卿の名誉
突然だが、指紋採取の簡単な方法をご存じだろうか。
必要なものはまずは粉。これは小麦粉でいい。
次に刷毛。これは綿毛のついた耳かきでいい。
最後にセロハンテープと黒い紙。これだけあれば、警察に頼らず素人でも物体に付着した指紋を採取することができる。
手順も難しくない。耳かきに粉をつけ、対象物に振りかける。浮き上がった指紋にセロハンテープを貼り、はがして、黒い紙の上に貼り付ける。たったこれだけで指紋が採取できる。俺の指紋と見比べれば、無罪は証明される。
ただし、ひとつ問題がある。この時代にはセロハンテープがないのだ。
セロハンテープは一九三〇年、アメリカの3M社によって開発された。この時代は確か、一九一四年。開発以前であれば使うことができない。
タバコ入れの件に話を戻すと、俺は絶対に盗んでいない。ということは、その物体にまったく触れてないことになる。なので、身の潔白を示すうえで一番明瞭な方法は指紋が付着してないことを照明することだった。
唯一の穴はこの時代にセロハンテープがないことである。この時点で俺の思考は詰んだと思った。道具がなければ指紋採取どころではないと。
けれどそこで俺は思い出したのだ。月が転移するとき、元の世界から学校指定のバッグを持ってきていたということを。
「玲さん、戻りました」
斯くして月は階段を駆け下りて、食堂へ転がり込んできた。
「アレは見つかったか?」
月の答え次第で俺の運命が決まる。緊張で声がうわずった。
「ありました。玲さんは運がいいです」
そういって月は学校指定のバッグからセロハンテープを取りだした。
その様子を見て、さすがに未来の世界から転移したアルは、俺が何をしようとしているのか即座に理解したようだった。
「ご主人様。これからタバコ入れの指紋を採取いたしたく存じます」
「いいよ。存分に確かめるといい」
「つきましては、手袋を貸してくださいませんか」
「ダグラス。白手袋を持ってきてくれ」
アルの指示で、ダグラスさんがハウスメイド室から手袋を持ってきた。俺はその手袋をはめ、周囲の疑り深い視線をできるだけ気にしないようにし、さきほど述べた手順で無事指紋を採取した。指紋は複数あったが、その全てにセロハンテープを貼り、黒い紙に採取していった。
「ウェルベック卿。あなた自身の目でお確かめになってください」
俺はアルではなく、ウェルベック卿に呼びかけた。身内の者に確認させてはフェアではない。このなかで一番俺に嫌疑をかけているであろう卿にわざわざ頼んだのだ。
「いいだろう」
卿は俺の隣にやってきて、黒い紙に付着した指紋と、俺自身の指紋とを見比べた。何とか粗を見つけ出そうとしたのだろう。確認は時間がかかった。黒い紙の指紋と俺の指紋が照合しないとわかったのか、今度は自分の指紋と見比べる。
「これは……私の指紋だ」
数分後。卿がいった言葉が全てだった。犯罪の嫌疑は晴れた。俺は胸をなでおろす。
「しかしそうなると、これは一体誰の仕業だ?」
呻くようにウェルベック卿がいう。それはこの場の誰もが思った疑問だろう。タバコ入れは盗まれた。しかしそれが発見された部屋の主である俺の犯行ではない。ならば真犯人は一体誰なのか。
肝心のタバコ入れは見つかったのだし、犯人捜しは棚上げにする。そういう選択もできたはずだ。その証拠にアルは腕組みをして瞑目している。この場をどう裁定しようか、頭を悩ませているように見えた。
ところが事態は意外な方向に動く。これまでじっと黙っていたダグラスさんが、重たい口を開くように、アルに向かって小さく呼びかけたのだ。
「アルバート様、実は私、昨晩妙なものを見てしまったのです」
「妙なもの?」
「はい。犯人はレイということで、進言を避けていたのですが、見てはならないものを見てしまったというか、今さら申し出るのは心苦しいのですが」
「気にするな、ダグラス。率直に申すといい」
「わかりました、ご主人様」
空気を吸って、ダグラスさんは一拍おく。ついで息を継いで話し始めたことは、俺だけではなく、この場に揃った全員を引きつけるような事柄だった。
