嵐の前
一週間後、きょうはアルの義母、シンシア様のお出迎えをする日となった。
ただでさえきれいにしていた屋敷をもう一度掃除し、たまっていた洗濯物も一気に片づけてしまう。これらは全部、月の仕事だ。彼女の苦労がしのばれる。
俺はといえば、この日、アメリカから戻ったばかりの、家令のフレデリック・カーソンを迎えに、運転手のバークマンとともに、朝早くからロンドンへ向かっていた。
さしものロールスロイスも悪路には弱いと見え、長時間の移動は体に響く。具体的にいえば尻が痛い。しかしこれが最短ルートと聞かされれば、文句はいえない。
バークマンによれば、ネヴィル家はロンドンに出張先とも呼ぶべきタウンハウスを持っているという。領地であるグリムハイドは首都からは遠い。ビジネス案件を含め、ロンドン在住の人と用事のある際は、このタウンハウスが利用されるのだ。
タウンハウスに着くと、旅帰りだったカーソンは、すでに身支度を調えており、俺たちの到着をいまかいまかと待ち構えていた。
「遠くまでご苦労だった、バークマン」
「とんでもない、カーソンさん。これが私の仕事ですので」
「おや、見慣れないボーイがいるな。ひょっとして新入りか?」
すらりとした長身で、精悍な顔立ちは相当な美男子。くわえて艶やかな黒髪を湛えた外見は若々しく、二十歳といっても通用しそうなカーソンだったが、さすがに屋敷を司る家令という立場もあって、彼の表情には積みあげたキャリアが滲んでいた。俺たち高校生組より遙かに大人である。
なので俺は、丁寧にお辞儀をし、立場の違いを演出した。
「今度、第一下僕としてお屋敷に勤めることになったレイ・ニラサワと申します」
「ニラサワ? 変わった苗字だな。見た目も変わっているし、ひょっとして東洋人か?」
「はい。両親は日本生まれと聞いております」
「ああ、そうか。君は例の孤児院出身なんだな。アルバート様は慈善活動にご熱心だ」
軽口を叩くカーソンだが、慈善で雇われたと思われては癪である。
ここはできる男をアピールするときだと感じた俺は、カーソンの横に並ぶ大きなトランクケースを持ち上げ、
「カーソン様。これは私が運ばせていただきます」
「お、気が利くね。そんじゃ、頼もうかな」
「御意。孤児院出身がいかほどのものか、ぜひ働きぶりでご判断ください」
そういって、タウンハウスを出て、車両の後部にトランクケースを積み込んだ。あとに続いたカーソンはその様子を満足そうに眺めていた。ご主人様でない男に「御意」と答え、彼を様付けで呼んだことも含めて、俺の狙った立ち振る舞いは妥当だったのだろう。逆にいえば、家令とはそれだけ偉い存在ということになる。
俺も家令という存在をよく知らなかったが、先任である雪嗣の説明によれば、執事よりも上位のポジションで、ただの従者というより、主人の手がける事業の経営などにタッチするビジネスマンのような役割をこなすのだという。
ネヴィル家の場合は、確か投資業が生業だといっていたか。
アメリカに渡っていたのも、当地のビジネスの視察に赴いたのだろう。
あとからロールスロイスに乗り込んだ俺は、先に乗り込んだカーソンの横顔をちらりと見る。元の世界の基準でいえば、大学生といっても通りそうな若さだ。この若さでそんな重要なポジションを任されるとは、カーソンという男は相当な敏腕なのだろうと推察できる。
俺は率直にいって、彼の人となりに興味を持った。
「カーソン様、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ、レイ」
「家令という職業は、家業の経営のほかにどんなことをなさるのでしょうか?」
「以前の屋敷には家令はいなかったのか」
「ええ、執事のみでした」
最悪の執事、ジョーンズの顔が脳裏をよぎるが、頭を小突いてそれを追い払う。
そして走りだした車のなかで、俺はカーソンと会話をかわす。
「レイ、家令がやることは執事とそう変わらんよ。家業の管理をする以外には、ご主人様の従者として振る舞ったり、あと重要なのは酒類の管理だな」
「酒類って、アルコールですか?」
「ああ。敷地内の醸造場でビール造りをする家もあるし、フランス産ワインの買付をするのも執事の仕事だ。ネヴィル家ではそれらはオレの仕事。アメリカ行ったり、フランス行ったり、オレは出張ばかり。ご主人様のお相手はながらくやってないな」
