階下の休日
俺がグリムハイド・アビーに来てから一ヶ月。
その間に下僕としてやる下っ端仕事はだいたい覚え、自分としては雪嗣との差を縮めることができたと思っていた。
自信がつけば、心に余裕ができる。
だから俺は暇な時間を見つけ、ある技術を身につけることにした。
それは、乗馬である。
「車が普及する前は、みんな馬車に乗ったもんなんだけどね」
屋敷の運転手、かつては馬車の御者として務めていたバークマンさんが、いまでは飾りとなった馬を引き連れ、俺の気まぐれに付き合ってくれた。
最初は基本中の基本。馬に跨がることである。
「姿勢は背筋をぴんと伸ばして。きれいな姿勢が乗馬にとって大事なんだ」
馬は人の意志をちょっとした体重移動などから敏感に感じ取るため、姿勢を一定にし、馬にたいして送る情報をできるだけ絞り込む必要があるらしい。
ついでハミという口の中に挟んだ金属の動かし方。
そこは手綱を握った小指に少しだけ力をこめればいいという。馬の口は繊細なので、力を込めると暴れる原因となってしまう。
「慣れてきたら、常歩をやってみようか」
常歩とは読んで字のとおり、ウォーク、歩くことをいう。
「発進の合図は脚で馬の腹を蹴るんだ。蹴るといっても力一杯やってはだめ。足首を柔らかく使って」
俺の乗った馬は反応のいい馬らしく、小さい合図でもすぐに進んでくれた。
「いい感じだよ、レイ」
バークマンさんのお褒めが出た。しかし調子に乗るわけにはいかない。次の動作がわからずまごついていると、馬の動きが弱まってしまった。
「次は脚を交互に使って。馬の左肩が前にいったときに右脚を、右肩が前にいったときに左脚を使うんだ。ほら、リズムよくやってみよう」
俺はきっとのみ込みがよかったのだろう。それに馬もよく調教されていた。初心者でも反応良く動いてくれる。また、リズミカルな脚の使い方が、剣道の足さばきに似ているため、苦もなくできたのだと思う。おかげで俺はすぐ次のステップに進むことができた。
「次はトロット、速歩だね」
これは常歩で長時間、鐙に立っていることで正確な姿勢が身についていく。
常歩と異なり、強い上下の揺れがくるが、人馬一体となることで尻が跳ね上がることもない。
「レイは覚えが早いな。次はキャンター、駈歩という。さあやってみて」
発進の指令だが、ここでも姿勢が重要になる。背筋は真っすぐに伸ばし、手綱は適度な張りを保っておくこと。
「そうそう、その調子」
駈歩は常歩や速歩に比べてスピードが出る。そして激しいうねりで前後に揺さぶられる。しかしここまでくると馬を乗りこなす爽快感がたまらない。
「最後はギャロップ、襲歩だね。馬が全速力で走るよ」
「それはちょっと無理です。今回は駈歩までが限界かと」
「仕方ないね。それじゃ次のレッスンまで取っておこうか」
馬から下りて、俺は仕事に戻る。レッスンは俺とバークマンさんが午後休みをとれた日に行ったのだ。全休の日は二週間に一度しか訪れない。このあたりアルは厳しい。
俺は次の休みをいまかいまかと待ちわびた。
こんなに休みが楽しみだったことはいまだかつてない。学校の過ごし方自体がだらしのないものだったため、休日に集中力を発揮することがなかったのだ。
斯くしてその日は訪れた。二月の第一週である。
この日は冬の寒さがひと止みし、朝から清々しい空気の中、暖かい日差しが降り注いでいた。俺たちの世界でいうところの小春日和である。
こんな晴れ渡った日は、習いたての馬を繰って外出をしたい。
「レイ、きょうはみんなでピクニックに行かないか」
使用人室で一緒に飯を食っているカーソンに声をかけられたのは、そんなことをぼんやり考えているときだった。
「ピクニックですか?」
「ああ。西のほうに森に囲まれた小高い丘があるんだ。そこまで行って、シートを広げてみんなで昼飯を食おう。きょうは天気もいいし、野外で食べる飯は格別だぞ」
「現地までのアシはどうするんですか?」
「オレが車を運転する。あぶれた奴は馬だ。レイ、おまえ馬は乗りこなせてたっけ?」
「駈歩程度なら」
「それじゃ、問題なしだな。おい、ピクニック行く奴、手を挙げろ」
使用人室を見まわし、カーソンがみんなに呼びかける。
「わしはジジイだし、きょうは庭仕事もある。屋敷で待機しているよ。若い子だけで行っておいで」
