4話
学校の最寄駅から電車で乗り換えを3回、時間にして約1時間ほど掛かる場所にそのマンションはあった。
蒼井さんと向かっている最中、特に会話もなく気まずさを感じる俺に対して彼女は素知らぬ顔でスマホを見つめるばかり。
日中に堂々と制服姿で街中を歩く彼女は、おそらくサボり魔に違いなかった。
案内されたマンションは俗に言う高層マンションというやつで、エントランスだけでもホテルのロビーほどの広さがあった。
蒼井さんは手慣れた手つきでセキリュティを解除してどんどん中に進んで行く。どう見ても場違いな俺は彼女に着いていくので精一杯だった。
豪華な内装のエレベーターに乗り込んで24というボタンを押したところで、ようやく俺は彼女に話しかけることができた。
「どこに向かってるんだ?」
「どこって、アタシの家だけど」
「蒼井さんの家って……は?」
「いいから着いてきなよ。会いたいんでしょ、たーちゃんに。ほら、行くよ」
「あ、おい!」
あっという間に24階に着いたらしく、すたすたと歩き始める蒼井さんをとにかく追いかける。
ローマ字で「AOI」と書かれた部屋の前で立ち止まり、カードキーで鍵を開ける様子を見るに間違いなくここは彼女の家のようだった。
「何突っ立ってんの?入りなよ」
「いや、でもさ」
いくら橘さんの為とはいえ、初対面の女子の家に上がるのはどうなんだ。
「変に意識しなくて大丈夫だよ?」
「いや、意識するなって方が無理だわ!それにご家族にはなんて説明するんだよ。こんな真昼間から学校サボってるのにさ」
「ああ、言い忘れてたけどアタシ一人暮らしだから。だから大丈夫」
一体何か大丈夫なのか、全く分からない。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、蒼井さんは手招きしながら部屋に入ってしまった。
「……はぁ」
ここまで来たらもう自棄だ。そもそも学校を抜け出してる時点でどうかしてる。
気を利かせてくれた夕凪の為にも行けるところまで行くしかない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
「お邪魔します……」
恐る恐る入ったその部屋は外装に反してとても質素だった。家具家電も最低限しかなく、目立った飾りつけも特にない。
派手な蒼井さんの外見とは正反対の、生活するだけの部屋。それが正直な感想だった。
「……本当に、のこのこ着いてきたんだ」
「え?」
振り返ると目の前に蒼井さんがいた。
真っ暗な部屋で扉を背にして、表情はよく見えない。ゆっくりと近付いて来る彼女に、思わず後ずさりしてしまう。
なぜ、気圧されてしまうのか自分でも分からない。でも彼女から得体の知れない感情が発せられているのは確かだった。
「普通さ、こんなところまで着いてこないでしょ。聞いてた通り、本当にお人好しなんだね君。それか……」
いつの間にか壁際まで追いつめられている。
もう顔がはっきりと分かるくらいまで距離を詰められているが、それでも蒼井さんの表情は全く読み取れない。ただ暗く沈んだ瞳が、俺自身を映すのみだ。
「そんなに好きだったんだ、たーちゃんのこと」
まるで心の中を探られているような、無感情な声。なぜ蒼井さんがこんな尋問じみたことをしているのか、見当もつかない。
「……そうだよ」
それでもここで引き下がれば、橘さんと付き合ってきたこの半年間を自分自身で否定してしまうような気がして嫌だった。
「……へぇ」
「確かに俺は彼女と釣り合わないかもしれない。周りからも散々そう言われたし、今だってどうして橘さんが俺に告白してくれたのか、見当もつかない。でも、それでもいいんだ」
蒼井さんは口をはさむことなく、まるで何かを試しているように俺を見つめ続ける。
「半年間、本当に幸せだったし楽しかった。橘さんは遊びだったって、そう言ったけどそんなの信じられない。だからもう一度彼女に会って話したいんだよ。そうしない限り、納得なんて出来ない」
「……」
「橘さんに、会わせてくれ……!」
言った。名前しか知らない、しかもさっき会ったばかりの人間に。
途端に体温が上がるのを感じる。そりゃあ恥ずかしい。でも後悔するくらいなら、恥をかく方がまだマシだ。
蒼井さんは少し考えた後、ゆっくりと奥の左側にある扉を指差した。
「ありがとう」
俺は返事をしない蒼井さんに背を向けて、足早に扉へ向かう。
「ふぅ……」
この中に橘さんがいる。一度深呼吸をした後、意を決して扉を開けた。
「橘さん――」
目の前にはベット。
それ以外は殆ど物が置いていない、質素な寝室。真っ暗なその部屋には、誰もいない。