「その執事ですが、先だって辞職されたとのことで」
「アルバート様から聞いてるよ。だからいま、お屋敷の責任は第一下僕の肩にかかっているといっていた。レイ、おまえは第一下僕か?」
「前のお屋敷での経験を買われ、そのようなポジションにつけていただいています」
「そんじゃ、オレのいないあいだはおまえとユキが執事みたいなもんだな。アルバート様のお相手は楽ちんだが、ベアトリス様の従者は骨が折れるだろう。もう彼女に会った?」
「ええ。中々の変わり者との印象でした」
「口さがないな。屋敷ではくれぐれもそういう発言は慎め」
「御意」
きびきびした態度でカーソンは俺の問いに受け答えた。見ための印象通り、エネルギッシュさを感じる人だ。俺は自分の上司にあたる人物に、若干好意を抱いた。
「他に質問はないか?」
こちらを向いたカーソンがにやりと笑って訊いてくる。
質問は、あるといえばある。
「ネヴィル家の使用人たちのことなんですけど」
「デシャンたち?」
「いえ、地位の低い面々のことです。私をはじめ、第一下僕のユキ、キッチンメイドのシオンなどは孤児院出身と聞きましたし、ご主人様がその経営に携わっていることも知りました。なぜそこまで慈善事業に熱心なのでしょう?」
「なるほど。その問いにはふたつの答えがある」
カーソンは指を二本立て、滔々と語り始める。
「ひとつは孤児院は先代のネヴィル卿の始めた事業であること。アルバート様はそれを引き継いでおられる。もうひとつは少しデリケートな話だ。内緒にできるか?」
「はい、神に誓って」
「よろしい。先代のネヴィル卿には嫡子がいなかった。そのままでは爵位を継ぐ者がなく、どこの馬の骨とも知れぬ遠縁の男子が継ぐことになっていた。そこへ隠し子が発覚してな。先代が身分の低い女に生ませ、孤児院に追いやられていた子供。それがアルバート様なんだ」
「その孤児院は俺たちがいたところと同じですか?」
「クラリック公と共同経営している孤児院だとすれば同じだ」
「確か、前の職場でそのように伺っています」
「じゃあ同じだ。アルバート様の熱心さの裏には、そういう事情がある」
俺たち転移者はみな、同じ孤児院に縁があった。それは貴族のアルも同じだったとは。
「とはいえ、あまり人聞きのいい話ではないからな。特に母君であるシンシア様と血がつながっていないことは、表沙汰にするのはタブーだ。諸々の件、うかつに口外するなよ」
「御意」
それから四時間ほどの旅路の果て。俺たちはグリムハイド・アビーに辿り着いた。
見れば、玄関先に一台の乗用車が横付けされており、後部座席のドアを開け、ひとりの淑女が大地に降り立った。
「まあ、カーソン。あなたもロンドンから?」
「そのようですな、シンシア様」
「いってくれれば、一緒にここへ来られたのに」
「私はアメリカ帰りでして。少々ばたついておりました」
ロールスロイスを降りたカーソンがその中年の女性と話し込んでいる。
(あの人がシンシア様か……俺たちと同じくロンドンから来たのか……)
俺は後ろ髪を引かれながらカーソンのトランクケースを屋敷へと運び込み、すでにベッドメイクを終えた月の指示にしたがって、一階にある家令室へと向かった。
「玲さん、シンシア様のお荷物も運んで貰っていいですか?」
「了解。母君のお部屋は?」
「二階の前から三つめの部屋です。こちらもベッドメイクが終わっています」
「わかった」
月に返事をし、玄関先へ小走りに駆けていく。
そこではまだ、シンシア様とカーソンが雑談に興じていた。
「そういえば、カーソン。執事と従者が一緒に辞めたって本当? 何不自由なく勤めていると思っていたのに、なにかトラブルでもあったのかしら」
「私もアメリカにおり、詳しいことは知りませんが、特にトラブルのたぐいがあったとは聞き及んでおりません」
「でもどうするのよ、代わりは? すぐに見つかるもんじゃないでしょうに」
「そこの下僕君が新しい使用人ですよ、レイ!」
シンシア様の荷物運びに現れた俺を、カーソンが鋭い声で呼び止める。
「なんでしょうか、カーソン様」
「こちらがアルバート様の母君でいらっしゃるシンシア様だ。ご挨拶をしろ」
「承知いたしました」
呼び止められた俺は静かな動きで前へ出て、
「レイ・ニラサワと申します。よろしくお願いします、シンシア様」
