燕尾服の男
目を覚ますと俺は、古めかしい馬車に乗っていた。
隣には月がいる。
薄暗い空からは粉雪が舞っている。
見れば、俺たちは伝統的なコートを着ている。冬なのだろうか。
月の肩には学校指定のバッグ。
俺はポケットにあったスマートフォンを取りだす。電波は全くつながらない。
馬の走る動きが振動となって、背中をぽくぽくと叩く。
それにしてもここは一体どこなのだろう。皆目見当がつかない。
本当に死後、どこかの世界に転移してしまったのか。
俺は隣にいる月に声をかけてみた。
「なあ、月。俺たちどうなっちまったんだ?」
「交通事故に遭って、気づいたらここでした」
「おまえも轢かれたのか?」
「ええ。玲さんに庇ってもらったのに、みんな轢かれてしまって」
「全員やられちまったのか」
「その可能性が高いです」
「わかった。つらい話させちまったな、月」
そこで気づいた。心の中だけ友達プレイが表に出てしまっていることに。
「うわあああ、いまのなし! 聞かなかったことにして!」
羞恥心に動揺した俺は、ひとり泡を食って叫ぶ。
だが、月は冷静だった。
「べつにいいですよ、名前で呼んでも。私も玲さんって呼んでますし」
「まじで? そういって貰えると助かるな」
俺の友達プレイが承認された瞬間である。心の中でファンファーレが鳴る。
そんな感じで気を取り直した俺は、馬車に揺られながら周囲をぐるりと見渡す。
荒涼として寒々とした景色。どこまでも続く平原。
思いっきり幻想的な光景だ。ここはどこなんだ……?
とはいえ自分でも意外なことに、心は落ち着いていた。
俺はついさっき、暴走したアウディに轢かれ、死んだはずなのに。
潰れたはずの内臓も無事だ。体の痛みもない。
視線を戻すと、月の首には十字架のネックレス。
馬車の動きに揺れ、銀色の光を放っている。
「ロンドンの孤児院からは遠いでしょう。でももうすぐ着くから」
ふと前のほうから、馬車の御者が耳慣れない単語を呟いてくる。
ロンドン? 孤児院?
一体なにを言ってるんだ?
自分たちのことを言われているのだろうか?
状況認識がおぼつかず、唐突な新情報に頭がついていかない。
「…………」
俺が沈黙していると、馬車の御者はそれっきり黙ってしまった。
彼に聞けば、この世界の真実がわかるのだろうか。
よし、勇気を奮って尋ねてみよう。
そう思ったときだった。
「ヒヒィイイイイン!!」
鋭い嘶きを上げて、先頭の馬が暴れ出した。
馬車が左右に大きく揺れ、隣の月とぶつかる。頭と頭がごっつんこしてしまった。
「ごめん、月!」
「私はだいじょうぶです……あっ、玲さん!」
「うおっ!?」
今度は馬車が左側に傾き、俺はぬかるんだ道に放り出されてしまった。
そして運の悪いことに頭を強打してしまう。
(内臓のつぎは頭かよ、ちくしょう……)
ふたたび意識の渦に投げ込まれ、俺の視界は暗い闇に覆われた。
◆
次に目を覚ますと、俺は殺風景な部屋のベッドに寝かされていた。
「起きましたか、玲さん?」
枕元には月がいた。俺は彼女に看病されていたようだ。
「顔の泥を拭ってますから、こっちに向けてください」
「ああ、悪いな」
冷たい水を絞ったタオルで頬のあたりを丹念に拭かれる。
気づけば頭の痛みもない。
馬車から放り出されたとはいえ、軽傷で済んだのだろう。
「泥道で助かったな。これがアスファルトだったら大けがしてたよ」
「そうですね、舗装されてない道でした。まるで田舎道です」
意識がはっきりするにつれ、俺の中に肝心な問いが湧き上がってくる。
「なあ、月。ここが一体どんな世界かわかるか?」
「いいえ、私にもよくわかりません」
そう答える月だが、俺には自分の転移先に、徐々に察しがついてきた。
