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大丈夫




最初に彼が言ったのは、


「大丈夫だよ」


その言葉はまだあたたかくて、掌の中に息を吹きかけるみたいな優しさがあった。


玄関で転んだ私のひざを見て、慌てた顔でしゃがみこんだあの彼。

“痛かったね”と言えない不器用さを、私は愛しいと思った。


でも、それからの日々で、彼は何かにつけて

「大丈夫だよ」

を口にするようになった。


仕事に疲れて帰った夜も、


泣きそうな声を隠した朝も、


食卓の向こうで沈黙が落ちた瞬間も。



彼は必ず同じ言葉を置いた。

「大丈夫だよ」


はじめは安心だった。

そのうち違和感になった。

さらにそのうち、冷たさになった。


大丈夫、って何が?

誰のための大丈夫?

本当に私を見て言ってるの?


問いかけるたび、彼はまるで壊れた機械みたいに同じ返事を繰り返した。


「大丈夫だよ」


そのたびに、私は彼との距離が指一本ぶんずつ広がるのを感じた。


言葉は変わらないのに、その音だけが少しずつ色を失っていく。


砂時計の砂より静かに、確実に。



───

ある晩、リビングで向かい合った時、

彼の目はなんの波も立っていなかった。


私は一度だけ深く息を吸って、言った。


「ねえ。私たち、本当に大丈夫なの?」


彼は少しだけ視線をそらして、

そして――

やっぱりあの言葉を吐いた。


「大丈夫だよ」


その声には、もう私の名前の気配すらない。

私の形をした誰かに向けて発されているみたいだった。


胸の奥で、薄い氷が割れる音がした。


痛みよりも、静けさのほうが勝っていた。


その瞬間、私は悟った。


彼はずっと同じ言葉を言っているけれど、

そこに込められた“誰か”は、もう私ではないのだと。


最後にひとつだけ笑ってみせて、

私はコートを手に取った。


玄関を出る前、振り返らずに呟いた。


「……大丈夫だよ。」


その言葉は、彼がくれたどんな“大丈夫”よりも、

よっぽど軽く、よっぽど強く響いた。



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