右手を胸にかかえながら、恭しく頭を下げる。
「ニラサワ……? 変な苗字ね。肌も黄色いし、ひょっとして東洋人かしら?」
「そのとおりでございます」
相変わらずツッコまれるところはそこか。いい加減、うんざりしてくる。
しかしこのやり取りは、軽口の応酬にはとどまらなかった。
「あらまあ、東洋人だなんて。しかも随分と目つきの悪い使用人だこと」
目つきの悪さにツッコまれると痛い。
俺はぼっち生活が長かったせいで目元がどんよりしている。
この世界に来てからはなるべく直そうと気合いを入れてきたけれど、この重要な局面で、素の自分がひょっこり顔に出てしまったのか。それとも、このシンシア様という人物が、人の顔色を読みとる、類い希なる眼力の持ち主であったのだろうか。
いずれによせ、シンシア様の態度には警戒心がむき出しになっていた。
「お荷物をお運びいたします」
「結構よ。ユキを呼びなさい。あなたに触られると悪い菌がつきそう」
「くそアマぁ……」
聞こえない程度の小声で俺は呪詛を呟いた。しかし、それがますます俺の目つきを悪化させたのだろう。
「カーソン。この下僕はなんなの。ちゃんと教育なさい!」
「申し訳ございません、シンシア様」
やがて時間は過ぎ、その日の晩餐となった。
シンシア様の歓迎会という雰囲気ではないが、出てくる料理は普段より少しばかり豪勢なものになっている気がする。デシャンが気を遣ったのだろう。
配膳をまかされているのは俺と雪嗣。
前菜の鴨のテリーヌを運び、アルとベアト様はその出来映えにうっとりする。
「美味しそうだね、ぼくは鴨が大好物なんだよ」
「繊細なテリーヌにくわえ、ソースの色合いが絶妙。お皿が一枚の絵画みたいだ」
いかにも貴族といった反応に、俺はあらためて二人が階上の住人であると感じた。
さて、その正面に座っているシンシア様のご様子はいかがだろう。
俺は前菜の皿を置いたあと、後ろに下がって彼女の挙動を見守っていると、
「アル。私はこの下僕の配膳は受けつけません」
なごやかに始まりかけた晩餐を、苦渋の顔つきで破壊していった。
「お義母様。そういう無茶はおよしください。レイが何か粗相をしましたか?」
「馬鹿をおっしゃい。この下僕は存在自体が粗相です。だいたいなんですか、その死んだ魚のような目つきは。配膳された料理まで腐ってしまいそうだわ」
頑張ってキリッとした顔をしているつもりなのに、そこまでいいますか。
「よく聞きなさい、アル。あなたが孤児院の経営に熱心なのはとてもよいことだと思っています。けれどそれとこれとは話がべつ。下賤の民からは下賤な使用人しかできません。カーソンさえ生まれは中流階級でしょうに。あんなのを従者や執事にしたら、それこそお屋敷の沽券にかかわる話ですよ」
シンシア様の文句は俺を素通りし、一方的にアルに向かっている。
ここは一発、アルには華麗な反論をしてほしいところだ。頼むぞ、アル。俺こと韮沢玲の名誉にかかわる問題だぞ。
「彼はまだ下僕ですよ、従者や執事にするとは決まっていません」
「でもこのお屋敷には、上級使用人はカーソンだけでしょう。あなただって、いまいる使用人から選ぶとおっしゃっていたではないですか」
「勿論、そういいました。これからの働きぶりを見て、私が当主として判断します」
アルは苦笑いしながらいなしたようだが、シンシア様は本気で立腹しているようだ。
隣に座るベアト様は「ちょっと言い過ぎじゃないか」という顔つきをしているように見えるが、俺のひいき目かもしれない。
だが、他人がいくらフォローしようとも、シンシア様の評価に俺は少々傷ついた。
学校内のヒエラルキーを思わせる屋敷のヒエラルキー、二十世紀初頭のイギリスの階級社会に苦もなく順応できたと俺は思っていた。
その自信が、揺らぐ。
(でも俺はこの屋敷で、目つきが悪いとか、階級の低い庶民だからって理由で馬鹿にされたくない……これは俺自身のプライドの問題だ……)
頭にきた俺は、怨念のこもった視線を、容赦なくシンシア様に注ぐ。
「ふん、食事がまずくなるわ。カーソン!」
「なんでしょうか、シンシア様」
「その腐った目の下僕にかわって、あなたが私の給仕をなさい」
「御意」
下僕失格の烙印を押され、俺は応接間で立ち尽くす。
入れ替わりにカーソンが俺の肩を叩くが、それで心が安らぐわけではなかった。