まずここは病院ではない。病院なら看護師が俺の世話をするからだ。
ひょっとすると、死後の世界なのだろうか。
その可能性はある。
可能性があるといえば、植物人間状態で見る夢という説もありえるだろう。
そしてネット小説でお約束の、異世界という説も。
ざっと推測を重ねたが、答えを絞りきれるほどの情報がない。
しかし今のところ、エルフもゴブリンも出てこない。魔法で治癒されるというイベントが起きた気配もない。ファンタジー世界ではないのかもしれない。
そう確証した理由のひとつとして、枕元の灯りは電球仕掛けだったのだ。
剣と魔法の世界なら、ここは前近代的なローソクであるべきだろう。
中世的世界観というわけでもなさそうだ。
こういうことなら、もしかすると月のほうが核心に近いのかもしれない。
俺はなにげない調子で、彼女に問いをぶつけてみた。
「月。外から入るとき、この建物ってどんな感じだった?」
「大きなお屋敷でした。馬車の御者さんが連れてきてくれたんです」
お屋敷か。どうりで窓のつくりがしっかりしているわけだ。
しかも窓の外に視線をやれば、ここが何階建ての建物かだいたい想像がつく。
「三階建てってところか。個人の家にしてはデカいな」
「ええ。壮麗な造りで、庭も大きくて、いかにも邸宅って感じ。私もびっくりしました」
いまのところ集まった情報を総合すれば、俺たちはどこかの屋敷にいる。
その世界を取り巻く環境は、どうも中世的世界ではないらしい。
電気が通っていることを鑑みるに、文明の発達した世界のはずだ。
とはいえこの殺風景な部屋の備品は、全て煤けた色の木製家具で、俺たちの時代ではありえない古臭さだ。
そして死後の世界か、転移世界かは、確証することができない。
と、そこまで考えて、俺は交通事故のフラッシュバックに襲われた。
生々しい交通事故のシーン。その記憶はいまも鮮明だ。
だが、
「う、くっ……!」
片手で頭を抱えながら、俺はあるひとつの喪失に気づいた。
鮮明な死の記憶に比してそれは、深淵にぽっかりとあいた穴だ。
(俺、自分に告白した相手のこと、何も覚えていない……)
そう。修学旅行中、俺を悩ませていた「告白」の相手のことを忘れている。
告白があったことすら曖昧だ。
これはつまり、記憶を失っているのか?
自問自答する俺。
「どうしたんですか、玲さん?」
心配そうに覗き込んでくる月。
「いやあ、べつに大したことじゃない。それより月」
「はい?」
「おまえ、記憶とか失ってないか?」
「あ、そういえば」
月にも思い当たるふしがあるようだ。
ここが転移世界なら、何かしら共通のルールがあるはずだ。その規則にのっとり、俺たちは記憶を失っているのかもしれない。だが月の答えを待つ間もなく、誰かが部屋へ乱暴に入ってきた。
「怪我の具合はどうだ?」
長身の若い男性である。
しかし見た目の特徴は背の高さにはない。
その男性は、驚くべきことに立派な燕尾服を身に纏っていたのだ。
(燕尾服……? これから結婚パーティでもやるのか?)
この世界にやってきてから初めて感じた強い違和感。
「体のほうはもうだいじょうぶです。ご迷惑おかけしました」
そう答える俺に頷き、燕尾服の男は厳格な調子で命令を発した。
「ご主人様がお待ちだ、外へ出ろ」
はぁ? ご主人様? なんのギャグ?
たぶん俺は、眉をひそめ、大層訝しげな顔をしたのだろう。
「チッ……!」
燕尾服の男は聞こえよがしに舌打ちをし、俺と月を部屋の外に連れ出した。
「これから書斎へ行く。くれぐれも粗相がないようにしろ」
機嫌の悪い男を前にして、世界の謎に頭を巡らせる余裕はなさそうだ。
問いを投げかける間もなく、俺たちはその男の後を着いていくしかなかった。