バークマンさんが遠慮を申し出ると、隣に座っていたダグラスさんが、
「私が遊びほうけて誰がアル様、ベアト様のお世話をするんだい」
こちらも苦笑いしながら首を横に振った。
「デシャンはどうする? 晩餐の下ごしらえはもう終わっているんじゃないか?」
「ノン」
「まだ残っているのか?」
「ウィ」
「じゃあ、仕方ないな。おまえも屋敷に残っていろ」
きびきびとした口調で話をまとめ、カーソンが俺たち高校生組を振り返り、
「おまえらは強制参加な。せっかくの休みだ、オレの遊びに付き合え」
にこにこ顔だが、口からは容赦ないセリフが出た。そんなカーソンに、まっさきに逆らったのは雪嗣だ。
「私は銀食器磨きがあります。他の奴らと一緒に行ってください」
近づくなオーラがないぶん、対応が刺々しい。
けれど強引さという点では、カーソンのほうが一枚上手だったようだ。
「そんな仕事、戻ってからやればいいだろ。こんなに晴れた休日はめったにないぞ」
「ですが……」
「言い訳はきかん。そうと決まったら準備。シオン!」
「はい、カーソン様」
「サンドイッチを五人ぶん作ってくれ。貴族向けの食材を使ってもよし」
「作るのはいいですけど、ご主人様向けの食材は……使って大丈夫なんですか?」
「オレがいいといったらいいの。とびきり美味いサンドイッチを頼むぜ」
「御意。腕が鳴るぜ」
カーソンの指示に腕まくりをする紫音。
すべてがカーソンのペースで進んでいたが、そこにツッコミを入れたのが月だ。
「あらら、カーソン様は悪党ですね。アルバート様にバレたら大目玉ですよ」
「おまえが告げ口しなきゃ、バレやしねぇさ」
「ごめんなさい、私、口がゆるゆるなんです」
「なら、そのゆるゆるの口をオレが糸で縫い固めてやろう」
「ご勘弁くださいませ」
口では黒い発言をしている月だが、少しはしゃいだ感じがある。彼女はピクニックを楽しむ側の人間とみてよさそうだ。
そしてカーソンの指示を受け、ノリノリでキッチンへ向かった紫音も同類。俺は馬に乗って遠出ができるだけで満足であり、唯一打ち解けないままだったのは雪嗣だ。
「雪嗣。おまえも馬に乗るか?」
なごやかな空気に少しでも乗ろうと、俺は雪嗣に声をかけてみた。
「俺は馬には乗れない。カーソン様運転の車で行く」
ぼそぼそとした声で雪嗣は返事をかえした。やはり乗り気ではないのかもしれないが、拒絶しないぶんだけましといえる。修学旅行の頃と比べれば、みんな少しずつ変わっている。それはカーソンの人心掌握力が高いせいでもあるだろうけど。
とはいえ雪嗣に限らず、俺だってひとりぼっちでいることが好きだ。気の合わない連中とベタベタくっつくのは好きじゃない。けれど一緒の屋敷で否応なく働いていると、学校で過ごす毎日と違った感覚になるのも確かだ。誰かを助けたり、誰かに助けられたり、人のありがたみを感じることが多いせいかもしれない。
そんなことをぼーっと考えてお茶を飲んでいたら、あっという間に出発の時間となった。
「行くぞ、ガキども!」
カーソンのひと声に、荷物を持った紫音と雪嗣が車に乗り込む。月はあとについて乗り込もうかどうか逡巡した挙句、
「私、玲さんの馬がいいです」
「まじで? 安全運転保証しないよ」
「大丈夫です。信頼してますから」
そういって馬の前に跨がり、彼女は俺の前にポジショニングする。
馬を走らせると俺と月の体が上下に揺られる。そのたびに、彼女の結わいた髪が跳ね、うなじのあたりがくっきり見えてしまう。そのうち、いい匂いまでしてきた。
女の子と二人乗りなんて自転車ですらしたことがなかったが、ふたりの体が密着し、日常では得られない異次元の体験であることがわかってきた。というか、月の奴、俺に背中預けるのやめてほしい。くっつきすぎだぞ、まじで。
「玲さん、馬の乗り方、上手ですね」
「まだ全速力では乗りこなせないけどな」
「でも結構スピード出てますよ」
これが襲歩というやつか。馬が風を切って駆けていく。だが他方で俺はといえば、
「お、おう……そうだな……」
ひさしぶりにきょどってしまった。何かに負けた気がする。
「玲さん、そろそろですね」
ネヴィル家の所領である草原を十五分ほど進むと、森が見てきた。小高い丘を取り巻くように常緑樹が生い茂っている。
「遅かったな、レイ」
