第7話:魔王様の甘すぎる「有給休暇」の誘い
「ベアトリス。ペンを置け。今すぐだ」
工房の奥、私の執務室にレオ様の低い声が響いた。
私は手元の魔導計算盤から視線を上げ、眼鏡の位置を直す。
深夜二時。
王宮からの嫌がらせを跳ね除けつつ、新製品の「全自動洗濯魔導具」の回路設計を詰めていたところだった。
「あと少しなんです、レオ様。ここの魔力還流のバグを修正しないと、明日の納期に間に合いません」
「却下だ。お前が作った就業規則を忘れたわけではあるまい。過度な時間外労働は生産性を低下させる。これはお前自身の言葉だ」
レオ様は私の椅子の背後に回り込むと、有無を言わさぬ動作で私の肩に手を置いた。
彼の大きな手から伝わる体温が、冷え切った私の思考を少しずつ溶かしていく。
「ですが、経営者には責任というものが……」
「責任を果たすためには、資源の回復が必要だ。今の貴様は、魔力残量が危険域に達している」
レオ様が指先で空中に円を描くと、そこには私の魔力波形がグラフとなって表示された。
確かに、前世のデスマーチ中に見てきた「心身崩壊寸前の社員」と同じような数値が出ている。
「……認めます。少し、オーバーワークでしたわね」
「わかればいい。これは秘書としての命令、いや、パートナーとしての提案だ。明日は一日、有給休暇を取ってもらう」
レオ様はそう言うと、私の返事も待たずに、見たこともないほど複雑で美しい転移門を開いた。
門の先に見えたのは、王都の喧騒とは無縁の、透き通った碧い海と真っ白な砂浜だった。
そこは、かつてレオ様が支配していた魔界の最奥。
今は彼が私のために密かに整備した、最高級のプライベートリゾートだという。
「ここは……。魔力の濃度が、信じられないほど安定していますわ」
砂浜に降り立つと、潮風と共に濃厚なマナが肌に触れた。
呼吸をするだけで、すり減っていた精神が急速に充填されていくのを感じる。
「お前の好みに合わせて調整しておいた。景観、温度、湿度。すべてが完璧な最適解になるようにな」
レオ様はいつの間にか、窮屈な秘書官のコートを脱ぎ捨てていた。
シャツの胸元を緩めた彼の姿は、王都にいた時よりもずっと野性的で、それでいて神々しい。
私たちは、波打ち際に用意されたデッキチェアに腰を下ろした。
給仕に現れたのは、かつては恐ろしい魔獣と呼ばれたであろう影の精霊たちだ。
彼らは実に教育が行き届いており、無駄のない動きで冷えた果実水と、見たこともないほど豪華な軽食を運んでくる。
「……レオ様。私、こんなに休んでいていいのでしょうか」
「いいのだ。ベアトリス、お前は常に『誰かのため』に世界を整えてきた。王宮でも、この工房でもな。だが、今日だけは、お前自身を管理することだけを考えろ」
レオ様が、私のグラスに果実水を注ぎ足す。
その所作は優雅で、一切の迷いがない。
「私は……。ただ、効率が悪いのが嫌いなだけなんです。無駄な苦労も、無駄な悲しみも、すべては設計の甘さが原因ですもの」
「ああ、お前のそういう苛烈なまでの合理性が、俺はたまらなく愛おしい。だがな、ベアトリス。この海の美しさは、計算では導き出せないものだとは思わないか?」
レオ様が水平線を指差す。
夕刻に差し掛かった空は、燃えるようなオレンジ色から深い紫へとグラデーションを描いていた。
それは、どんなに完璧な魔方陣でも再現できない、圧倒的なアナログの極致。
「……負けましたわ。確かに、これを見ている間は、仕事の進捗を忘れてしまいそうです」
私は眼鏡を外し、目を閉じた。
波の音だけが、心地よい一定のリズムで脳内に響く。
「ベアトリス」
不意に名前を呼ばれ、目を開けると、すぐ近くにレオ様の顔があった。
紫色の瞳が、夕陽を反射して妖しく、そして優しく光っている。
「俺は、お前が作ったあのホワイトな工房が好きだ。だが、それ以上にお前という存在が、誰にも縛られず、自由に笑っている姿を見ていたい」
レオ様の手が、私の頬を包み込む。
その指先は驚くほど繊細で、大切に扱わなければ壊れてしまう宝物を触るかのようだった。
「……レオ様」
「この休暇が終わっても、俺はそばにいる。お前の人生のバグは、俺がすべて握りつぶしてやる。だから……」
レオ様の言葉が、熱を帯びて耳元に届く。
「いつか、仕事としての契約ではなく、永遠という名の終身雇用を結んでくれないか?」
それは、魔王からのあまりに甘すぎる、プロポーズにも似た宣言。
いつもは合理的な私の思考回路が、一瞬でオーバーヒートを起こした。
顔が熱くなり、どう答えていいかわからず視線を泳がせる。
「あ、あの……。それは、要件定義が不足していますわ。福利厚生や、契約期間の条件を……」
精一杯の強がりで返すと、レオ様は楽しそうに、低く笑った。
「時間はたっぷりある。休暇の間、じっくりと詰めようではないか。お前の望む条件、すべて呑んでやる」
夕闇が迫るリゾートで、私たちはその後も長く語り合った。
仕事のことではなく、ただ、二人の未来のことを。
心身ともに完全にデバッグされた私は、気づいていなかった。
私たちがこうして束の間の休息を楽しんでいる間、王都ではカイル王子が「最後の禁忌」に手を触れようとしていることに。
そして、その暴走が、私の新しい人生を再び飲み込もうとしていることに。




