第3話「紙の向こうの罪人」
鳴上スイは眠れなかった。
夜の静寂の中、部屋に積まれた原稿の山が、まるで息をしているかのように見えた。
文字はまだ生きていた。
ページをめくるたび、昨日書いた物語が、現実の世界の誰かを殺している――その感覚が、彼の心を締めつける。
「……もう、やめたい」
しかし、手はペンを握っていた。
机の上に開かれた原稿が、彼に問いかける。
「今日も、誰かを生かすか、殺すかを決めますか?」
文字は震えている。
スイは息を詰め、ペン先を見つめる。
書くべきなのか。止めるべきなのか。
――止めれば、物語が勝手に進む。
――書けば、読者が死ぬ。
部屋の影が、低く笑った。
「スイさん、選択の重さを感じていますね。素晴らしい」
「な、何が素晴らしいんだ……」
スイは声を震わせ、目の前のページに向き直った。
文字が動き、彼に語りかける。
「あなたは知っていますか? 読者の人生を、完全に理解できると思いますか?」
スイは息を止め、首を振った。
知らない。誰も知らない。
それでも、文字は迫る。迫られるまま、彼は書き始めた。
ペンが走る。文字がページを滑り、血と悲鳴が染み込む。
文字を打つたびに、読者の心臓が止まる――その映像が、彼の頭の中に浮かぶ。
だが、スイは止まらない。
止められない。物語が、彼を支配している。
窓の外、夜の街灯が雨に濡れて光る。
人々は傘を差して行き交うが、彼らの影は、紙の中の文字に飲み込まれそうだった。
「あなたは罪人ですか?」
ページから問いかけが聞こえる。
スイは手を止めた。
「違う……俺は、ただ……書くしかないだけだ……」
だが、影は冷たく笑う。
「罪人かどうかは、他人が決めます。あなたは、ただ選んだだけ」
――選んだだけ。
言葉は軽いが、重い。
誰かが死ぬ。誰かが生きる。
選択した瞬間、現実と物語の境界が、音もなく崩れ落ちる。
スイはページを閉じた。
目を閉じ、深呼吸する。
心臓の鼓動が、夜の静けさに吸い込まれる。
――だが、原稿は開かれたままだ。
文字はまだ、彼を待っている。
ページは微かに揺れ、まるで呼吸しているかのようだ。
「もう……これ、やめられない……」
スイは悟った。
物語は、彼の意志を超えて存在する。
そして、読者の死は、紙の向こうで、確実に起きている。
ペンを握る手に力を入れ、スイは小さく呟いた。
「……今日も、書くしかないのか……」
部屋の影が、笑った。
「ええ、鳴上スイさん。あなたの物語は、止まらない――」
夜は深まる。
そして、物語の血は、紙の上で乾かないまま、読者の心を穿つ。