先についていたカーソンが車から降りて、丘にシートを広げていた。俺は月と密着していたため、体が硬直してなかなか馬から下りられなかった。
「玲さん、私が先に下りますね」
「お、おう……」
ようやく月の体と匂いから解放された。ここだけの話だが、未知の体験で俺の心臓はいまだにバクバクいっている。よく馬が暴れなかったものだ。
「月、玲、雪嗣。こっち来い! 気持ち良いぞ!」
そんな俺を呼んだのはテンションの上がりきった紫音。広げたシートが飛ばないよう、昼食を入れたバスケットを置き、彼女は真ん中でごろんと大の字になっている。
月はそこへたたたっと駆け寄り、一緒に横になった。
俺はそのテンションにはついていけず、彼女たちのほうへゆっくりと歩いた。
前方には雪嗣。彼は何かをいじっている。俺は少々迷った挙句、後ろからこっそり声をかけてみた。
「雪嗣、なにやってんだ?」
「ん、トランプ」
ぶっきらぼうに返し、彼の目線は下のまま。見れば、一式のトランプをシャッフルして、簡単にいえばひとりで手遊びをしている。
「おまえ、トランプなんて興味あったのか?」
「この世界は遊戯が少ないからな。それとベアト様がトランプ好きなんだ。彼女の歓心を引くためにも、こいつに慣れておいて損はない」
意外にも、こんなときでも雪嗣は屋敷での振る舞いを気にしているのか。休日だから思いっきり羽を伸ばそうと思っていた俺とは大違いだ。
「さ、そろそろ昼飯にしようか」
カーソンのひと声で、紫音がバスケットからサンドイッチを取りだす。彼女はまず最初に、俺たちではなく、上級使用人であるカーソンへナプキンで包まれたサンドイッチを手渡した。
「きょうは一風変わったサンドイッチを作ってきました」
「どこが違うんだ?」
「ベーコン、レタス、トマトの三種を挟んでみました」
「ほう、そいつは聞いたことのないメニューだな」
「美味しいですよ、がぶりといってください」
珍しいものを見たような顔でカーソンはサンドイッチにかぶりつく。
「美味い! 具材の奏でるハーモニーがたまらんな。この味覚のコンビネーションは大発明だぞ、シオン」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
カーソンは目を丸くするが、俺はそのサンドイッチが、いわゆるBLTサンドであることに気づいていた。きっとこの時代のイギリスにはそんな料理は存在していないのだろう。未来から来た紫音だからこそできた一品だ。
「シオン、おまえ将来はコックになりたいのか?」
「そこまで考えてはいません。今の立場で手一杯です」
「勿体ないな。こうやって新メニューを作るほど研究熱心なおまえが、キッチメイドで終わっていいわけがない。時代は変わっているんだ。夢は大きく持てよ」
たぶんその言葉は、カーソンなりの讃美だったのだろう。受け取った紫音も、ひさしぶりにぼっちらしく恥ずかしそうに俯いている。
やがて昼食を終え、おのおの自由行動に移ることになった。
「月、ちょっとそのへん散歩しようぜ」
「あ、紫音さん」
「ほら、こっち来いって」
月の手を引く紫音の強引さによって女の子組は森の奥へ消えていく。
「…………」
雪嗣は黙々とトランプ遊びをしている。彼のシャッフリングは中々の美技で、カジノのディーラーなんかとタメを張れるような手さばきだ。
もっともそのトランプ遊びに付き合えといってこないところが彼らしい。カーソンと俺がいるんだから、ポーカーでもブラックジャックでもできるというのに。
だから俺は、満足感に浸った腹を休めるかのように、シートの上にごろんと横になってしまった。暖かな日差しが降り注ぎ、涼しい風が行き渡る。軽い眠気が襲ってきて、このまま午睡でもとってしまいそうになる。
だが、休憩モードに入った俺に、座った姿勢のカーソンが声をかけてきた。
「なあ、レイ」
「どうしましたか、カーソン様」
彼は食後にビールを飲んでいる。首筋のあたりがほんのり赤い。
「いやな、ちょいと気になったことがあるんだ」
その赤い顔を俺に向ける。そして人差し指も。俺は彼が何をいおうとしているのか全然見当がつかなかったが、カーソンの問いは完全に予想外のものだった。
「レイ。おまえさ、あいつらの中で誰が好みなんだ?」
は? 好み?
