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私らしく生きるため、悪役令嬢を退職いたします  作者: 月雅


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第5話:王宮のシステムが、完全停止いたしました


ベアトリスが王宮を去ってから、ちょうど一ヶ月。

黄金と大理石に彩られたソルスティア王宮は、かつてない危機に瀕していた。


「……また止まったのか! この役立たず共め!」


カイル王子の怒声が、薄暗い廊下に響き渡る。

かつては魔導具の光で昼間のように明るかった王宮だが、今はあちこちの照明が消え、不気味な静寂に包まれている。


原因は明白だった。

この国の貴族たちが「美しい祈り」と称して構築してきた魔法術式は、その場限りの継ぎ足しを繰り返した、複雑怪奇なスパゲッティコードだったのだ。

ベアトリスは在職中、自分の膨大な魔力を使い、外部から遠隔でそれらの術式を監視し、エラーが出るたびに密かに修正プログラムを流し込んでいた。


だが、彼女が「ライセンス失効」を宣言して去ったことで、その自動修復システムが完全に停止した。


「殿下、申し訳ございません! 大浴場の魔温調整回路が爆発し、現在は地下の排水システムも逆流しております!」


「食事はどうした! 厨房の魔導コンロが動かないとはどういうことだ!」


「それが……職人たちを呼びましたが、誰もベアトリス様の組んだ『最適化陣』を読み解けず、下手に触れた箇所から魔力が漏れ出し、手が付けられない状態でして……」


王宮内は、まさに地獄絵図だった。

貴族たちは「実務は卑しい」と逃げ回り、現場の下級魔導師たちは過労で次々と倒れていく。

優雅な生活を支えていたインフラが、音を立てて崩壊していた。


一方、その頃。

王都の職人街にあるアステリア・ソリューションズでは、穏やかなティータイムの時間が流れていた。


「レオ様、そのクッキー、私が開発した『高速オーブン』で焼いたものよ。火力のムラがないから、食感が完璧でしょう?」


ベアトリスは、白い磁器のカップを傾けながら微笑んだ。

彼女の前には、銀のトレイに美しく並べられた焼き菓子。

そして、その隣には、不器用そうに小さなクッキーを摘むレオナードが座っている。


「……ああ。お前が作るものは、すべてが理にかなっていて心地よいな」


レオナードの声は低く、甘い。

彼は秘書として、ベアトリスのスケジュール管理から工房の清掃、さらには彼女の食事の栄養管理まで完璧にこなしていた。

彼の圧倒的な魔力は、今や工房の基幹エネルギーとして、無駄なく、静かに循環している。


「ベアトリス様! 大変です、お客様……いえ、招かれざる客です!」


トーマスが慌てて奥の部屋から顔を出した。

工房の入り口には、王宮の紋章が入った豪華な馬車が止まっている。

降りてきたのは、王室の事務官長を務める初老の侯爵だった。


「ベアトリス・フォン・アステリア! ここにいるのは分かっている! 今すぐ王宮へ戻り、不具合を修正せよ! これは王命である!」


侯爵は工房の質素な内装を忌々しげに睨みつけ、土足で踏み込もうとした。

だが、その一歩が床に触れる前に、彼の喉元に冷たい「何か」が突きつけられた。


「……許可なく主の領域を汚すな。その足、二度と使えなくしてやろうか」


いつの間にか入り口に立っていたレオナードが、氷のような瞳で侯爵を見下ろしていた。

彼から放たれる殺気は、訓練を受けた騎士ですら失神しかねない濃度だ。


「な、なんだ貴様は! 私は王国の侯爵だぞ!」


「俺にとっては、ただの不法侵入者だ。ベアトリス、どうする。このノイズ、今すぐ消去していいか?」


レオナードが指先を微かに動かす。それだけで、周囲の空気がパチパチと放電を始めた。


「待って、レオ様。暴力はコストパフォーマンスが悪いですわ」


ベアトリスは優雅に立ち上がり、震える侯爵の前に歩み寄った。

彼女の目は冷徹なプロフェッショナルのそれだ。


「侯爵閣下。私は既に、正式な手続きを経て退職しております。王命とおっしゃいますが、私はもう王国の公務員ではありません。民間の経営者です」


「くっ、理屈を言うな! お前がいなくなってから、王宮の機能が完全に麻痺しているのだぞ! お前の仕業だろう!」


「心外ですね。私はただ、自分が私費で維持していた管理システムを引き上げただけです。自分たちで『美しい魔法』と称して保守を怠ってきた結果ではありませんか?」


ベアトリスは眼鏡の奥の瞳を細めた。


「もし、どうしても私の技術が必要だというのであれば、正式な業務委託契約を結んでいただきます。特急料金を含め、コンサルティング費用は王国の国家予算一ヶ月分。前払いでお願いしますわ」


「な、なんだと……!? そんな馬鹿な要求が通ると思っているのか!」


「ええ。お断りいただいて結構です。その代わり、今夜あたり王宮の魔力炉がオーバーロードを起こすはずですが……。どうぞ、皆様の『高貴な祈り』で解決なさってください」


ベアトリスが冷たく言い放つと、侯爵は顔を真っ青にして絶句した。

彼女の指摘通り、王宮の魔力状況はもはや一刻の猶予もないことを、彼は知っていたからだ。


「さあ、レオ様。営業時間は終了です。扉を閉めてくださいな」


「了解した、マスター」


レオナードが重厚な扉を閉め、頑丈な閂を下ろす。

外では侯爵が喚き散らしていたが、ベアトリスが施した防音結界の前では、羽虫の羽音よりも小さかった。


「……ベアトリス。お前は、本当にあの場所に戻らなくていいのか?」


レオナードが、少しだけ心配そうに彼女を見つめた。

ベアトリスはクッキーの最後の一口を楽しみ、満足げに頷いた。


「ええ。ゴミのようなソース……いえ、術式の修正に追われる日々はもうこりごりです。今の私には、守るべき会社と、大切な社員。そして、優秀な秘書がいますもの」


彼女の言葉に、レオナードは胸の奥が熱くなるのを感じた。

彼は彼女の手に自分の手を重ね、静かに誓った。


「お前の歩む道にある障害は、すべて俺が排除する。お前はただ、お前の望む世界を描けばいい」


王宮が闇と混乱に沈んでいく一方で、小さな工房には、効率化された、最高にホワイトな幸福が満ちていた。


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