「君って本当に馬鹿なんだね」
「えっ――」
俺が振り向くのと蒼井さんが倒れこんでくるのはほぼ同時だった。そのせいで俺はベットに押し倒される形になってしまう。
状況が理解できず混乱する俺を、蒼井さんは不敵な笑みを浮かべながら覗き込んできた。
「ふふ、捕まえた」
「ふざけてる場合じゃないだろ!」
「別にふざけてないよ?アタシはここにたーちゃんがいるなんて、一言も言ってないし」
「騙したのか……!」
蒼井さんはニヤリと笑いながら顔を近づけてくる。
「だから騙してなんてないって。たーちゃんに会わせてあげるなんて、言ってないよ。ただ聞いただけ。会いたいかって」
「このっ……」
抑えつけられた腕を振りほどこうとするが上手くいかない。
態勢のせいもあるが、女子の中では高身長である彼女の体格のせいでもあるだろう。
「それよりさ、皆川君って結構熱い人なんだね。酷い振られ方したのに、こんなに一生懸命になっちゃって……可愛い」
「ふざけるのもいい加減に――」
「――アタシと付き合おうよ、皆川君」
時間が凍り付いたような気がした。
静まり返った部屋の中で俺と蒼井さんの息遣いだけが妙にうるさく聞こえる。
彼女は一体今、何を言ったんだ。
余計に困惑する俺を、蒼井さんは反応を窺うようにじっと見つめていた。
「あれ、聞こえなかった?じゃあもう一度言うね。アタシと――」
「ふざけんなよ!からかうのもいい加減にしろっ!」
「冗談じゃないよ。本気」
「さっきから意味分からないことばっかり言いやがって!大体、蒼井さんは橘さんの親友なんだろ!?」
「そうだけど……それがどうしたの?」
「親友の恋人に告白するって、どう考えてもおかしいだろ!?」
「もう別れたんだから、別に関係ないじゃん」
「でもまだ別れてたったの一日だ。それに俺たちだって出会ってまだ数時間しか経ってないのに、どう考えてもおかしいだろうが!」
俺の言い分を、蒼井さんは興味なさそうに聞いていた。彼女の常識は一体どうなっているのだろうか。
「誰かを好きになるのに、時間とか過程ってそんなに必要かな」
「……なに言ってんだよ」
「アタシね、誰かを好きになるのに理由なんていらないと思うの。恋をするってね、もっとずっと直感的なもの。一目見たときに心臓をギュッとされるくらいの、そんな情熱的なものだと思うの」
そう言った彼女の目は、どこか遠くの誰かを見ているようだった。
「皆川君、言ったよね。もう一度話さないと納得できないって」
「……ああ」
「でもさ、話したとして納得なんて出来るのかな。それだけ好きだったのに、学校を抜け出しちゃうくらいなのにさ、話しただけで納得できちゃうなんて……それこそ、嘘だよ」
「それは……そうかもしれないけど」
「でしょ。だから理屈なんて関係ない。さっき皆川君は親友の恋人に告白するなんて、可笑しいって言ったよね。でもアタシにとってはそんなことは些細なことなんだよ?だから、こうして今君に告白してるんだから。まあ実際は元恋人だし、問題はないんだろうけど」
まるで当たり前のことを小さな子どもに言い聞かせるように、蒼井さんは俺にそう囁いた。
彼女の話が全て可笑しいとは思わない。多少理解できる部分だってもちろんある。
でもそれ以上にこの状況は明らかに異常だった。
これ以上彼女に流されてはいけない。自分の直感がそう警鐘を鳴らしているのを感じた。
「……そんなのおかしいだろ。じゃあ蒼井さんはもし俺が親友の恋人だったとしても、彼女を裏切れるってことなのかよ」
「うん。裏切り者って呼ばれたって構わない。アタシは好きな人の為なら、周りにどう思われたって気にしない」
そう言い切った蒼井さんの目には、決意の火が灯っていた。
そして彼女は顔をゆっくりと近づけてくる。世界がスローモーションになったような気がした。
「蒼井さん――」
「信じられないなら、証明してあげる。アタシが、本気だってこと」
蒼井さんは俺にキスをした。
柔らかな感触と温かい息遣いを感じる――
「いてっ」
「っ……」
――と同時に歯に痛みが走る。皮肉なことに、その痛みが俺を一気に現実へと引き戻してくれた。
「……っ!」
「あ――」
一瞬の隙をついて蒼井さんを押しのけて、一気に部屋を出る。そのまま一目散に駆け出した。
「皆川君――」
後ろで蒼井さんが何か言っていた気もしたが、そんなこと気にしている場合じゃない。
後ろを振り返らずにそのまま息が上がるまで走り続けた。
『アタシと付き合おうよ、皆川君』
彼女が何を考えているのか、全く理解できない。
結局その日は、どれだけ走っても彼女の声と、前歯の痛みが消えることはなかった。