「女の子だよ。ぽかんとした顔するな。男同士で話すことといったら、力自慢か色恋の話以外あるまい。ちなみにオレはルナちゃんが好みだな。ときどき酷いこというけど、そこがまたかわいい」
酒も手伝ってか、カーソンの表情はいつもの凜々しい彼とはうって変わり、にやにやと崩れたものになっていた。たぶん俺をからかっている顔だ。
「無論、シオンちゃんもいいけどな。彼女はおっぱいの大きさがグッドだ」
紫音の胸が大きいことは俺も薄々感じていた。しかしこれは罠なのだ。俺の反応を引き出し、うかつな発言をさせることがカーソンの目的だ。なのでじっと押し黙り、彼の好き勝手にさせることにした。
「ルナちゃんやシオンちゃんじゃないとすると……ひょっとしてベアト様か? 彼女を落とすのは一筋縄ではいかないぞ。そもそも身分の差があるしな。だが、そのギャップこそが愛を燃え上がらす可能性がないとは言い切れないがな……って、レイ」
「はい、なんでしょうか」
「なぜ黙ってる。つまんないじゃねぇか」
カーソンは俺の鼻先をつまみ上げ、実力行使に出てきた。だが、女の好みといわれても答えようがない。なんといっても月と紫音は、俺に告白してきたかもしれない相手だ。そのふたりを恋愛対象として見るだけで尻込みしてしまう。
「女の好みがないってことは、まさかアルバート様か?」
どうしてそうなる。飛躍が過ぎるじゃないか。
俺がひたすら押し黙っていると、急に飽きた顔になったカーソンが、今度は雪嗣のほうに近寄っていく。
「おい、ユキ。おまえの女の好みを教えろ」
「…………」
絡み酒のカーソンを雪嗣は華麗にスルーした。ガン無視というやつだ。
「ちくしょう、つれねぇな。おまえら、からかい甲斐がないぜ」
やれやれというように肩をすくめ、カーソンはビールを呷る。そしておもむろに、胸ポケットから袋を取りだし、その赤銅色の粉末をビールで流し込んだ。薬でも飲んでいるのだろうか。
「カーソン様。いま飲んだのはなんですか?」
そこはかとなく気になったので、俺は彼のほうに向き直り、問いを投げかけた。
「胃薬だよ。酔い止めの作用もある。オレにとっては常備薬ってとこ」
ごくごくとビールを飲み干し、カーソンは、急に遠い目になった。俺と雪嗣がことごとく相手にしなかったため、しらけてしまったのだろう。
ネヴィル家に来てからロンドンに行った以外では初、しかも仲間と連れ立っての外出だったのに、このバラバラな行動ぶりはどういうことだ。
俺は俺で乗馬にしか興味がなく、雪嗣はトランプ遊び。カーソンはそんな俺たちをからかおうとして大失敗。やはり根がぼっちな俺や雪嗣にとって、集団行動はいまだに苦手なカテゴリーなのだろう。転移したからといってそこは通常運転なわけだ。
(でも風が気持ちいいな。こうしてのんびりしているだけで幸せだ……)
屋敷の喧噪を離れて自由を味わうこと。それ以上の幸せは中々ないように思う。
帰り道も馬に乗れる。楽しみはまだ残っている。
(でも、そうするとまた月とくっつくはめになるのか……気が重たいな)
下僕という仕事に慣れても、女性の扱いには慣れていない。そういえばアルがいっていたな。レディの扱いを上達するようにと。
屋敷に戻ったら、今度はベアト様付きの従者になる。その命令を拒絶するわけにはいかない。ご主人様の指示を忠実に実践するのが使用人の役目だ。
これまでの仕事ぶりには自己評価で合格点を出しているが、これからの仕事ぶりはどうなってしまうのか。心配ではあるが、これ以上悩んでもしようがない。
(ひと眠りするか。瞼が重くなってきた……)
見れば、隣のカーソンも目を瞑っている。頭のなかを空っぽにし、俺は眠気に体を任せた。通り過ぎる風が、俺を眠りの世界へと連れて行ってくれた。