「昨晩、私、物音に気づいて起きてしまったんです。慌てて部屋から出たところ、そこで見てしまったんです。昨晩、ユキが階段の側で佇んでいるところを。ちょうど女性使用人と男性使用人を区切る部分でした」
「雪、君は昨夜、外に出たのか?」
ダグラスさんの進言を引き取って、アルが慎重な口調で雪嗣に問い質した。
「私ではありません」
その問いに雪嗣は強い調子で切り返す。
「しかしダグラスさんは君を見たといっている。何しに外へ出た?」
「陶磁器の収納庫の鍵を閉めたか気になりまして、確かめるために外へ出ました。そのときに物音がしたので女性使用人区域の階段まで。大したことではありません」
「大したことかどうかはぼくたちが決めることだ」
アルにしては断固たる口調でいった。これには雪嗣も腹を立てたのだろう。もともと目つきの悪い彼の三白眼がますますキツくなっていく。
「そこの従者。悪いが貴様の指紋も採取させて貰う。異存はないな?」
「…………」
ウェルベック卿の問いかけに対して雪嗣は無言だった。しかし小さく舌打ちをしたように俺には聞こえた。雪嗣は俺以上にプライドの高い奴だ。おそらく無罪であろう自分に嫌疑が降りかかっただけで、彼の自尊心は大いに傷ついたのだろう。それにこの世界の雪嗣は自分の感情を表に出してしまう奴だ。いまにも爆発しそうな顔で歯噛みしている。
素直に指紋を採らせればいいのに、どうして雪嗣の奴は融通が利かないのだ。俺はそう腹の中で思いながら、べつのことも考えていた。
ダグラスさんが聞いたという物音は、俺の推量が正しければ、月のもとへ夜這いをかけたウェルベック卿の立てたものだろう。そして雪嗣は偶然物音に引かれていった。事態を客観的に見られる俺には、昨晩の構図はくっきりと明瞭だった。
ここで雪嗣を救うのなら、俺の見立てをアルに申し立てればいい。
しかしだ。ウェルベック卿の夜這いを表沙汰にすることはベアト様に禁じられている。俺は彼女の許しがない限り、雪嗣のことを助けられない。
「…………」
何気なさを装ってアイコンタクトを送ったが、ベアト様はそっぽを向いてしまっている。あとは雪嗣がキレるのを我慢しきれるか否かだ。
そう思ったとき、雪嗣は最悪の行動に出た。
「くだらない……馬鹿馬鹿しい茶番に巻き込まれたもんだ」
陰湿な態度で使用人にあるまじきことを言い放った。この世界に来てから、使用人が貴族に逆らったのを見るのは初めてである。こんなレアケース、滅多に見れるもんじゃない。
素直に従っておけばよかったのに。そう考えても後の祭りだ。雪嗣にとってこれは言い訳のしようがない失点となったろう。犯人ではなくとも、犯人扱いされるおそれは十分にあった。
事実、ウェルベック卿は美しい顔立ちを歪め、憤怒の表情を浮かべていた。
「我々貴族に逆らうとは。ネヴィル卿はどういう教育をされているのですかな」
「申し訳ありません」
管理者責任というやつである。アルは卿にゆっくりと頭を下げた。
「もう指紋を調べるまでもありませんな。いまの態度が全てを物語っている。私のタバコ入れを盗んだのはそこの従者だ。罪はその身で償って貰うぞ」
案の定、ウェルベック卿は一方的に雪嗣を犯人だと断定した。アルは苦渋の表情を浮かべている。雪嗣を守るにしても材料がない。そのことを感じさせる顔だ。
もしこの場にカーソンがいたら、もっと上手に立ち回っただろうに。
そんなことを思いながら視線を動かすと、こちらをじっと見つめる視線と鉢合った。
他ならぬベアト様である。
アイコンタクトで何かを必死に伝えようとされている。無論、相手の心を読み取れるほど俺は訓練された従者ではない。しかしわずかながら感じ取れたものがあった。
それは、俺への期待である。なんとか頭を使ってこの場を乗りきれ。ベアト様のまなざしからはそんな意志が感じ取れた。
間違っているかもしれない。でも間違いでもいい。俺は期待されている。その期待には、従者として応えなければならない。
