第1話「開かれた物語には、血の跡がある」
電車のホームは、冷たかった。
雨が降っていたのか、靴先が水を含んでいたのか、そんなことすらどうでもよくなっていた。鳴上スイは線路の縁に立った。眼下の黒い溝に、自分を落とせば、すべてが終わる。すべての痛み、孤独、退屈――。
「さよなら、世界。」
だが、足を踏み出す直前、耳の奥に声が響いた。
――読むの、やめないで。
振り向くと、ホームには誰もいない。雨の音だけが、リズムを刻んでいた。
スイは眉をひそめ、首をかしげる。幻聴か。あるいは、疲れすぎた脳の戯れか。
次の瞬間、世界は光に塗り替わった。
目を開けると、知らない部屋にいた。壁は白く、机の上には一冊の本。
表紙には、こう書かれていた。
『死にたがりの推理作家は、今日も読者を殺している』
—鳴上スイ、様
スイは息を呑んだ。自分の名前。自分の字ではない、誰かの筆跡。
そして、中身を開くと――文字が動いていた。
「この小説を読むと、人が死ぬ」
ページをめくるたびに、まるで血が染み込むような文字列。
スイは自分の手が震えるのを感じた。息が詰まる。
「な、何だこれ……?」
文字は続いた。
読者は、あなたの選択に従って死ぬ。
生きたいのか、死にたいのか。
その答えは、あなたが書く物語にある。
スイは机を叩き、叫んだ。
「な、何言ってんだ! これは……冗談だろ!」
だが、本は静かに、彼を見つめていた。
ページをめくるたびに、現実のホームで倒れた誰かの名前が、文字として浮かぶ。
――読者が死んだ。
恐怖に支配されながら、スイは思った。
「俺が……書くのか?」
部屋の隅に立つ影が、低く笑った。
「ええ、スイさん。あなたは、物語を完成させる必要がある」
声は甘く、冷たく、確実に現実に根を張っていた。
スイは震える指でペンを取った。
「書く……のか?」
ペン先が震える。ページは白紙だ。
「読ませたくない」と思った瞬間、頭の中に読者の顔が浮かんだ。
笑顔、泣き顔、無表情――すべて、読んだ瞬間に死ぬ運命の人々。
スイは目を閉じた。ペンを握る手は止められない。
書き出すと、文字が勝手に紡がれるように流れ出した。
――彼の指は、知らぬ間に物語の血を吸い上げ、読者を追い詰める小説を書き始めた。
部屋の空気が歪む。ページの隙間から、彼の知らぬ声が聞こえた。
「さあ、続けて……」
スイは震えながらも、書いた。
書けば書くほど、部屋の影が微笑む。
彼は知っていた――これを止められない。
止めた瞬間、誰かが死ぬ。読者が、現実で。
「俺は……作家なのか……?」
窓の外、雨はやんでいた。だが、ホームには誰もいない。
電車も、もう来ない。世界は静かに、スイの書く物語を待っていた。
ページをめくるたびに、血と文字が混ざり合う。
一つの真実が、彼を呑み込もうとしていた。
――物語は、読者を殺す。
そして、作者もまた、死を覚悟しなければならない。
スイはペン先を見つめ、囁いた。
「書く……続きは……俺が……」
部屋の影が、笑った。
「ええ、鳴上スイさん。今日も読者を殺していただきましょう――」