第9話:定時までに、世界を救います
「レオ様、同調を開始します。全リソースを私に」
「承知した。俺のすべてを使え、ベアトリス」
背後に立つレオ様の温かな手が、私の肩に置かれる。
その瞬間、全身を突き抜けるような膨大な魔力が流れ込んできた。
普通の魔導師なら一瞬で焼き切れるほどの出力だが、私の『構造解析』と前世の『プロジェクト管理能力』があれば、この奔流すらも整然としたデータとして扱える。
私の視界には、暴走する『共鳴石』を中心に、無数の不具合が赤い警告灯のように浮き上がっていた。
「……ひどいものね。プロトコルは無視、変数は書き換えられ、安全装置は物理的に破壊されている。これを設計した人間は、一度研修を受け直すべきだわ」
私は宙に指を走らせ、光のキーボードを叩くように魔方陣を再構成していく。
カイル王子が「美しい」と称賛していた古い術式を、容赦なく「削除」し、最新の「最適化コード」へと置換していくのだ。
「な、何をしている! 先祖代々の神聖な術式を書き換えるなど、冒涜だぞ!」
腰を抜かしたままのカイルが叫ぶが、私は一瞥もくれない。
「冒涜? いいえ、これは『デバッグ』です。動かないシステムに価値はありませんわ」
レオ様から供給される無限に近い魔力を使い、私は王宮全体の魔力網を一気に再起動させた。
暴走し、紫色の煙を吐いていた魔力炉が、私の制御下に入った瞬間、静かな青い輝きを取り戻していく。
ガタガタと震えていた王宮の建物が、嘘のように静まり返った。
空に漂っていた不気味な暗雲が、サーッと引いていく。
「……ふう。連結完了。異常終了したプロセスのクリーンアップも終了しました」
私は眼鏡を指先でクイッと押し上げ、手元の懐中時計を確認した。
針は、夕刻の五時を指そうとしている。
「定時、五分前ね。予定通りですわ」
『共鳴石』は今や、私の施した幾何学的な封印陣の中で、穏やかに脈動している。
もはや暴発の危険はない。
「す、すごい……。あんなに一瞬で、すべてを……」
周囲で見ていた下級魔導師たちが、感極まったように膝をつく。
彼らにとって、何日も不眠不休で取り組んでも解決できなかった地獄が、わずか数十分の「事務作業」のように片付けられたのだ。
だが、ここで空気を読まない男が一人。
カイル王子が、ふらつきながら立ち上がり、汚れを払って胸を張った。
「……フン、当然だな。ベアトリス、貴様のその能力、やはり王宮にこそ相応しい。どうだ、今回だけは貴様の無礼を許してやろう。戻ってきて、再び俺の婚約者として働くことを許可してやる」
あまりの言葉に、レオ様の周囲に次元を削り取るような黒い雷が走った。
私が手で制していなければ、王子は今頃、この世の物理法則から消去されていただろう。
「……殿下。一つ、大きな勘違いをされていますわ」
私は冷徹な事務笑顔を浮かべ、カイルを真っ向から見据えた。
「これは『奉仕』ではありません。先ほど、お使いの事務官長殿にサインをいただいた『緊急出張・特急対応』の業務です。後ほど、王国の国家予算一ヶ月分相当の請求書をお送りしますので、期限までにお振込みください」
「な……!? かね、金だと!? 婚約者の座を用意してやると言っているんだぞ!」
「お断りします。私は既に、別の場所で『終身雇用契約』を結ぶ予定ですので」
私は隣に立つレオ様の腕を、自分からギュッと抱きしめた。
レオ様は驚いたように目を見開いた後、この世の何よりも価値のあるものを手に入れたような、勝ち誇った笑みを王子に向けた。
「そういうことだ、小僧。この女の時間は、今後一秒たりとも貴様のような無能には売らん。……ベアトリス、定時だ。帰るぞ」
「ええ。本日の業務は、これにて終了ですわ」
私たちは、呆然と口を開けて立ち尽くすカイル王子をその場に残し、崩れた壁から堂々と王宮を去った。
背後で王子の「待て! 行くなベアトリス!」という見苦しい叫びが聞こえたが、今の私にはノイズにしか聞こえない。
夕陽に照らされた王都の街並みは、少しずつ日常の明かりを取り戻していた。
私の横を歩くレオ様が、少しだけ照れたように私の手を握り返してくる。
「……ベアトリス。先ほどの、終身雇用の話……。あれは、契約条件の合意と見ていいのか?」
「ふふ、どうかしら。レオ様の『誠意』という名のリソース次第ですわね」
私たちは笑い合いながら、私たちの「家」である工房へと歩みを進めた。
明日は、完全週休二日の初日。
最高の有給休暇が、私を待っている。




