鉄柵が迫っていた。雪嗣の圧力によって早くもリング際に追い込まれた格好だ。
「フッ! フッ!」
鋭く息を吐きながら、雪嗣がパンチをくり出す。そのうち一発はニコラスの胸を、もう一発は顔面を捉えた。雪嗣をただの背の低い高校生と侮ってはいけない。こいつは天才的な戦闘力によって学校内外でその名を轟かした奴だ。ニコラスがどの程度の相手か、まだ底は見えていないが、あいつの拳をまともにくらっては明らかに不利に思えた。
しかし俺は計算に入れていなかったのだ。なぜニコラスが鎖を選んだかを。
「やるな、坊や」
「うるせえ。減らず口をきけないようにしてやる」
「おっかないねぇ。おいちゃん、殴り合いは苦手なんだ。だからこうしてやる」
飛び道具であった鎖は、ニコラスの手綱さばきによって俊敏なヘビのような動きをした。
懐に入った雪嗣の首に鎖が巻きついた。それはあっという間の出来事だった。
「鎖の動きは速えのよ。てめえの拳よりな」
「なめんな!」
「アホぬかせ。おいちゃん、殴り合いじゃてめえより弱いからさ。ちょっくら知恵使わせて貰ったわけ。ほれほれ、このままだと失神するのは時間も問題だぜ」
雪嗣の首に絡みついた鎖をニコラスは全力で絞めにかかる。
無論、雪嗣とて手をこまねいているわけではない。腰の入った重いパンチをニコラスの胸、腹に降り注ぐ。しかしニコラスは倒れない。鎖が邪魔をして、急所を捉えきれていないのかもしれない。
「おい、兄ちゃん。もっと頑張れ!」
「俺たちの賭け金を無駄にすんじゃねぇぞ!」
外野からは雪嗣を叱咤する声が響く。俺も彼らと同じ気持ちだった。
自分を押しのけてリングに上がったからには負けてはならない。そんなことは許さない。首を絞められたくらいでなんだ。おまえは喧嘩無敗の雪嗣じゃないか。
「くそ野郎が!」
そう叫んだ雪嗣が、首に巻きつけられた鎖に指を突っ込んだ。ことここに来てようやく、自分を苦しめるものが何かを悟ったのだ。
しかしその瞬間こそをニコラスは待っていたようだ。
「腹ががら空きだぜ!」
強烈な前蹴りを雪嗣の腹に食い込ませる。これまで雨あられのように降り注ぐパンチがガードしていた部分が、手を休めたことによって隙となってしまったのだ。
「オラオラオラァ!」
ニコラスの前蹴りは止まらない。そんなラッシュを止めるべく、雪嗣はニコラスの脚を掴んだ。両腕でがっちりと抱え込む。一体何をする気なのか。俺は固唾をのんだ。
「吹っ飛べ!」
雪嗣の体が反り返り、脚を支えにニコラスの体が宙に浮いた。まるで木こりが、大木を根こそぎ引き抜くような動作だった。ニコラスの顔にも一瞬、焦りが浮かんだ。
「うぉらァ!」
それは体の向きが逆なだけで、俗にいうバックドロップだった。起死回生の大技が炸裂し、ニコラスの体は顔からリングに叩きつけられた。
会場の誰もが「やりやがった!」という表情に染まったと思う。それくらいニコラスの落ち方は危険だったし、雪嗣の投げ技は美しかったからだ。
ところが事態は逆の結果を生んだ。ニコラスが倒れるとき、雪嗣の首に巻きついた鎖が瞬間的に引き絞られてしまったのだ。
「ぐはっ……!?」
頸動脈が思いきり絞めあげられたのだろう。ニコラスの顔面がリングへとめり込んだと同時に、雪嗣は意識を失った。動力の切れた機械のように、床にへたり込む。
このままではテンカウント取られてしまう。
「雪嗣!」
気づくと俺は大声を上げていた。これが奴の慢心が生んだ敗北か。
いや違う。ここで負けてはならない。なぜかはわからないが、俺の中でそういう強い気持ちが湧いていた。意志といってもいい。
「10……9……8……」
レフェリーはカウントを数え始める。雪嗣が立ち上がる気配はない。
けれども俺は、目の前の光景を受け容れるわけにはいかなかった。雪嗣は負けてはいけないし、何より俺たちが負けてはいけないのだ。
考える前に体が動いた。俺は柵を乗り越え、リングに上がっていた。
