1,
花が咲くのは春が来たから。
花が咲いたら実は出来る?
「さーちゃん」
そう呼ばれた気がした。彼は思わず振り向いた。が、誰もそこには居なかった。
鼻の奥には砂埃のにおい。光合成する緑の青臭いにおい。白い花の甘いにおい。――人の匂い。何となく汗臭く油染みた少年少女と、その父母の化粧品の匂い。母親の洗濯物を思わせるお日様のにおい。
浮き足立つような春だった。
「五月?」
心配そうに母親は日比野五月を見上げた。この一年で彼は随分背が伸びて、母親の背を追い抜いてしまっていた。
「いや、何でもないよ」
顔を伏せて、そう答える。彼女の気遣いが若干煩わしく、しかし、これから離れて暮らすことになるのにとやましさを感じながら、目の前の建物を見上げた。
いわゆるバブル期の美術館といった方が、全寮制の高校と言うよりもよほどしっくりくるような、立方体の巨大な建物だった。外からは中の様子をうかがい知ることも出来ない。
「……にしても立派な建物よねぇ、まるで、昨日建てられたみたい」
まるで、心の中を読んだかのように五月の母親は彼に言った。しかし、よくわからないジョークだ、と五月は思う。
「ピカピカすぎて、お墓みたいにも見えるわね」
ふっと。
その一言を彼女が言った瞬間、何故か、五月の心臓は跳ね上がった。
何を言っているんだ?
こいつは?
「めでたい席でそういうこと言うなよ」
呻くような声を聞いた彼の母親はビクッと、肩をふるわせた。
「ごめんなさい、さつき、ごめんね……」
慌てて、そう取りなす彼の母への苛立ちと、申し訳なさで、彼は仏頂面になってしまう。
「あのう、写真お願いします」
ちょうど前の家族が写真を頼んできて、五月は自分の母親よりも早く、そのカメラを受け取った。
「はい、」
母親は何か言いたそうにしていたが、それを彼は無視して続ける。
「ボタンはここで、長押しお願いします」
「はい」
ファインダーの中に立っているのは父親と、母親、それに小さな女の子だった。何というか、いかにも幸せな家族という感じの。そしてファインダーの中から見ると、その少女はその両親にとても良く似ている、と思う。
「ありがとうございます!」
屈託なく、少女はそう言い、その両親も、ニコニコと笑いながら、立方体の中へと入ってゆく。なんとなく、その後ろ姿を見ていると、五月は母親に突かれた。
「五月、何ぼーっとしてんの」
「あ、すみません」
後ろにいた、男子生徒とおそらくはその姉に、会釈をして、慌てて看板の前に立つ。
母親は、先ほど彼が彼女に当たり散らしたことなど何でもないように、彼女は普通に五月に接していた。
「ではいきまーす」
姉らしき人がシャッターを押して、そして、その瞬間、五月はその人を見つけ、思わず目をレンズからそらした。
そして次の瞬間、彼の母親もその少女を認め、小さく、まぁ、と呟いた。
「なんて、綺麗な子なの……」