我が同志
長く生きれば生きるほど、人は自分の過ごす土地の気候になれるものだ。
二月第三週。元の世界の感覚では、春は近いが、寒さもピークを迎え、ときに雪に見舞われる時期である。他の土地では違うだろうが、首都圏の感覚ではそうだ。
しかしここイギリスでは、夜こそまだ厳しい寒さだが、昼になると春の訪れというものを感じ始める。寒さのピークは一月で過ぎ、俺たちは新しい季節のとばくちに立つ。
「じゃ、オレは出かけるから。レイ、ユキ。ベアト様の従者、がんばれよ」
そんな最中、カーソンは今度はフランスに旅だってしまった。それを寂しがるほど親しくはないが、使用人をあまねく照らす太陽のような存在だったため、彼が不在となれば、使用人室はきっと火の消えた暖炉のようになってしまうだろう。
カーソンがフランスへ発った日の午後。俺と雪嗣はアルの書斎に呼ばれた。
「いいかい、あしたから君たちは下僕ではなく従者だ。最初は玲がベアトの従者、雪がぼくの従者としよう。このポジションは二週間ごとに交代にする。レディの扱いの拙さは君たちふたりのウィークポイントだ。立派な執事になるためにも、この試練を乗り越えてくれたまえ」
俺の感覚では、来たるべきものが遂に来たのか、という心持ちだった。
アルは俺たち使用人の教育を「調教」と呼んでいた。いうなれば、俺たちは馬なのだ。ご主人様の手綱さばきに的確に応えるよう、訓練されている身なのだ。
自分が馬に乗るようになってから、調教の大事さが身にしみてわかってきた。調教の甘い馬は非常に乗りづらく、逆に見事に調教された馬は春の空に浮かぶ雲に乗るような快感がある。
そして調教の先に待っているのは執事の座だ。俺と雪嗣を競争させていることは、すでに公然の秘密と化していた。どちらが次の執事になるのか。階下の住人たちは、主にダグラスさんの主導によってどちらが勝つか賭けが行われていると月はいっていた。
とりたてて執事になることにこだわりがあるわけではない。むしろ、そんな重荷から離れているほうが俺にとって気が楽だし、無事務められるか心許ない。
いずれにせよ翌朝から、俺はベアト様のお付きである従者となることになった。
◆
まず手始めの朝のお茶をお持ちする。ドアをノックし、返事を待って部屋に入る。
「やあ、レイ。おはよう」
「おはようございます、ベアト様」
彼女をお嬢様、ベアトリス様と呼ぶのは禁句。叩き込んだセオリーどおりに挨拶をし、俺は彼女のベッドサイドにお茶を給仕する。
「ストレートティーをお持ちいたしましたが、もしお好みがあれば、あす以降いかなる要望にもお応えいたします。いかがでしょうか、ベアト様」
「待て。おまえの淹れたお茶を飲んでから決める」
優雅な所作でティーカップを持ち、口元へ持っていかれる。このあたりのムーブはさすが貴族だけのことはある。そこらの女子高生とはわけが違う。
「美味いじゃないか。おまえは紅茶を淹れるのが上手だったんだな」
「はい。お屋敷での仕事で、最も自信がございます」
ベアト様は切れ味のあるコミュニケーションを好む方という印象があった。なので変にもっさりと謙遜することなく、直球勝負で挑むことにした。その結果やいかに?
「ふむ。その自信が味わいに出ているぞ。これならストレートで飲んでも不満がない」
「特にご所望される茶葉などございますでしょうか」
「しいていえばアールグレイだが、この味なら何でもいい。茶葉のセレクトはおまえに任せる。好きに淹れて、毎朝私を楽しませてくれ」
一見褒められているようだが、特定の茶葉を一方的に指定されるより、自由にやれといわれるほうが難易度が高い。例えば飽きがきたときの責任はベアト様ではなく、俺が背負うはめになるからだ。さすがご令嬢、自然体で困難なハードルを課してくる。
「ところで、ベアト様」
「なんだ?」
「男性の従者が付くことに何かご不満なり、ご要望なりございますでしょうか。私の浅学によりますと、女性のご令嬢には女性の侍女がつくとのことですが」
俺たちが着任する前は、家政婦長のダグラスさんがベアト様のお付きであった。侍女という立場ではないが、他にメイド以外の女性使用人がいなかったために。
「私はそういうしきたりに囚われない。それにダグラスには訳あって不満があった。ゆえにおまえとユキが付くと知って、安堵しているくらいだ。以前いったかもしれないが、私は女扱いされることを好まない。アルと同じように接してくれればそれでいい」
「御意」
「待て。その御意というのも気に入らない。無理やり傅いている印象がある。アルはそのあたり厳格かもしれないが、私はもう少しラフな関係を好む。上下の立場こそあれど、無礼でない程度に距離感を縮めて接しろ。わかったか?」
「承知いたしました、ベアト様」
お茶のみならず、受け答えにも自由度を設けられた。ベアト様は気づいてないだろうが、自由にやれというほど困難なことはない。どこに触れてはまずい一線があるかわからないからだ。それを無自覚にやる程度には、この方はわがままなご令嬢なのだった。前任者であったダグラスさんの苦労がしのばれる。
しかしラフにやれといわれた以上、無言の微笑を湛え、直立不動で侍っているわけにはいかない。俺は疑問に思っていた問いをひとつ彼女に投げかけてみた。
「ベアト様は屋敷の事業にも関わっておられるとのこと。失礼ながらまだお若いにもかかわらず、そのようなことに従事された理由などはおありなのでしょうか」
「なぜビジネスをやるのかという質問か?」
「はい。私の拙い知識では、まだ成人前でそのような事業に関わることは異例中の異例かと存じあげます。無礼を承知でいえば、珍しく感じられました」