「なんだ、坊や?」
顔面の泥を拭いながら、ニコラスが立ち上がっていた。
その間にもレフェリーのカウントは続く。
「7……6……5……」
俺が今、何をするべきかわかっていたわけじゃない。ただ、負けたくなかった。動機はそれだけだった。
「あなたの喧嘩を買ったのは俺です。今のは前座。次こそ真剣勝負をしましょう」
「ほう?」
「4……3……2……」
レフェリーは大声を張り上げながら、試合をストップする準備に入っている。
その右手を掴む奴がいた。ニコラスだ。
「レフェリーさんよ、試合はまだ終わっちゃいねぇみたいだぜ」
「えっ……?」
レフェリーの浮かべた困惑は、会場全体を代弁していた。
一気に静まりかえる地下決闘場。
「そこの坊やが助太刀に入るってよ。おいちゃんは構わないぜ。試合続行といこうや」
レフェリーが場外に視線を投げる。そこには賭け屋がいた。おそらくパブの店主ではなく、彼がこの地下決闘場のオーナーなのだろう。
「賭け率がそのままならオーケーだが、会場の連中はどう思う?」
リングに上った賭け屋が数十人の客に呼びかける。彼らがノーといえば試合は終わる。テンカウントを迎えた雪嗣の敗北でジエンドだ。
「べつにいいぞ」
「次の兄ちゃんは弱そうだしな。オッズ五倍でもいいくらいだ」
「オッズはそのままなんだろうな」
「何度もいわせるな、三倍のままでいい」
そこまで話すとオーナーは俺とニコラスを見やった。特に俺はじろじろと見られた。背が低くともいかにも喧嘩慣れした雪嗣と違い、俺が本当に闘えるか気になったのだろう。なにせこの決闘場では死人を出してはいけない。見るからに弱そうな奴は決してリングに上げてはいけないと考えているように思えた。
「俺は死にませんよ。必ず勝ってみせます」
「わかった。存分に闘うといい」
最終的にオーナーの裁定が下り、ふたたびリングは喧噪に包まれた。失神した雪嗣は場外におろされ、代わりに俺が戦場に上がった。
「君は何か武器を使うのか」
試合再開前、レフェリーが俺に訊いてくる。
「こいつで結構です」
俺がレフェリーに見せたのは雑巾部分を折ったモップだった。先端の尖りを削ったので、相手を突き刺すことはできない武器になっている。純然たる木刀だ。
レフェリーは「そんな棒、何に使うんだ?」という顔をしているが、俺はまったく動じなかった。顔を傾け、ニコラスのほうを向く。
「こちらの無理を聞いていただき、感謝いたします」
「ご丁寧にどうも。ネヴィル家の従者もちったァ訓練されてるじゃねぇか」
「いえ、当然のことをしたまでです」
モップを右手に持ち、両手を脇に揃え、深々とお辞儀をする。
もっともこれは従者としての礼ではない。剣道の試合をするときの礼だ。礼に始まり、礼に終わる。体に染みついた動作だった。
相対するニコラスはレフェリーの合図を待ちきれないように、早くもぐるぐる鎖を回転させている。
「レディ、ファイト!」
鋭い声がして、試合が再開された。
「なあ、やり合う前にひとついいかい?」
遠間に離れたニコラスが俺に呼びかけてくる。
「なんでしょう」
「おいちゃんと鎖のコンビネーションは最強だ。だからひとつハンデをやるよ」
「ハンデ?」
「そう。こいつを教えといてやる」
傲然といってニコラスは左手を顔面に持っていった。何事かと思っていると、彼はそのまま指を眼窩にめり込ませ、
「こいつは義眼だ。おいちゃんは左目が見えないの。その隙を突いてみな」
ニコラスは手にした義眼をポケットにしまい込む。
その様子を見ながら、俺は考えた。これは何かの策略なのか、それとも単に俺がなめられているだけなのか。今は即断できない。闘いのなかで感じとるしかない。
「わかりました。そのハンデ、ありがたく頂戴します」
俺はモップの端を絞るように握り、相手の真意を探るべく、ニコラスの右側面に強烈な面をくり出した。




