濡れ衣
翌朝、俺はベアト様の従者としてモーニングティーの給仕に上がった。ベアト様はもうぱっちりと目を覚ましており、俺の報告を首を長くして待っていた。
「ルナの身は守れたか?」
配膳したお茶には目もくれず、単刀直入に訊かれる。
「身を守ることには成功しましたが、あいにくウェルベック卿が夜這いをかけてきまして。それを撃退するために、わずかながら手荒い真似をしてしまいました」
「傷を負わせたのか?」
「いえ、羽交い締め程度です」
「それならよし。卿の火遊びを未然に防げたといえよう。よくやった、レイ」
「勿体ないお言葉です」
俺は右手を胸に抱え込み、深々とお辞儀をする。
「つきましては、ベアト様」
「なんだ?」
「この一件はいかように扱ったらよろしいでしょうか。アルバート様にご報告申し上げるべきかと存じますが、事が大きくなるのを避けたほうがよろしいかとも思いまして」
「賢明だな。アルには報告せずにおけ。月の身を守ったその次は、卿の名誉を守らねばならない。万が一、使用人に知れ渡ったらまずいことになる。卿が無事ご出発なさるまで、昨晩の話はここだけに留めておくように」
「承知いたしましたが、もうひとつ懸念がございます」
「申してみろ」
「昨晩の一件、卿の視点に立ちますれば、羞恥の失態でしょう。まさかそれを承知で苦情を申し立てるとは思いませんが、もしアルバート様にクレームをおつけになった場合は、いかに対処すればよろしいでしょうか」
「そのときはみずから墓穴を掘ったものとして諦めよう。我々にできることは昨晩の件を口外しないことだ。ルナにもよく言いつけておけ」
「御意」
ベアト様の部屋を出た俺は、ハウスメイド室に行き、新しいベッドシーツを揃えていた月をつかまえ、昨晩何があったかひとまず内緒にしておいてくれと言い含めた。
「これはベアト様からの命令でもある。きのうウェルベック卿が夜這いをかけたことは、気になるだろうけど今は黙っておいてくれないか」
「ご命令とあれば仕方ありませんね。メイドとしては従うまでです」
自分が寝込みを襲われたのだから、真相を知りたいと思うのは人の常だ。そこを押して頼んだのだから、俺は後ろめたい思いに囚われた。月にはあとで謝っておかねばなるまい。
こうして昨晩のトラブルなどなかったかのように朝食の時間となった。食堂にはアルとベアト様が揃って着席している。
朝食は新鮮な野菜を使ったサラダとパンケーキ。雪嗣と俺で配膳を終え、あとはお茶を淹れ、ウェルベック卿が現れるのを待つばかりとなった。
「卿、おはうございます」
入口のほうをさっと見て、頭を下げたのは雪嗣だ。
「夕べはよく眠れましたか?」
席に着いていたアルが微笑を浮かべながら話しかける。
俺は胃の縮む思いで顔を上げる。その視線の先にウェルベック卿の姿があった。彫りの深い表情は一見穏やかだが、口を真一文字に結んでいる。そして自分の席に着くかと思いきや、銅像のように固い表情を主人であるアルのほうに向けた。
「ネヴィル卿、少しばかりよろしいか?」
「なんでしょう」
「ここではまずい。ちょっとこちらへ」
ウェルベック卿がアルを食堂の隅に誘う。席を立ったアルが戸惑ったような顔しながら卿のあとをついていく。小声でかわされる会話は俺たちのほうまで聞こえない。時間にすればわずか一分ほど、卿はアルに内緒話をされていた。
すわ昨晩の一件かと俺は内心、飛びあがるほど驚いていた。自分より遙かに身分が高い彼らを本気で怒らせたらどうなるか。俺は気が小さい。未体験の出来事にはめっぽう弱いのだ。
やがてアルが卿を連れてテーブルへ戻ってきた。なにごともなければふたたび着席して朝食となる。しかしアルはそうしなかった。テーブルに手をつき、隣に立っていた雪嗣に控えめだが張りのある声でこういったのだ。
「雪。使用人を全員、ここに呼んでくれ」
「……御意」
突然の命令に雪嗣も訝しむ顔。すぐさま使用人室に走りだしたが、その速度から切迫の色が見て取れる。
「アル。何があった?」
落ち着いた口調だが、鋭く質問をしたのはベアト様だった。彼女は昨晩の夜這いを知っている。卿がその苦情をアルに申し立てたと直感的に感じ取ったのだろう。
「…………」
アルは答えない。ベアト様のほうを向くわけでもなく、テーブルの一点を見つめている。
やがて使用人室から、紫音、月、デシャン、ダグラスさん、バークマンの五人が食堂に小走りで入ってきた。それぞれ急に持ち場を離れ、慌てた様子が伝わってくる。
「みんな揃ったようだね」
階下の住人を順繰りに眺め、アルは最後に俺の顔を見た。眉根を寄せ、困りきった顔をしている。昨晩の件がアルにバレたのか。卿に暴力を振るった犯人として俺は吊し上げられるのか。そのことを覚悟した。せめてベアト様が擁護してくれればと願いながら。
「実はこの屋敷で起きてはならないことが起こった。ウェルベック卿の私物が盗まれたのだ。盗まれたのは卿の父君の形見であるタバコ入れ。昨晩はあったものが今朝になったら紛失していたとのことだ。君たちの犯行でないことを祈りたいが、無くなったという事実は動かしがたい。これから全員の部屋を点検させて貰う」
