瀕死の獅子
「朝から何を言い出すんですか」
「おかしなことを言ったか」
真面目な顔で問い返されると、変にこちらが勘ぐっているようではないか。
いっそう顔が熱くなるのを感じて横を向くと、レオーネはふきだした。
「やっぱり、君はかわいいな」
……また、そうやって恥ずかしいセリフを当たり前のように言ってしまう。
照れ隠しにわたしは、話題を変えた。
「さっきの“ヨルティ”ってなんですか」
「ギリシャ人は子供にギリシャ正教にちなんだ名前をつけるから、伝統的に誕生日よりも、この聖人を祝う名前の日を祝うんだよ」
「“名前の日”、いつなんですか」
「俺にヨルティはないよ。たいていのギリシャ人は洗礼の時に、祖父母の名前をそのままもらうことになっているけど」
そう言われて、今ごろ気づいた。
彼はスイス衛兵だ。カトリックのスイス市民のはず……。
「レオーネってライオンの意味ですよね。どなたがお付けになったの」
「さあ、誰だろうね」
いつもの彼なら、笑ってはぐらかすところだ。
それが今日は違った。
「俺は獅子像のそばで捨てられていたらしい」
彼特有の冗談なのかと思った。
ただ、いつもはそんな悪ふざけは言わない。
レオーネは、まっすぐにこちらを見ている。凝視していると言っていいくらいだ。
恥ずかしかったが、あんまり至近距離で見つめられて、動くこともできない。
「拾ってくれたのはイタリア系スイス人の司祭で、だからレオーネと名がついたんだ」
わたしは驚いて顔をあげた。眼が合うとレオーネは、はにかむように笑う。
彼が自分自身のことを話したのは初めてだった。
ふんだんから、決して口数が多いわけではない。
レオーネは、ゆっくりと低い声で話し始めた。
低い、それでいてよく通る声音にわたしは、耳をそばたてる。
まるで子供に御伽噺を聞かせるようにレオーネは、幼いころの話をしてくれた。
スイスのルツェルン湖で彼は棄てられていたそうだ。
湖に面した岩壁に、彼の名前の由来となったライオン記念碑は刻まれている。
大きな岩に身を横たえるライオンは脇腹に槍が刺さり、瀕死の状態だ。これはフランス革命の際、王と王妃を守って命を落としたスイス傭兵を悼んで造られたのだと伝えられている。
冬の寒い時期のことで、籠の中で薄い毛布に包まれただけの赤ん坊は、肺炎を起こして死にかけていたらしい。泣きもむずがりもしないままの奇妙な赤ん坊は観光客の一人に発見され、後にカトリックの司祭に引き取られた。
レオーネは幼い頃から教会の中で育ったという。
その環境は、わたしによく似ている。
わたしは両親に棄てられたわけではなかったのかもしれないが、望まれぬ子であったことは確かだ。
物心つく前から、両親のそばではなく、修道院の奥深くで育てられた。
両親にとって、わたしは不要な存在で……だから、誰からも愛されず、一人きりなのだ。
そんなふうにひがんで、自分の周りが敵ばかりに見えたことさえあった。
でも、今のわたしは、レオーネのおかげで救われている。
愛してもらえないんだ。
優しくしてもらえないのは、わたしがいらない子だから。
そう思って、自分を責めて納得しようとしていた。
だけど、それはちょっとした勘違い。ボタンの掛け違い。いくら探しても、自分の中に理由なんて見つからない。
自分は被害者だと、捨てられた子だと、そんなふうに恨んでいるのは自分自身で、いもしない敵を作るのもわたし自身。
自分は“そういう人間”なんて、そんなふうに思わなくてもいいんだ。
そう思ってきたからこそ、“そういう目”に遭ってきたに過ぎないのだから。もう、“そんな人間”でいるなんてことは、止めてしまっていい。
わたしは、今のままで、そのままでいていい。
それだけで愛されるから……って、彼が教えてくれた。
わたしは椅子から立ち上がって、背の高い男の髪にそっと触れた。
自分の大胆さに少し驚きながら、硬い金髪が指にからむのをそのままくしゃくしゃにしてしまう。
「スイス衛兵隊には出自も重視されるから、こんな話をしたのは初めてだよ」
笑いを含んだ鮮やかな青い双眸が、目の前にあった。
「どうして……わたしに」
そう言ってわたしは視線をそらす。
外国人の眸はどうして、こんなにも不思議な色合いをしているんだろう。
吸い込まれそうな、深い奇麗な青。
鮮やかな眸の色は、人を縛り付け、魅了するかのよう。
それはいやな気分ではなく、むしろぞくぞくするような、期待と戦慄とが入り混じったような奇妙な高揚感だった。
「きみが同情してくれるかと、思ったから」
レオーネは髪を撫でるわたしの手をつかんで、そのままくちづけた。
「同情なんて、……しません」
わたしは手を引っ込めようとしたが、レオーネはそれを許さない。
かえって引き寄せられて、わたしはレオーネの胸の中に倒れこんだ。
テーブルをひっくりかえすんじゃないかとあせったが、うまくレオーネはわたしを抱きすくめた。
ほのかに香る樹木の香り。
これはサイプレス。
爽やかな清涼感のある森林の匂いを吸い込んで、わたしはおとなしくレオーネの胸に頭をもたせかける。
わたしたちの出逢いは、運命と呼ぶには馬鹿らしいほどの偶然だ。
高位の聖職者である父にとって、わたしという存在は許されないものであったから、隠蔽しなければならない。それを任されたのが彼だった。
法王を守るスイス傭兵隊の将校である彼が、なぜこうもわたしに対して優しく接してくれるのか。
甘い期待など抱いてはいけないと思いながら、もうどうしようもできないほどに、わたしは彼に惹かれていた。
「それは残念だ」
そう言いながら、レオーネはわたしの首をささえるようにして唇を近づける。
「なんっ!」
抗議の声は潰されてしまう。
冷たい唇が押しつけられ、やがてレオーネの舌が唇を割るようにして侵入してくる。
狂おしいほどの熱さのこもった深いくちづけ。
唇とは裏腹に彼の舌は熱く、逃げ場を失ったわたしは捕らえられ、痛いほどに絡み付けられて溶けていく。
レオーネの手が背や腰をまさぐるように動く。
触れらる場所がまるでやけどしたように熱くなる。
さらにのしかかられるようにレオーネが体重をかけてくるので、わたしはよろけてテーブルの上に仰向けに押し倒されそうになった。
死に物狂いの力でなんとか押しとどまり、声をあげるが唇をふさがれたままでは言葉にならない。
知らぬ人が聞けば、嬌声にも聞こえるかもしれない。
けれど、レオーネから与えられる熱は、唇だけではなく全身を蕩けさせてしまう。これ以上抵抗できなくなるのが怖い。
「んっ……ん……」
舌を絡めながら、わたしはさらに声を上げる。
ふいにレオーネの身体がこわばり、口腔内を蹂躙する舌の動きが止まった。