ベアト様の御召し物
ベアト様の従者をもう一週間延長することになったのは、これまでお茶ばかり淹れていた俺に真の従者生活を強いることになった。
ベアト様いわく、従者とは、ご主人様の服、髪、身だしなみ一般に責任を負っている。主人の衣服にブラシをかけ、靴や靴下をそろえるのはおろか、冬には下着を暖炉で温めたりする。これまで女性対男性ということで棚上げされていたこれらの作業が、一度にどっさり降りかかってきたのだ。
わずかな名誉と自己満足の代わりに、俺は女性の身だしなみに気を配るという、かつて一度として携わったことのない仕事に従事することになった。たとえばこんな具合だ。
「おはようございます、ベアト様」
「おはよう、レイ。寝間着を脱がせ」
「畏まりました」
ダグラスさんのときはそうしていたのだろう。俺は衣服を脱ぐ手伝いもさせられる。勿論、脱いだその先に待っているのは下着姿のベアト様だ。思春期まっ盛りの男子としては、目のやり場に困ることこのうえない。
しかしこれは従者としての仕事なのだ。俺は狼狽する自分を隅に追いやり、冷静さを取り戻しながら、ベアト様がお脱ぎになった寝間着をきれいに折り畳む。
「レイ、部屋着に着替えさせろ」
「畏まりました」
次に衣装ダンスからお召し物を取りだし、下着姿のベアト様をできるだけ見ないようにしながら、上着、スカートの順に着用されるのをお手伝いする。気にするのは衣装にたるみはないか、余計な糸くずがついてないか、身だしなみは調っておいでになるか。
ハウスメイドである月の洗濯も、元の世界ほど便利な機械はなく、少々しわが残っている場合がある。従者としてはそういうしわを目ざとく見つけ、手できれいにならすことが求められる。貴族は見た目が九割。内面が表に表れると思っている彼ら彼女らにとって、衣服の着こなしは最重要事項だ。従者はその管理を一身に担う。
しかし以前にいったかもしれないが、ベアト様はこの世界の基準に従えば、一風変わったお召し物を着用あそばされる。きょうのご指定はリボンのついたクリーム色のブレザーと、ご自分で仕立て直したという同色の丈の短いスカートだった。お気づきの方には丸わかりだろうが、これでは元の世界でいうところのお嬢様系女子高生である。
「レイ、リボンの部分がよれてないか?」
「問題ございません」
すらっとした肢体に服を着せる作業は、まるで等身大の人形に服を着せるような錯覚を呼び起こす。その気分はどこか背徳的だ。意訳すると犯罪の臭いがする。
とはいえここまではいい。問題は上下の衣服を着用されたあとのことだ。
「レイ、靴下をはかせろ」
「畏まりました」
ベアト様がいった靴下。それは黒いタイツを太もものあたりで切ったものである。
彼女は最初にそれをはかせるとき、こんなふうにいって胸を張った。
「私はこの靴下のことをニーソックスと呼んでいる。どうだ、よい名称だろう」
まるでファッション界のオピニオンリーダーのような発言。確かに彼女は時代の最先端をいっているのかもしれない。この世界の常識を軽々と打ち破って。
そんなことを考えながら、俺はニーソックスを足先にあてがい、心を落ち着かせながら太もものほうに滑らせていく。
途中で指先が肌に触れるが、気にしてはならない。こんなことはアクシデントのうちに入らない。貴族は従者を、家具と同じく物のように扱う。だから自分の体に触れられても、人間に触れられたと認識しないという話をどこかで読んだ気がする。
だから、俺は家具なのだ。肌に指が触れた程度で動揺することはない。
そう念仏のように唱えて、心頭滅却していると、
「こうしてニーソックスをはかせていると、衣服を着させるときとは別格の背徳感があるな。おまえを屈服させている感じがして実によい」
背徳感を感じていらっしゃる!? 俺は家具じゃないのかよ!
「ご冗談はおよしくださいませ」
心頭滅却して火もまた涼しくなった俺はぎりぎりの理性を保ち、いかにも従者らしいセリフを呟きながら平伏した態度を崩さない。危ない。動揺が顔に出るところだった。
「そんなに動揺するな。私はおまえを傅かせることに喜びを見いだしたが、それは主が従者に感じる最も素直な感情だろう。できの良い家具ほど愛着がわくというものだ」
動揺が見破られている!? そしてやっぱり俺は家具ですか!?