ひと息にいってアルは、卿の顔に視線を戻した。アルの口から発せられた言葉は、昨晩の件を咎めるものではなかった。
「これから卿とベアト、私の三人で点検を行う。ご同席願えますか?」
「勿論だとも」
「ダグラス。部屋の鍵を渡してくれ」
「御意」
大変なことになったと俺は思った。これは夜這い程度では済まないことが起きたのだと。穏やかな日差しが降り注ぐなか、泥棒捜しのために屋敷の総点検が始まるとは。
点検の最中、俺たち階下の住人は使用人室での待機を命じられた。
「俺ではないぞ」
重苦しい空気を破って、雪嗣が潔白を主張した。
無論、その思いはこの場の全員が共有しているものだろう。形見のタバコ入れが消えた以上、犯人はきっといるのだろうが、そもそもそんな犯行が本当に起きたのだろうかと訝しむ表情をしている。少なくとも俺には、この場の空気をそのように読み取れた。
そして時間にすれば一時間ほど経っただろうか。アルを先頭に、点検に関わった貴族が使用人室に入ってきた。
「食堂に集まるように」
アルはそれだけいって、食堂に向かう。その手にはシルクのハンカチ。載せられているのはタバコ入れだろう。形見というだけあって宝飾品があしらってある。
「やむを得ぬ事情とはいえ、みんなの部屋を家捜しさせて貰った。まずはそのことを謝りたく思う」
使用人全員を前にアルは開口一番そういった。
問題は次のセリフだ。俺はもとより、他の使用人たちの緊張まで伝わってくる。
その氷のように固まった緊張を砕くように、アルはふたたび口を開いた。
「とはいえ事態は最悪の結果となった。タバコ入れは玲の部屋から見つかった。玲、君が盗んだのか?」
最初は聞き違いだと思った。
それが自分のことをいわれていることに気づかなかったくらいだ。しかしアルは小さな針穴を通すような目で俺のことを見つめてくる。
「私の部屋から……ですか?」
「そう。君の部屋から見つかった。何か申し開きがあるなら聞こう」
言うまでもないが、俺はタバコ入れなど盗っていない。それどころかウェルベック卿の泊まる客間に近づいてすらいない。
だから俺はこういうしかなかった。たとえその程度では疑惑は晴れなくても。
「盗んだのは私ではありません。神に誓ってそういえます」
無神論者の俺がよくいうわと思う。けれども効果はあったようだ。特に生粋のクリスチャンであるだろう貴族三人はこの抗弁にハッとなり、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「大事なことなのでもう一度いいます。この件は濡れ衣です」
問題のタバコ入れが俺の部屋から出てきた。それ以外に俺の犯行を確証するものはない。ならば俺が盗ってないことを確証するものがあれば、証拠は相殺できる。
犯人扱いされた衝撃を隅に追いやり、俺は心の内では次の一手を考えていた。
(ひとつだけ潔白を証拠だてるものがある。でもそれが可能なのだろうか……)
降って湧いたトラブルにも動じない。それが従者の務めだろう。
「申し訳ありませんが、ご主人様。ひとつだけ月に尋ねたいことがございます。私の身の潔白を示すにあたり、非常に大事なことです」
「わかった。しかし逃げられないよ。そのことは理解しておくといい」
アルの許可を得たので、俺は月のところまで歩いていき、
「なあ、月。アレを持っているか?」
小声で彼女に耳打ちをする。
「アレですか? 美術の授業で使ったから持っているかもしれないですけど……」
「頼みがあるんだ。もしあればいますぐ貸してくれないか」
「いいですけど、アルバート様。自室に戻ってもよろしいでしょうか」
「証拠隠滅のためかい?」
「そうではありません。玲さんに頼まれたものがあるんです」
「わかった。ベアト、一緒についていって」
小さく頷いたベアト様と月が、三階へ向かう階段へ歩いて行った。
残されたアルとウェルベック卿はともに神妙な顔をしている。特にウェルベック卿は、従者である俺の抗弁に少しばかり腹を立てているようだ。
「わざわざ言い逃れるチャンスを与えるとは、ネヴィル卿はお優しいですな」
「まだ証拠不十分ですので、機会を与えないのは不公平かと」
「それがお優しいというのだ」
ふんと鼻を吹き、俺の顔を穴があくほど見つめてくる。
「玲。ぼくは君の疑惑が晴れることを祈っているよ」
アルのその言葉は確かに優しかったけれど、同時に疑いが晴れなかった場合、いかなる罰をも覚悟しておけ、という言外のニュアンスが感じ取れた。
「もう一度いいます。これは濡れ衣です」
顔を傾け、アルと卿を睨みながら、俺は三度目の抗弁を口にした。
従順な振りをしても、一枚皮を剥げばこのとおりである。生意気な従者と思われるだろうが、実際そうなのだから仕方がない。こんなことではどんなに地位を望んでも、忠誠心の厚い執事になるのは茨の道だ。
(だからいっただろう、俺は執事なんかに向いてないって)
自分の置かれた境遇を笑い飛ばし、俺は月たちが戻ってくるのを心待ちにしていた。