俺は考えた。ベアト様が何といったか。卿の名誉を守れと仰った。ゆえに昨晩の夜這いについては公表できない。それが以外の手段で事態を打開しなければならない。
俺は考えた。考えに考えた。こんなに頭を使ったのは高校入試のとき以来だ。
結果、俺は雪嗣を擁護する方法がたったひとつあることに気づいた。
その着眼点に従い、俺はアルとウェルベック卿のほうを向き、静かに口を開いた。
「ご主人様。実は黙っていたことがございます」
「……なんだ、玲。申してみろ」
アルは苦り切った顔のまま、俺のほうを食い入るように見つめてくる。
「雪嗣は無罪であります。彼はダグラスさんに目撃されましたが、おそらく同じ時刻、同じ場所に私もいたのです。何か物音がするので、その物音を追って女性使用人区域に足を踏み入れるところでした。雪嗣が有罪なら、私もまた有罪であるはずです」
その抗弁が与える影響はいかほどか。
「なるほど」
アルは小さく頷く。だが、ウェルベック卿は、
「まったくにならんな。こっそり外出したのがふたりなら、どちらかが犯人というふうに判断するまで」
怒りの矛を収めようとしない。変わらず険しい表情で俺を見やる。
身分の高い貴族からそんなキツい視線を浴びたら、正直びびってしまうところだ。しかし考え方を変えてみよう。相手を貴族だと思わなければいい。剣道の稽古相手だと思えばいい。そうすれば心は折れない。難事にも立ち向かっていける。
「ウェルベック卿。私か彼が犯人というのはナンセンスです。私たちは執事の座をかけて争っている状況です。些細な物音を気にしたのも、全ては自分こそが優れた従者だと証明するため。互いのライバル意識から出たことです。そのような我々がなぜ卿のタバコ入れなどを盗むでしょう。バレたら身を滅ぼすと知って、どうしてそのような犯罪を冒すでしょう。そのことを是非お考えください」
長い演説をぶって、俺は徐々に卿のそばに近寄る。
その圧力を感じたのか、卿はさらに苛立った声でこう罵声を浴びせた。
「貴様がいっているのは戯言だ。確たる証拠に基づかない限り、私は納得せん。貴様やそこの従者が犯人でないとするなら、証拠を出してみろ、証拠を」
次第にテーブルを拳で叩き、俺を威嚇してくる。
だがそのひと言が致命的だった。素直に矛を収めればよかったものを。俺は静かに卿に近寄って、最後の切り札を小声で囁く。怒りで赤く染まった卿の耳許で。
「昨晩あなたがなさった夜這いのことを残らず話せば、そこの従者の潔白は明らかになる。それでもよろしいでしょうか?」
物音を立てたのはウェルベック卿。その音に気づき、ダグラスさんが雪嗣を見つけた。
「いいですか、卿。もしあなたの所業が明るみに出れば、従者が廊下にいたのはあなたのたてた物音が原因だと証明されてしまいます」
俺はベアト様に口外するなといわれただけで、直接本人にいうなとは命じられていない。だからこれは命令違反ではない。卿の名誉は守られている。
そして俺は耳許から口を離し、
「無事タバコ入れが見つかったことで、全てを不問に付してはいただけないでしょうか」
卿の前で慇懃無礼なまでに深々と平身したのだった。
「…………」
さすがに衝撃を受けたようだが、状況を正確に理解したのだろう。一瞬のあいだ、黙りこくっていた卿だが、すぐさま貴族としての威厳を取り戻したように、
「ふむ。問題のタバコ入れは見つかったわけだし、貴様のいうことも一理ある。これ以上追及するのは止めておくこととしよう」
「懐の大きなご裁定、ありがたく存じます」
名誉を守られた上、卿は高貴な態度をお示しになられた。
アルをはじめ、屋敷の住人は全員、ほっと安堵の息を漏らした。ひとりだけ仏頂面だった雪嗣も、視線を明後日のほうに向けている。俺が庇ったのでバツが悪かったのだろう。
しかし、この場で一番人心地ついたのは何を隠そうこの俺だ。
卿がトランザム卿のような感情のコントロールできない人物でなくて本当によかった。
そんな放心した様を悟られないよう、俺は卿の偉大さに恐れ入ったかのように、アルが「顔を上げろ」というまで静かにひれ伏し続けたのだった。