キモいひとりツッコミを入れながら、俺は本格的に気が動転してしまった。がくがくと手が震えている。ちょうどニーソックスをはかせ終わったところなのが幸いである。
「さて、お茶にするか。きょうはどんなお茶だ?」
「アッサムでございます。ミルクティーにいたしました」
「そうか」
俺を一方的にもてあそんで、ベアト様はお茶を美味しそうに飲まれる。
「いいな。おまえが淹れた紅茶は格別だ」
「かたじけなく存じます」
「頑固なアルの奴は反対したが、本当に専属従者にしたいくらいだ。レイだってそう思うだろ?」
「勿体ないお言葉です」
ベアト様が俺に信頼をおいてくださっていることは素直にありがたい。
人付き合いが悪い俺だが、主人と従者というコミュニケーションの型があれば、意外とそつなくこなせることに最近自分でも驚いている。もっともそれはベアト様との相性がよかったせいでもあるだろうけど。
それに俺自身の変化もある気がする。以前は他人の領域に踏み込まないことをモットーにしていたが、人間関係は0か1で完結するわけではない。ちょっとだけ足を踏み入れることだってできる。それができれば、他人とうまく付き合える。馬と同じだ。この屋敷に来て、俺はアルやベアト様に少しずつ調教されてしまったのだろう。
「それでは失礼いたします」
従者としての朝仕事を終えた俺は、階段を下って使用人室に向かう。そこにはここ数日はらはらし通しのダグラスさんが待ち構えていた。
「レイ、お嬢様のお相手に粗相はなかったろうね?」
「恙なくお相手いたしました」
「それだったらいいんだけど……あのベアト様が専属従者にしたいだなんて、まったく何を考えていらっしゃるのかしら」
ダグラスさんはベアト様の侍女を更迭された立場なので、いまだにベアト様の動向が気になって仕方ないようだ。確かにあの変人ぶりでは心配の種は尽きないだろう。
「きょうもまたあの短いスカートを?」
「ええ。見事に着こなしておいででした」
「見事なもんかい。ご令嬢は華やかなロングドレスと相場は決まっているの。あんな男か女かわからないような格好をされて、社交界デビューは近いというのに」
また社交界か。この世界の住人にとってよほど大事なイベントのようだ。
「レイ、あなたからも進言して貰えないかしら。あなたのいうことならお嬢様も少しは耳を傾けてくださるかもしれないし」
「どうでしょう。私はその是非については判断する立場にございません。ベアト様のご命令に従うまでです」
ベアト様のお考えを変えることなど面倒きわまる。それに彼女のやり方や考え方は間違っているようには思えない。だから俺はやんわりと却下した。
その日の午後。銀食器磨きを終え、使用人室でひと息ついていた俺のところにベアト様がやってきた。
「レイ、きょうは午後休だろう。ちょっと散歩に出よう」
口ぶりは淡泊だが、ご令嬢と散歩など従者に許されるのだろうか。まっさきにこの世界のルールが気になったが、書斎に行ってアルに尋ねると、
「ベアトが望むのならいいんじゃないかな。君も休みなら咎める筋合いではないし」
「承知いたしました」
アルの許可を得たとあれば、特に用事もなかった俺に断る理由がない。
ベアト様は外出が決まってにこにこ顔である。
「それではベアト様、本日はどこまで参りましょう?」
「ロンドンにでも行くか。タウンハウスに泊まってあす帰宅するんだ」
一泊二日のランデブーですか!? それはいろいろまずい気がする。あすの仕事に差し障るし、何よりふたりの男女が一つ屋根の下で過ごすのはいくらベアト様が奔放な方だとはいえ、奔放がすぎると思うのだ。いつもの調子で「お、おう……」ときょどりそうになった俺だが、それはオーケーの合図だ。ここは反論しなければならない。
「ロンドンは些か遠いかと存じ上げます」
「シルヴァーゴーストで行けば問題あるまい」
それはネヴィル家所有のロールスロイスのことであらせられるか。しかし誰が運転するんだよ。俺は馬以外乗れないぞ。
「運転は私がする。バークマンに習って運転に関しては問題なしだ」
「マジですか!?」
俺は驚きのあまり日本語でツッコんでしまった。
「それではさっそく準備しよう」
日本語のツッコミだったので華麗にスルーされてしまった。
「せめて日帰りにいたしましょう」
それは最大限の抵抗だった。泊まりの準備をなさる前に、彼女の愚行を何としても食い止めねばならない。
「ベアト様、お言葉ではありますが、私はあすの仕事に差し障ることを恐れています。それを押してご出発なされるとあらば、少々わがままが過ぎるかと」
「わがままではない。私は欲張りなんだ」
同じことではないかというツッコミはよしておこう。俺もこれ以上は言葉がなかった。
「さあ、行くぞ、レイ。私の部屋に来て荷造りを手伝え」
「……承知いたしました」
ついに抵抗の一線は破れ、俺は不安いっぱいのまま深々とお辞儀をした。