「他人の尺度でものを見るな。私は私の尺度しか信じない。ゆえに物珍しくなることも理解している。だから珍しいというのは称賛だ」
ふふんと小さく笑って、ベアト様は紅茶をひと飲みする。
いまの発言からは、この人も俺たちぼっちと同じような独特のプライドの持ち方をしていることが察せられた。周囲から浮くことを避けるのではなく、傲慢ともとれる意志でもって是とする。
当然、俺のなかのベアト様の株はその発言で急騰した。ベアト様いいじゃん。俺、結構好みかもしれない。
「なあ、レイ」
そんなベアト様だが、今度は少し真剣な顔になり、俺のほうを見上げてきた。
「私はな、近い将来、アメリカに渡りたいんだ。カーソンのおまけで構わない。かの国をこのふたつの目で見てみたい。そこでは我が大英帝国が十九世紀に達成した経済成長と同じか、それ以上の富が築かれている。そして最新鋭の技術も。レイ、飛行機というものを知っているか?」
「はい。存じております」
「いまから十年ほど前か。アメリカのライト兄弟が発明した空飛ぶ技術だ。古い人間には車でさえ驚きのテクノロジーだったのが、今度は空だぞ、空。どうやって浮いているのか興味がある。そんな技術を生み出したアメリカという国にもな。いまは時代が変わった。ヴィクトリア朝のむかしのような『偏見と高慢』の時代ではないのだ」
自分の夢を語り、うっとりした顔になったベアト様。容姿の麗しさからは想像もできないが、この方はいわゆる男勝りなところがあるのだろう。夢の持ち方が女性離れしている。勿論、そういう女性がいたっていいし、俺は共感すら抱いた。
(それにしても飛行機か。元の世界ではすっかり枯れた技術ではあるけど……)
俺は二十世紀初頭の人間とは異なり、様々な科学技術が発達した百年後の世界をよく知っている。なので冗談めかした口調で、
「もしかすればの話ですけど、ベアト様。いずれその空飛ぶ飛行機で、世界中の人間が遠くの大陸まで自由に行き来し、果ては宇宙まで行く時代が来るのかもしれません。世界はいまよりずっと小さくなるわけです。そして船旅は、人びとの移動手段ではなく、純粋に観光目的に使われることになるのかと」
旧知の未来予想図を語ってみせた。するとベアト様はパッと目を輝かせ、
「おまえは面白い話をするな。まるでジュール・ヴェルヌの世界だぞ。私はそういう空想を聞くのが好きだ。いまでは魔法としか思えないことが、現実になる。わくわくさせられるのが大好きだ」
そういって、年頃の少女のような笑みを浮かべた。もっとも俺が語って聞かせたのは、歯の浮くようなロマンスでもなく、無骨なSF的空想ではあったが。
「いいぞ、レイ。アルに一方的に押しつけられたが、おまえを従者にして正解だったかもしれない。これからもその調子で、もっと私を喜ばせてみろ」
胸を張っていわれたが、さすがに毎回は無理難題がすぎる。さすが奔放に育てられたとおぼしきじゃじゃ馬娘だ。けれど今後のこともあるので、俺はその発言にイエスとは応えず、ただ困り果てたように苦笑いを浮かべるしかなかった。
「レイ。これからもよろしく頼むぞ」
「承知いたしました、ベアト様。それでは、失礼いたします」
ベアト様へのお茶の給仕、くわえてちょっとした面白話を提供した俺は、彼女の着替えを前にしてそそくさと部屋を出てきた。
そんな俺を、ドアの外で待ち構えている人がいた。ダグラスさんである。
「レイ、お嬢様のお相手はどうだった?」
「大過なくやり終えました」
「そう。それならいいんだけど、私、お嬢様のことが心配で心配で」
これまで事実上の侍女を務めていたダグラスさんは深い溜息をついた。
「私が何度、令嬢の心得を説いても一切耳に入れてくださらなかったの。やれ話がつまらないとか、やれ服のセンスが古いとか。このままじゃ社交界デビューなんてままならないでしょうに。レイ、あなたからもキツくいってやって頂戴。ベアト様はベアト様である前に、このネヴィル伯爵家の令嬢であらせられることを」
「御意。可能な限り努めてみます」
ダグラスさんにはそう答えたが、俺はベアト様の思想なり生き方なりがうっすらとわかってきただけに、特に変わる必要はないんじゃないかと思うようになっていた。
ただ、このままで社交界にデビューできるかどうかまでは保証できない。これだけ自分の考えをしっかりお持ちの方が果たして貴族の型にはまった世界に順応できるのか。将来を慮ってハラハラするダグラスさんの気持ちもわからないではない。
「ダグラスさん。社交界デビューはそれほど重要なものなのでしょうか?」
「当たり前じゃない。ご令嬢の運命はそこで決まるといっても過言ではないのよ。あなたはまだその重要さがわかってないようだけど、これはベアト様を思ってのことなの。社交界から外れた令嬢なんてなんの価値もないわ」
そこまでいうかと思ったが、俺はこの世界の価値観に慣れていない。熱っぽくベアト様の身を案じるダグラスさんの立場に立てば、お嬢様の奇異さは到底看過できないことなのであろう。
しかしくり返しになるが、俺はベアト様の思想を気に入っていた。
あれはぼっちと同じだ。クラスの輪から外れることと、社交界からこぼれ落ちること。ベアト様はぼっちであることを恐れず、我が道を進んでおられる。それ以上に尊いことはないのではないか。
「よくよく注意してお仕えいたします、ダグラスさん」
口ではそういったが、俺はベアト様に変化を期待する気はなかった。
我が道を行け、我が同志よ。
身分の上下を越え、そんな励ましの言葉が俺の胸中に芽生えたのだった。




